東電が22日公表した『福島第一原子力発電所及び福島第二原子力発電所における対応状況について(平成23 年12 月版)資料一覧』の中に『○別添:現場の声』という記載がある。『…事実でないことも含まれている可能性があるが…』の断り書きがあるが記録として残しておきたいと思うので引用する。
『現場の声』だけではなく『トップの声』も公表して欲しいものだが。
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別添 現場の声
平成23 年3 月11 日に地震が発生し,津波が襲来,全交流電源が喪失して以降,現場
作業員は,厳しく困難な現場での対応が続いた。
今回の事故対応にあたった事実関係の調査の中で,聞き取り等を通して,現場作業の
厳しさ・困難さが明らかになった。以下に,当時の状況に関する現場の声を掲載する。
なお,これらは聞き取り等により得られた本人の記憶による生の声であり,事実でな
いことも含まれている可能性があるが,事故対応の状況を理解する一助として,敢えて
掲載したものである。
【中央制御室の状況と,運転員による現場確認時の状況】
○ 津波が来た時刻に1,2号の電源盤のランプがフリッカ(注:点滅)し,一斉に消
えていくのを目前で見た。DG が止まりバタバタとランプが消えていく状況だったが,
何が起きたのか分からなかった。中操(注:中央制御室)の照明は,2号機側はま
っくら,1号機側は非常用灯(薄暗いわずかな照明)に切り替わった。警報が全て
消えて一瞬シーンとなった。2号側が先だったような気がする。目の前で起こって
いることが,ほんとうに現実なのかと思った。
○ いつ頃か時間的には記憶に無いが,中操に運転員が「ヤバイ,海水が流れ込んでき
ている」と大声で叫びながら戻ってきたので,津波で海水が流入してきていると思
った。
○ RPS(注:原子炉保護系)のMG セット(注:電動機・発電機セット)復旧で現場に
行った補機操作員から後で聞いた話。1号は起動できないのですぐに帰ってきた。
2号は起動して地下から聞いたことのない轟音がしてきたのであわてて階段を上
がった。S/B(注:サービス建屋)入り口から水が入ってきていた。水をかぶりな
がら引き上げてきた。
○ 恐怖心というよりも電源を失って何も出来なくなったと思った。若い運転員は不安
そうだった。「操作もできず,手も足も出ないのに我々がここにいる意味があるの
か,なぜここにいるのか」と紛糾した。(最後はどう収めたのですかの問いに対し
て)自分が「ここに残ってくれ」と頭を下げた。続いて別の当直長も無言で頭を下
げてくれた。「若い研修生2人は免震棟に避難してくれ,皆それでいいな」と話を
し,2人を退避させた。
○ 手も足も出なかった時、何も出来ないから非常用の乾パンと水を取ってきて食べろ
と指示し、少しでも落ち着かせようとした。
○ 一部の人からここに残ってどうなるんですかという意見があり、他の人も口には出
さないが同じような思いだったと思う。気分が悪くなって横になった人もいて、そ
の人は今も(注:聞き取り時点)出社できない状況。
○ パラメータが見えてくる前は、五感を失っている状況だった。
○ 訓練を色々と行っていたが、それを活かせる状況ではなく、手足を奪われたような
状態の中、見れるデータを見ていたといった状況だった。水素爆発のあたりから、
個人差もあるが落ち着かなくなる者もいた。
○ 中操内では、被ばく線量を下げるよう、当直員を1 号側から2 号側に寄らせてしゃ
がませた。11 日の夜から明け方にかけて。主任級でも目を見て不安がわかった。
○ 爆発後,メンバーが体調不良で3人くらい横になって起きられないような状況だっ
た。
○ 情報がなく,プラントの状態も見えない中で,何かをしていないとおかしくなりそ
うだったので,次の作業を探して現場で作業をしていた。情報がなかったから,作業
が出来たのだと思う。
○ 大物搬入口から水が入って来ているのを発見、のぞき込むとシャッターの下から水
がしみ込んできた。その直後シャッターが吹き飛び建屋内に津波が入って来た。2
人で走って離れたが恐怖で震えが止まらなかった。
○ 4B D/G の運転状況の(確認の)ため、共用建屋に入ろうとしたが入り口ゲートに
閉じ込められてしまった。警備員に連絡したがつながらず、2~3分後に津波が襲
ってきた。水が下から侵入し、もう死ぬのかと思っていたところ、同じ状況にあっ
た先輩社員のゲートのガラスが割れ、脱出でき、自分のガラスを割ってくれたおか
げで脱出することが出来た。その時にはあご下まで水が来ており、本当に怖かった。
○ 現場に行く際に、指輪などが汚染して持ち出せなくなるかと思い、一度は外したが、
最悪の事態が起きたときに自分だと分かるように、また、お守りとして身に付けて
現場に向かった。
○ 中操、現場とも真っ暗で、家族の安否、外部の様子も分からず(ニュースが見れな
い)不安でいっぱいだった。
○ 電源が無くてPHS,ページングとかが使えない中で,負荷をケーブルボルト室で
落とす際に,連絡手段として人を中操からケーブルボルト室まで何人か配置してや
りとりした。中操入口,食堂,現場控え室,ケーブルボルト室でだいたい5人ぐら
い配置した。多い時はタービン建屋を一人50mぐらい何回も往復した。
○ 1号機爆発により3・4号中操の線量が急上昇。当初1号機の発電機内の水素が爆
発したものと認識しており、なぜ屋外の線量が上がるのが良く分からなかった。通
信手段が当直長席のホットラインのみで、中操外の状況や情報がほとんど分からず、
とても不安だった。
○ 3号機がいつ爆発するか分からない状態であったが、次に交替で(中操に)行かな
ければならなかった。本当に死を覚悟したため、郷里の親父に「俺にもしもの事が
起きたら、かみさん、娘をよろしく」と伝えた。
○ S/C スプレイ弁の開閉、炉注入弁の開閉、D/W スプレイ弁の開操作を実施したが、
暗闇の中、足場が無い場所で操作する恐怖以上に、近くでSRVの動作音と振動を
体感した時、「この蒸気が漏れたら自分は死ぬのだろうな」と思いながら操作した。
○ 中操に戻ると真っ暗で、HPCI、RCIC のランプとDC 電源のランプしかついていな
い。現実味がなかった。本当に起きている事なのか?実感がわかなかった。
○ 中操で3秒に0.01mSv(ずつ)上がり始めて、(中操から)なかなか出れない時は、
もうこれで終わりなんだと思った。
○ 汚染覚悟で保管されていた非常食の乾パンを食べたり,飲料水のミネラルウォータ
ーを飲む際は,全面マスクを外さざるを得なかった。
○ 生きていく(操作&監視)には食べるしかなく、身体の事が心配だった。
○ 更衣所の窓の外には信じられない光景。あの防波堤がドミノのようにあっさりと倒
れている。門型クレーンはSWポンプに突き刺さり,流された幾台もの車。真下か
らは鳴りっぱなしのクラクションが聞こえた。
○ 揺れの最中から,アドレナリンが大量に出たのか恐怖感はあまりなく,妙に冷静だ
ったような気がする。まるで夢の中の出来事ような・・・。少なくともこの状態が
2Fへ待避するまで続いた。
○ 揺れが徐々に大きくなる中,正面に見えた6号スクラムの赤く光るANN窓,「5号
機も来るな」と振り返った数秒後に5号機もスクラム信号発信。火災警報もホコリ
が原因で多数発生,中操内も薄白くなった。鼻が詰まる、マスクしたい。
○ パラメータを確認したりしていると,「ドン」という衝撃音。皆「?」という表情
を浮かべていたが,まもなく5号D/Gが全台トリップ。5号中操は非常用の白熱
灯だけになってしまった。
【復旧作業での声(ベント)】
○ ベントにいける人間を募った。比較的若い操作員も手を挙げた。涙が出る思いだっ
た。当直長をそれぞれ割り振るように編成した。完全装備で線量が高い状況もわか
らない中に行かせるので、若い人は行かせなかった。
○ 3 組目まで準備したのは,線量,体力や余震で引き戻すことなどを考えてのもの。
同時に出発すると緊急避難時の救出ができない恐れがあるため,1 チームずつ行く
ことを指示した。
○ 当直長の自分が現場に行きたいと思った。言葉にも出したが、同僚から「お前は最
後まで指揮をとれ!」と言われた。頭が下がった。言葉もでなかった。申し訳ない
思いでいっぱいだった。
○ 同時に出発すると連絡が取れないので、1 チームずつ行きましょうとなっていた。
建屋へは南側の二重扉から入った。すごいモヤがかかっていて、なぜこんな状態な
んだと思った。通常は乾燥しているイメージ。南側からHCU(注:水圧制御ユニッ
ト)の後ろを通って、北西の階段を中地下まで降りた。線量計を持っていてチェッ
クしていたが、トーラス室に入ってすぐにこれはダメだとなって、走って戻った。
○ 格納容器のベント弁に治具をかませて開けたままにする作業を復旧班が行おうと思
ったが、SRV(注:逃がし安全弁)からS/C(注:圧力抑制室)へ蒸気が行く音がす
ごくて、熱もあり、トーラスに入れなかったということで、操作出来ずに中操に戻
ってきた。
○ 暗闇で、SRV ボコボコ吹いている、S/C 上部で靴がとけた。
○ ●●弁は開確認してくれっていわれて,S/C に行ったら靴が溶けた。目視では確認
できなかった。弁が一番上にあるやつだったので。熱さ確認のため,トーラスに足
をかけたらずるっと溶けた。やめたほうがいいと判断した。
○ 現場は,炉注入の●●弁開と,3/13 5:08 のS/C スプレイ弁開と閉操作。長靴が溶けた
のは,D/W スプレイに行ってS/P スプレイを止めた時。S/C 弁が熱くて握れなかっ
た。
【復旧作業での声(注水,SRV・計器復旧,電源復旧)】
(注水)
○ 協力企業の社員さんが,社長からは戻るよう言われていたのに、我々みんなで何と
か発電所を守るために一生懸命対応している姿を見て、「私は帰れない」と泣いて
残ってくれた。直接社長に「もう少し残ってから戻る」と言ってくれていた。
(SRV,計器復旧)
○ SRVのケーブル切り(注:SRV を開くために必要なバッテリーを接続するケーブ
ルを処理する作業のこと)も大変な作業。ワイヤーストリッパーもない状況で、か
なり長い長さのワイヤー端末処理(心線出し)を傷つけないように気をつけながら
ペンチでやり、10個直列でバッテリーとつけるために行うのは大変。中操は暗く、
難しい。ゴム手でビニールテープでバッテリーに線を付けるときに、ゴム手にべた
べたついて大変だった。
○ バッテリーもつないでいき、DCの120Vくらいになると、バチバチで恐ろしい
状態。繋いでいく際には火花がバチバチの状態。24Vでさえ、手が滑って火花が
大きく出てバッテリーの端子が溶けたときもあった。
(電源復旧)
○ 余震,津波警報で現場に出られず,免震棟の中では当直から電源復旧に関する情報
も来なかったため,TL(注:チームリーダー),主任クラスで志願してT/B(注:
タービン建屋)やS/B(注:サービス建屋)の現場調査を申し出た。
○ マンホールの蓋が水の力であいていて,月明かりだけで,瓦礫が散乱する中,一歩
一歩開口がないか確認しながら進んだ。
○ 通常であればケーブル布設作業は1・2ヶ月かかる。数時間でやったのは破格のス
ピードだと思う。暗闇の中、布設のための貫通部を見つけたり、端末処理を行った
りする必要もある。高圧ケーブルの端末処理は特殊技能で、丁寧にやる必要がある。
それだけで通常は4~5時間程度かかる。また、通常なら機械を使ってケーブルを
布設するが、今回は人力でやっている。ケーブルは15cm くらいのケーブルが3 本集
まっているもので、重量がある。
○ 一番インパクトがあったのは余震。行っては戻れ、行っては戻れとなった。その度
に,安否確認にも時間がかかった。相当大きい余震があり、死に物狂いで走って帰
ってきて、すぐにまた向かうわけにもいかず、2 時間程度休んでまた向かうという
感じだった。
○ 電気品室は水があった。長靴での作業。電気が来ていないとは思っているが,感電の
可能性もあり,死ぬかもしれないと思いながらの作業であった。
○ 死と隣合わせの作業だった。慣れない全面マスクを着用しての作業,余震や津波の
度に走って逃げた。この繰り返し。
○ P/C(注:低圧電源盤)があるところは堰があって、その中に水がいっぱい溜まっ
ていた。長靴でないとP/C までいけない状態で、作業をやるにも工具を下に置け
ない。明かりを照らしたり、道具を持ったりする人が必要だった。
○ みんな地震で家族がやられている人もいるし、涙を流しながら会社に勤めていた人
もいたし、みんな電話が繋がらないから、生きているか死んでいるかも分からない
状態だった。
【爆発時の状況】
(1 号機の爆発の時)
○ 消防車の窓が爆風で割れて、それからスポーンと(瓦礫が)とんできた。水素ボン
ベから漏れたと思った。あの辺ガスが充満していたんだと思う。それで一瞬ゆがん
で見えた。そしたらものすごい音で、爆音と共に、中が浮いたみたいな感じになっ
た。その時に、ロケットのように正面から飛んできた。瓦礫が。
○ なんの前ぶれもなく突然中央制御室全体がごう音とともに縦に揺れた。部屋全体が
白いダストにおおわれた。「全面マスク!」の声で全員マスクを付けた。椅子から
落ちた者もいた。
○ 1 号側の逆洗弁ピットの脇にいた。あまりの衝撃でびっくりした。空を見上げたら,
瓦礫が空一面に広がっていて,バラバラ降ってきて,二人で逃げた。瓦礫にあたっ
ていたかもしれない。二人で走って逃げて,あまりに瓦礫が降ってくるので,もう
一人の人を突き飛ばして,タービン建屋脇にあるタンクの壁際に沿って瓦礫をよけ
るような行動を取った。少したってから,逃げようとしたら,もう一人がトラック
の脇で立てなくなっていたので,二人で戻って抱えて歩いて逃げた。ひたすら無線
で爆発だと叫んで歩いて戻った。
○ 1号爆発の時は免震棟入口のそばにいたが,中に入れず,逃げ回った。近くにあっ
た消防車の中に逃げ込んだ。
(3 号機爆発の時)
○ S/Bに入ったら後ろで衝撃があった。音はよく覚えてない。風圧みたいな感じだ
った。で,中操に行って話しを聞いた。車に6名全員乗って帰ろうとしたが,がれ
きの山だった。集中R/W側を通って帰ったらどんどん進めなくなりひどい状態だ
った。その時4号がやられているのを見た。がれきで進めないので,4号R/Bの
山側から車を乗り捨てて走って逃げた。車を置きっぱなしで,もう走れないので,
7番ゲートから出た。
○ 風圧はなかったが、風船をバンとやったみたいな音だった。一瞬で真っ白になって、
しばらくしてガラガラと音がしたのでコンクリートが降ってきたと思った。アーケ
ードが津波で倒れていたがそこに隠れようとした。でも空が見えていてダメだった。
すぐそばにあった配管が、上からは丸見えだったが、その陰にぺたっと体をつけて
隠れた。死ぬかと思った。バンとなって真っ白になって、見えるようになるまで待
っていた。2 号と3 号の間を行ったが瓦礫の山だった。車は動かせない状態だった
ので、瓦礫の上をみんなで歩いた。2,3 号機間が瓦礫がすごかった。
○ 1 号機水素爆発後にケーブルを引きなおしたが、3 号機で水素爆発が起こった。メン
バーは走って緊対室に戻ってきた。作業員はパニックだった。
○ 3号の爆発の時は2号機の松の廊下にいた。すさまじい爆発音とともに,埃が舞っ
て真っ白になった。乗ってきた協力企業の車が吹っ飛んでいたので,本当に恐怖だ
った。
以 上
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・東京web---『決死の原発作業員 福島第一「3・11」の証言』
『東京電力が二十二日に公表した報告書は、福島第一原発が三月に事故を起こした直後の状況を、作業員から聞き取った肉声により再現していた。そこには「死」の文字がいくつも並び、あらためて現場の過酷さが浮かび上がった。
十一日午後、大きな揺れに襲われた後、運転員や作業員たちは装置の点検に回った。
作業員は建屋の大きなシャッターの下から水がしみこんでくるのに気づいた。その直後にシャッターが吹き飛び、津波が建屋内に流入。必死で逃げた。恐怖でふるえた。
4号機では、地下の非常用ディーゼル発電機をチェックしようと建屋に入った作業員が中に閉じこめられた。建屋を津波が襲い、内部の水位は刻々と上がった。あごの下まで水が上がり、「もう死ぬのか」と観念。外から同僚がドアのガラスを割ってくれ、九死に一生を得た。
翌日には1号機が水素爆発を起こした。
消防車内で注水に向けた準備をしていた作業員は、爆風で目の前の風景が「一瞬ゆがんだ」と感じた。窓ガラスが割れたのに驚くひまもなく、ロケットのように飛んできたがれきを必死でよけた。
爆発で放射線量が上がって作業が難しくなり、2、3号機の状況も悪化。結婚指輪が汚染されるのを嫌い、一度は外したが、「最悪の事態が起きたときに、自分だと分かるよう」考え直し、はめて作業に出た人もいた。
危うい状況の3号機の中央制御室に交代で行く順番が回ってきた作業員は死を覚悟。故郷の父親に電話で「俺にもしものことが起きたら、かみさん、娘をよろしく」と伝えた。
制御室の放射線量は刻々と上昇。三秒に〇・〇一ミリシーベルトという異常な上がり方だった。そんな恐怖と、空腹とも闘うことになる。
「生きるためには食べるしかない」と、内部被ばくを心配しながら乾パンを口にする作業員がいれば、「これで終わりなんだ」とあきらめの気持ちを抱く作業員もいた。
原子炉建屋地下へ向かった作業員は、暗闇の中で「ゴー」という音を聞いた。圧力容器から格納容器へ蒸気を逃がす音で、振動を感じるほどの大きさだった。「蒸気が外に漏れたら死ぬだろうな」と思いながら、弁の操作をした。
十四日昼前には、3号機が水素爆発を起こした。「タービン建屋の廊下はほこりで真っ白になった。外を見ると、車がふっとんでいた」。現場はパニックになった。
爆発直後、吉田昌郎所長(当時)が「2号機の水位が下がった。また爆発させないように」と現場に指示を飛ばした。十五日午前六時すぎ、三度目の衝撃音が響き、4号機の原子炉建屋上部が壊れた。吉田所長の命令で約六百五十人が撤退し、約七十人が発電所に残った。』
『現場の声』だけではなく『トップの声』も公表して欲しいものだが。
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別添 現場の声
平成23 年3 月11 日に地震が発生し,津波が襲来,全交流電源が喪失して以降,現場
作業員は,厳しく困難な現場での対応が続いた。
今回の事故対応にあたった事実関係の調査の中で,聞き取り等を通して,現場作業の
厳しさ・困難さが明らかになった。以下に,当時の状況に関する現場の声を掲載する。
なお,これらは聞き取り等により得られた本人の記憶による生の声であり,事実でな
いことも含まれている可能性があるが,事故対応の状況を理解する一助として,敢えて
掲載したものである。
【中央制御室の状況と,運転員による現場確認時の状況】
○ 津波が来た時刻に1,2号の電源盤のランプがフリッカ(注:点滅)し,一斉に消
えていくのを目前で見た。DG が止まりバタバタとランプが消えていく状況だったが,
何が起きたのか分からなかった。中操(注:中央制御室)の照明は,2号機側はま
っくら,1号機側は非常用灯(薄暗いわずかな照明)に切り替わった。警報が全て
消えて一瞬シーンとなった。2号側が先だったような気がする。目の前で起こって
いることが,ほんとうに現実なのかと思った。
○ いつ頃か時間的には記憶に無いが,中操に運転員が「ヤバイ,海水が流れ込んでき
ている」と大声で叫びながら戻ってきたので,津波で海水が流入してきていると思
った。
○ RPS(注:原子炉保護系)のMG セット(注:電動機・発電機セット)復旧で現場に
行った補機操作員から後で聞いた話。1号は起動できないのですぐに帰ってきた。
2号は起動して地下から聞いたことのない轟音がしてきたのであわてて階段を上
がった。S/B(注:サービス建屋)入り口から水が入ってきていた。水をかぶりな
がら引き上げてきた。
○ 恐怖心というよりも電源を失って何も出来なくなったと思った。若い運転員は不安
そうだった。「操作もできず,手も足も出ないのに我々がここにいる意味があるの
か,なぜここにいるのか」と紛糾した。(最後はどう収めたのですかの問いに対し
て)自分が「ここに残ってくれ」と頭を下げた。続いて別の当直長も無言で頭を下
げてくれた。「若い研修生2人は免震棟に避難してくれ,皆それでいいな」と話を
し,2人を退避させた。
○ 手も足も出なかった時、何も出来ないから非常用の乾パンと水を取ってきて食べろ
と指示し、少しでも落ち着かせようとした。
○ 一部の人からここに残ってどうなるんですかという意見があり、他の人も口には出
さないが同じような思いだったと思う。気分が悪くなって横になった人もいて、そ
の人は今も(注:聞き取り時点)出社できない状況。
○ パラメータが見えてくる前は、五感を失っている状況だった。
○ 訓練を色々と行っていたが、それを活かせる状況ではなく、手足を奪われたような
状態の中、見れるデータを見ていたといった状況だった。水素爆発のあたりから、
個人差もあるが落ち着かなくなる者もいた。
○ 中操内では、被ばく線量を下げるよう、当直員を1 号側から2 号側に寄らせてしゃ
がませた。11 日の夜から明け方にかけて。主任級でも目を見て不安がわかった。
○ 爆発後,メンバーが体調不良で3人くらい横になって起きられないような状況だっ
た。
○ 情報がなく,プラントの状態も見えない中で,何かをしていないとおかしくなりそ
うだったので,次の作業を探して現場で作業をしていた。情報がなかったから,作業
が出来たのだと思う。
○ 大物搬入口から水が入って来ているのを発見、のぞき込むとシャッターの下から水
がしみ込んできた。その直後シャッターが吹き飛び建屋内に津波が入って来た。2
人で走って離れたが恐怖で震えが止まらなかった。
○ 4B D/G の運転状況の(確認の)ため、共用建屋に入ろうとしたが入り口ゲートに
閉じ込められてしまった。警備員に連絡したがつながらず、2~3分後に津波が襲
ってきた。水が下から侵入し、もう死ぬのかと思っていたところ、同じ状況にあっ
た先輩社員のゲートのガラスが割れ、脱出でき、自分のガラスを割ってくれたおか
げで脱出することが出来た。その時にはあご下まで水が来ており、本当に怖かった。
○ 現場に行く際に、指輪などが汚染して持ち出せなくなるかと思い、一度は外したが、
最悪の事態が起きたときに自分だと分かるように、また、お守りとして身に付けて
現場に向かった。
○ 中操、現場とも真っ暗で、家族の安否、外部の様子も分からず(ニュースが見れな
い)不安でいっぱいだった。
○ 電源が無くてPHS,ページングとかが使えない中で,負荷をケーブルボルト室で
落とす際に,連絡手段として人を中操からケーブルボルト室まで何人か配置してや
りとりした。中操入口,食堂,現場控え室,ケーブルボルト室でだいたい5人ぐら
い配置した。多い時はタービン建屋を一人50mぐらい何回も往復した。
○ 1号機爆発により3・4号中操の線量が急上昇。当初1号機の発電機内の水素が爆
発したものと認識しており、なぜ屋外の線量が上がるのが良く分からなかった。通
信手段が当直長席のホットラインのみで、中操外の状況や情報がほとんど分からず、
とても不安だった。
○ 3号機がいつ爆発するか分からない状態であったが、次に交替で(中操に)行かな
ければならなかった。本当に死を覚悟したため、郷里の親父に「俺にもしもの事が
起きたら、かみさん、娘をよろしく」と伝えた。
○ S/C スプレイ弁の開閉、炉注入弁の開閉、D/W スプレイ弁の開操作を実施したが、
暗闇の中、足場が無い場所で操作する恐怖以上に、近くでSRVの動作音と振動を
体感した時、「この蒸気が漏れたら自分は死ぬのだろうな」と思いながら操作した。
○ 中操に戻ると真っ暗で、HPCI、RCIC のランプとDC 電源のランプしかついていな
い。現実味がなかった。本当に起きている事なのか?実感がわかなかった。
○ 中操で3秒に0.01mSv(ずつ)上がり始めて、(中操から)なかなか出れない時は、
もうこれで終わりなんだと思った。
○ 汚染覚悟で保管されていた非常食の乾パンを食べたり,飲料水のミネラルウォータ
ーを飲む際は,全面マスクを外さざるを得なかった。
○ 生きていく(操作&監視)には食べるしかなく、身体の事が心配だった。
○ 更衣所の窓の外には信じられない光景。あの防波堤がドミノのようにあっさりと倒
れている。門型クレーンはSWポンプに突き刺さり,流された幾台もの車。真下か
らは鳴りっぱなしのクラクションが聞こえた。
○ 揺れの最中から,アドレナリンが大量に出たのか恐怖感はあまりなく,妙に冷静だ
ったような気がする。まるで夢の中の出来事ような・・・。少なくともこの状態が
2Fへ待避するまで続いた。
○ 揺れが徐々に大きくなる中,正面に見えた6号スクラムの赤く光るANN窓,「5号
機も来るな」と振り返った数秒後に5号機もスクラム信号発信。火災警報もホコリ
が原因で多数発生,中操内も薄白くなった。鼻が詰まる、マスクしたい。
○ パラメータを確認したりしていると,「ドン」という衝撃音。皆「?」という表情
を浮かべていたが,まもなく5号D/Gが全台トリップ。5号中操は非常用の白熱
灯だけになってしまった。
【復旧作業での声(ベント)】
○ ベントにいける人間を募った。比較的若い操作員も手を挙げた。涙が出る思いだっ
た。当直長をそれぞれ割り振るように編成した。完全装備で線量が高い状況もわか
らない中に行かせるので、若い人は行かせなかった。
○ 3 組目まで準備したのは,線量,体力や余震で引き戻すことなどを考えてのもの。
同時に出発すると緊急避難時の救出ができない恐れがあるため,1 チームずつ行く
ことを指示した。
○ 当直長の自分が現場に行きたいと思った。言葉にも出したが、同僚から「お前は最
後まで指揮をとれ!」と言われた。頭が下がった。言葉もでなかった。申し訳ない
思いでいっぱいだった。
○ 同時に出発すると連絡が取れないので、1 チームずつ行きましょうとなっていた。
建屋へは南側の二重扉から入った。すごいモヤがかかっていて、なぜこんな状態な
んだと思った。通常は乾燥しているイメージ。南側からHCU(注:水圧制御ユニッ
ト)の後ろを通って、北西の階段を中地下まで降りた。線量計を持っていてチェッ
クしていたが、トーラス室に入ってすぐにこれはダメだとなって、走って戻った。
○ 格納容器のベント弁に治具をかませて開けたままにする作業を復旧班が行おうと思
ったが、SRV(注:逃がし安全弁)からS/C(注:圧力抑制室)へ蒸気が行く音がす
ごくて、熱もあり、トーラスに入れなかったということで、操作出来ずに中操に戻
ってきた。
○ 暗闇で、SRV ボコボコ吹いている、S/C 上部で靴がとけた。
○ ●●弁は開確認してくれっていわれて,S/C に行ったら靴が溶けた。目視では確認
できなかった。弁が一番上にあるやつだったので。熱さ確認のため,トーラスに足
をかけたらずるっと溶けた。やめたほうがいいと判断した。
○ 現場は,炉注入の●●弁開と,3/13 5:08 のS/C スプレイ弁開と閉操作。長靴が溶けた
のは,D/W スプレイに行ってS/P スプレイを止めた時。S/C 弁が熱くて握れなかっ
た。
【復旧作業での声(注水,SRV・計器復旧,電源復旧)】
(注水)
○ 協力企業の社員さんが,社長からは戻るよう言われていたのに、我々みんなで何と
か発電所を守るために一生懸命対応している姿を見て、「私は帰れない」と泣いて
残ってくれた。直接社長に「もう少し残ってから戻る」と言ってくれていた。
(SRV,計器復旧)
○ SRVのケーブル切り(注:SRV を開くために必要なバッテリーを接続するケーブ
ルを処理する作業のこと)も大変な作業。ワイヤーストリッパーもない状況で、か
なり長い長さのワイヤー端末処理(心線出し)を傷つけないように気をつけながら
ペンチでやり、10個直列でバッテリーとつけるために行うのは大変。中操は暗く、
難しい。ゴム手でビニールテープでバッテリーに線を付けるときに、ゴム手にべた
べたついて大変だった。
○ バッテリーもつないでいき、DCの120Vくらいになると、バチバチで恐ろしい
状態。繋いでいく際には火花がバチバチの状態。24Vでさえ、手が滑って火花が
大きく出てバッテリーの端子が溶けたときもあった。
(電源復旧)
○ 余震,津波警報で現場に出られず,免震棟の中では当直から電源復旧に関する情報
も来なかったため,TL(注:チームリーダー),主任クラスで志願してT/B(注:
タービン建屋)やS/B(注:サービス建屋)の現場調査を申し出た。
○ マンホールの蓋が水の力であいていて,月明かりだけで,瓦礫が散乱する中,一歩
一歩開口がないか確認しながら進んだ。
○ 通常であればケーブル布設作業は1・2ヶ月かかる。数時間でやったのは破格のス
ピードだと思う。暗闇の中、布設のための貫通部を見つけたり、端末処理を行った
りする必要もある。高圧ケーブルの端末処理は特殊技能で、丁寧にやる必要がある。
それだけで通常は4~5時間程度かかる。また、通常なら機械を使ってケーブルを
布設するが、今回は人力でやっている。ケーブルは15cm くらいのケーブルが3 本集
まっているもので、重量がある。
○ 一番インパクトがあったのは余震。行っては戻れ、行っては戻れとなった。その度
に,安否確認にも時間がかかった。相当大きい余震があり、死に物狂いで走って帰
ってきて、すぐにまた向かうわけにもいかず、2 時間程度休んでまた向かうという
感じだった。
○ 電気品室は水があった。長靴での作業。電気が来ていないとは思っているが,感電の
可能性もあり,死ぬかもしれないと思いながらの作業であった。
○ 死と隣合わせの作業だった。慣れない全面マスクを着用しての作業,余震や津波の
度に走って逃げた。この繰り返し。
○ P/C(注:低圧電源盤)があるところは堰があって、その中に水がいっぱい溜まっ
ていた。長靴でないとP/C までいけない状態で、作業をやるにも工具を下に置け
ない。明かりを照らしたり、道具を持ったりする人が必要だった。
○ みんな地震で家族がやられている人もいるし、涙を流しながら会社に勤めていた人
もいたし、みんな電話が繋がらないから、生きているか死んでいるかも分からない
状態だった。
【爆発時の状況】
(1 号機の爆発の時)
○ 消防車の窓が爆風で割れて、それからスポーンと(瓦礫が)とんできた。水素ボン
ベから漏れたと思った。あの辺ガスが充満していたんだと思う。それで一瞬ゆがん
で見えた。そしたらものすごい音で、爆音と共に、中が浮いたみたいな感じになっ
た。その時に、ロケットのように正面から飛んできた。瓦礫が。
○ なんの前ぶれもなく突然中央制御室全体がごう音とともに縦に揺れた。部屋全体が
白いダストにおおわれた。「全面マスク!」の声で全員マスクを付けた。椅子から
落ちた者もいた。
○ 1 号側の逆洗弁ピットの脇にいた。あまりの衝撃でびっくりした。空を見上げたら,
瓦礫が空一面に広がっていて,バラバラ降ってきて,二人で逃げた。瓦礫にあたっ
ていたかもしれない。二人で走って逃げて,あまりに瓦礫が降ってくるので,もう
一人の人を突き飛ばして,タービン建屋脇にあるタンクの壁際に沿って瓦礫をよけ
るような行動を取った。少したってから,逃げようとしたら,もう一人がトラック
の脇で立てなくなっていたので,二人で戻って抱えて歩いて逃げた。ひたすら無線
で爆発だと叫んで歩いて戻った。
○ 1号爆発の時は免震棟入口のそばにいたが,中に入れず,逃げ回った。近くにあっ
た消防車の中に逃げ込んだ。
(3 号機爆発の時)
○ S/Bに入ったら後ろで衝撃があった。音はよく覚えてない。風圧みたいな感じだ
った。で,中操に行って話しを聞いた。車に6名全員乗って帰ろうとしたが,がれ
きの山だった。集中R/W側を通って帰ったらどんどん進めなくなりひどい状態だ
った。その時4号がやられているのを見た。がれきで進めないので,4号R/Bの
山側から車を乗り捨てて走って逃げた。車を置きっぱなしで,もう走れないので,
7番ゲートから出た。
○ 風圧はなかったが、風船をバンとやったみたいな音だった。一瞬で真っ白になって、
しばらくしてガラガラと音がしたのでコンクリートが降ってきたと思った。アーケ
ードが津波で倒れていたがそこに隠れようとした。でも空が見えていてダメだった。
すぐそばにあった配管が、上からは丸見えだったが、その陰にぺたっと体をつけて
隠れた。死ぬかと思った。バンとなって真っ白になって、見えるようになるまで待
っていた。2 号と3 号の間を行ったが瓦礫の山だった。車は動かせない状態だった
ので、瓦礫の上をみんなで歩いた。2,3 号機間が瓦礫がすごかった。
○ 1 号機水素爆発後にケーブルを引きなおしたが、3 号機で水素爆発が起こった。メン
バーは走って緊対室に戻ってきた。作業員はパニックだった。
○ 3号の爆発の時は2号機の松の廊下にいた。すさまじい爆発音とともに,埃が舞っ
て真っ白になった。乗ってきた協力企業の車が吹っ飛んでいたので,本当に恐怖だ
った。
以 上
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・東京web---『決死の原発作業員 福島第一「3・11」の証言』
『東京電力が二十二日に公表した報告書は、福島第一原発が三月に事故を起こした直後の状況を、作業員から聞き取った肉声により再現していた。そこには「死」の文字がいくつも並び、あらためて現場の過酷さが浮かび上がった。
十一日午後、大きな揺れに襲われた後、運転員や作業員たちは装置の点検に回った。
作業員は建屋の大きなシャッターの下から水がしみこんでくるのに気づいた。その直後にシャッターが吹き飛び、津波が建屋内に流入。必死で逃げた。恐怖でふるえた。
4号機では、地下の非常用ディーゼル発電機をチェックしようと建屋に入った作業員が中に閉じこめられた。建屋を津波が襲い、内部の水位は刻々と上がった。あごの下まで水が上がり、「もう死ぬのか」と観念。外から同僚がドアのガラスを割ってくれ、九死に一生を得た。
翌日には1号機が水素爆発を起こした。
消防車内で注水に向けた準備をしていた作業員は、爆風で目の前の風景が「一瞬ゆがんだ」と感じた。窓ガラスが割れたのに驚くひまもなく、ロケットのように飛んできたがれきを必死でよけた。
爆発で放射線量が上がって作業が難しくなり、2、3号機の状況も悪化。結婚指輪が汚染されるのを嫌い、一度は外したが、「最悪の事態が起きたときに、自分だと分かるよう」考え直し、はめて作業に出た人もいた。
危うい状況の3号機の中央制御室に交代で行く順番が回ってきた作業員は死を覚悟。故郷の父親に電話で「俺にもしものことが起きたら、かみさん、娘をよろしく」と伝えた。
制御室の放射線量は刻々と上昇。三秒に〇・〇一ミリシーベルトという異常な上がり方だった。そんな恐怖と、空腹とも闘うことになる。
「生きるためには食べるしかない」と、内部被ばくを心配しながら乾パンを口にする作業員がいれば、「これで終わりなんだ」とあきらめの気持ちを抱く作業員もいた。
原子炉建屋地下へ向かった作業員は、暗闇の中で「ゴー」という音を聞いた。圧力容器から格納容器へ蒸気を逃がす音で、振動を感じるほどの大きさだった。「蒸気が外に漏れたら死ぬだろうな」と思いながら、弁の操作をした。
十四日昼前には、3号機が水素爆発を起こした。「タービン建屋の廊下はほこりで真っ白になった。外を見ると、車がふっとんでいた」。現場はパニックになった。
爆発直後、吉田昌郎所長(当時)が「2号機の水位が下がった。また爆発させないように」と現場に指示を飛ばした。十五日午前六時すぎ、三度目の衝撃音が響き、4号機の原子炉建屋上部が壊れた。吉田所長の命令で約六百五十人が撤退し、約七十人が発電所に残った。』