2013年3月18日の日経新聞朝刊に『原子炉は2度壊れたか 足りない事故の全容解明』との見出しで編集員の署名記事が載っている。放射能の放出は一度だけで無かったのではないかとの疑問だ。文中にもあるが各原発調査委員会は3月21日以降のことは詳細には調べきれていないようだ。まだ不明な点があるとしたら、各事故調は第2弾の調査大成を取るべきでは無かろうか
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原子炉は2度壊れたか 足りない事故の全容解明
編集委員 滝順一 2013/3/18付 ニュースソース 日本経済新聞 朝刊
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO52892540W3A310C1TCR000/
首都圏の住民で2年前の3月23日に何が起きたか覚えている人は多いだろう。
東京都水道局が金町浄水場(葛飾区)で乳児の飲用に関する暫定規制値を超える放射性ヨウ素を検出したと発表。都内23区などで乳児の水道水摂取を控えるよう求めた。この通達は翌24日に解除されたが、店頭からミネラルウオーターが消えた。
21日ころに、東日本大震災の揺れと津波で被害があった東京電力福島第1原子力発電所からのプルーム(放射性物質を含む大気)が関東平野に流れ込み、各地で高い空間放射線量率が観測されていた。放射性物質は雨で地表に落ち、河川水に混じった。
プルームの流れは風向き次第だ。たまたま首都圏に達しただけなのか。あるいは福島原発で新たな放射性物質の大放出といった特別なことが起きていたのか。そこに注目した人がいた。
日本原子力研究開発機構の元技術者、田辺文也さんは独自の解析に基づき、20日ころに1、3号機で核燃料の再溶融があったと主張した。溶け落ちた燃料が十分に冷やされず再び溶けた可能性を示した。
また円山重直・東北大学教授(熱力学)は圧力や水量の推移から3号機格納容器の破断面積が21日に拡大したと試算。「(最初の数日間での損壊に続き)原子炉は2度壊れた」と話す。
2人の根拠は、事故から2カ月後に東京電力が公表した圧力や温度、注水量などのデータにある。それによると3月19日から23日にかけて原子炉への注水量が極端に減った。とくに3号機は19日の約500キロリットルから21日はわずか24キロリットルになった。
大気中の放射性物質の観測でも異変をうかがわせるデータがある。東京大学大気海洋研究所のグループが、茨城県や千葉県などで当時観測されていた放射性ヨウ素とセシウムの比率を改めて調べたところ、21日の比率は原子炉から大きな放出があった15日の比率とほぼ同じとわかった。
ヨウ素1に対しセシウムが数分の1という割合だ。これは原子炉内のヨウ素、セシウム比に近く、炉内のガスが水をくぐらずに放出された可能性を示唆する。水をくぐるとセシウムが除かれ100分の1以下に減るからだ。
東電は注水不足を否定している。事故から半年後、いったん公表した注水量データを訂正した。
消防車で海水を原子炉に注ぎ込む際の流量測定のやり方を3月18日ころから数日間にわたり変えていたという。消防車から水が出ていく場所の流量計ではなく、原子炉に近い建屋内の計器で測る方が信頼性が高いと考えてそちらに変更した。しかし、流量が少なく表示されるのでおかしいと思い、元に戻したという。
消防車側の流量計によればこの時期の注水量はむしろ増えていたそうだ。ただ消防車から送出した水のどれだけが実際に原子炉に届いたかは正確にはわからないとの注釈付きの説明だ。
福島事故に関し政府や国会、民間有識者による調査委員会があった。しかしどの調査報告も20日以降の出来事には触れていない。事故分析はほぼ最初の1週間にとどまる。ある事故調の関係者は「手を広げる余裕がなかった」と明かす。
20日ころの報道の関心事は使用済み核燃料プールへの注水にあった。自衛隊ヘリコプターによる散水に始まり、22日からコンクリートポンプ車(通称キリン)が投入され、注水作戦が本格化した。
並行して東電は電源回復に取り組んでいた。外部からの送電線を復旧、22日に3号機の中央制御室に明かりがともった。事態好転の兆しがあり人々の目はそちらにひき付けられた。20日ころの原子炉内は検証の死角にある。
事故の全貌の理解には様々な仮説を丹念に検証していく必要がある。20日過ぎの大放出がもし確かなことなら住民の内部被曝(ひばく)を推し量るうえで重要な意味をもつ。
初期の被曝状況をあとから知るのは容易ではない。大量に出た放射性ヨウ素は8日に半減する割合でどんどん消えていくからだ。早い段階で実施された被曝検査などの実測データはそれほど多くない。そこで、いつどこにどれくらいの放射性物質が流れたかの把握が大事な手がかりになる。
それには分野を超えた知恵の結集が要る。原発の内部で何が起きていたか。放出された放射性物質はどこに行ったか。その放射性物質は人間や自然の生態系にどんな影響を与えるのか。原子炉工学から環境放射能計測、医学、生態学まで科学者がもっと緊密に協力し抜け落ちたパズルのピースを集めなければならない。
実際に新しいデータも見つかった。福島県は昨年9月、1号機の水素爆発より早い時刻(12日午後3時)に双葉町内で毎時1590マイクロシーベルトという高い放射線を観測していたと発表した。事故直後は通信途絶状態だったモニタリングポストのデータを回収し分析したのだ。
爆発直前のベント(排気)の影響か。あるいはすでに格納容器がどこかで壊れていたのか。いずれにしても初期被曝の見積もりが変わる可能性が大きい。
「まだ福島事故は終わっていない」と国会の福島原発事故調査委員長を務めた黒川清・東大名誉教授は話す。その通りだ。
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原子炉は2度壊れたか 足りない事故の全容解明
編集委員 滝順一 2013/3/18付 ニュースソース 日本経済新聞 朝刊
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO52892540W3A310C1TCR000/
首都圏の住民で2年前の3月23日に何が起きたか覚えている人は多いだろう。
東京都水道局が金町浄水場(葛飾区)で乳児の飲用に関する暫定規制値を超える放射性ヨウ素を検出したと発表。都内23区などで乳児の水道水摂取を控えるよう求めた。この通達は翌24日に解除されたが、店頭からミネラルウオーターが消えた。
21日ころに、東日本大震災の揺れと津波で被害があった東京電力福島第1原子力発電所からのプルーム(放射性物質を含む大気)が関東平野に流れ込み、各地で高い空間放射線量率が観測されていた。放射性物質は雨で地表に落ち、河川水に混じった。
プルームの流れは風向き次第だ。たまたま首都圏に達しただけなのか。あるいは福島原発で新たな放射性物質の大放出といった特別なことが起きていたのか。そこに注目した人がいた。
日本原子力研究開発機構の元技術者、田辺文也さんは独自の解析に基づき、20日ころに1、3号機で核燃料の再溶融があったと主張した。溶け落ちた燃料が十分に冷やされず再び溶けた可能性を示した。
また円山重直・東北大学教授(熱力学)は圧力や水量の推移から3号機格納容器の破断面積が21日に拡大したと試算。「(最初の数日間での損壊に続き)原子炉は2度壊れた」と話す。
2人の根拠は、事故から2カ月後に東京電力が公表した圧力や温度、注水量などのデータにある。それによると3月19日から23日にかけて原子炉への注水量が極端に減った。とくに3号機は19日の約500キロリットルから21日はわずか24キロリットルになった。
大気中の放射性物質の観測でも異変をうかがわせるデータがある。東京大学大気海洋研究所のグループが、茨城県や千葉県などで当時観測されていた放射性ヨウ素とセシウムの比率を改めて調べたところ、21日の比率は原子炉から大きな放出があった15日の比率とほぼ同じとわかった。
ヨウ素1に対しセシウムが数分の1という割合だ。これは原子炉内のヨウ素、セシウム比に近く、炉内のガスが水をくぐらずに放出された可能性を示唆する。水をくぐるとセシウムが除かれ100分の1以下に減るからだ。
東電は注水不足を否定している。事故から半年後、いったん公表した注水量データを訂正した。
消防車で海水を原子炉に注ぎ込む際の流量測定のやり方を3月18日ころから数日間にわたり変えていたという。消防車から水が出ていく場所の流量計ではなく、原子炉に近い建屋内の計器で測る方が信頼性が高いと考えてそちらに変更した。しかし、流量が少なく表示されるのでおかしいと思い、元に戻したという。
消防車側の流量計によればこの時期の注水量はむしろ増えていたそうだ。ただ消防車から送出した水のどれだけが実際に原子炉に届いたかは正確にはわからないとの注釈付きの説明だ。
福島事故に関し政府や国会、民間有識者による調査委員会があった。しかしどの調査報告も20日以降の出来事には触れていない。事故分析はほぼ最初の1週間にとどまる。ある事故調の関係者は「手を広げる余裕がなかった」と明かす。
20日ころの報道の関心事は使用済み核燃料プールへの注水にあった。自衛隊ヘリコプターによる散水に始まり、22日からコンクリートポンプ車(通称キリン)が投入され、注水作戦が本格化した。
並行して東電は電源回復に取り組んでいた。外部からの送電線を復旧、22日に3号機の中央制御室に明かりがともった。事態好転の兆しがあり人々の目はそちらにひき付けられた。20日ころの原子炉内は検証の死角にある。
事故の全貌の理解には様々な仮説を丹念に検証していく必要がある。20日過ぎの大放出がもし確かなことなら住民の内部被曝(ひばく)を推し量るうえで重要な意味をもつ。
初期の被曝状況をあとから知るのは容易ではない。大量に出た放射性ヨウ素は8日に半減する割合でどんどん消えていくからだ。早い段階で実施された被曝検査などの実測データはそれほど多くない。そこで、いつどこにどれくらいの放射性物質が流れたかの把握が大事な手がかりになる。
それには分野を超えた知恵の結集が要る。原発の内部で何が起きていたか。放出された放射性物質はどこに行ったか。その放射性物質は人間や自然の生態系にどんな影響を与えるのか。原子炉工学から環境放射能計測、医学、生態学まで科学者がもっと緊密に協力し抜け落ちたパズルのピースを集めなければならない。
実際に新しいデータも見つかった。福島県は昨年9月、1号機の水素爆発より早い時刻(12日午後3時)に双葉町内で毎時1590マイクロシーベルトという高い放射線を観測していたと発表した。事故直後は通信途絶状態だったモニタリングポストのデータを回収し分析したのだ。
爆発直前のベント(排気)の影響か。あるいはすでに格納容器がどこかで壊れていたのか。いずれにしても初期被曝の見積もりが変わる可能性が大きい。
「まだ福島事故は終わっていない」と国会の福島原発事故調査委員長を務めた黒川清・東大名誉教授は話す。その通りだ。
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