・毎日jp---『検証・大震災:トモダチ作戦 米のアジア太平洋戦略、鮮明』
『東日本大震災の被災地支援に陸海空で緊急展開した米軍。最大時約2万4000人を動員した大規模作戦「トモダチ」は、窮地の同盟国・日本を救うための活動だったが、一皮めくれば、軍事的に台頭する中国をにらんだ米国のアジア太平洋戦略が色濃く浮かぶ。米政府・米軍は作戦を通じ、どんな目的から何を実施し、教訓を残したのかを検証した。(肩書は当時、日本時間)
◆発生直後
◇強行着陸に空自「衝撃」
全可動艦艇出港」。海上自衛隊自衛艦隊(司令部・神奈川県横須賀市)の倉本憲一司令官が「戦時」を思わせる緊急命令を全国部隊に発令したのは東日本大震災発生から6分後の3月11日午後2時52分のことだ。
海自の歴史上初めて出された命令だった。横須賀基地にいた護衛艦は緊急船舶の指定を受けて、通常の倍以上で、最高速度にあたる最大戦速に近い時速27ノット(約50キロ)で東京湾を抜けた。
同司令部と隣り合わせの米軍横須賀基地。在日米海軍司令部があり、日本防衛と米軍世界戦略の拠点だが、08年から同基地を母港とする原子力空母ジョージ・ワシントンは定期整備中で、稼働できる状態ではなかった。代わって米国防総省が投入したのが、韓国軍との合同演習に向かうため西太平洋を航行中だった原子力空母ロナルド・レーガンを中心にした空母打撃群。大震災発生から4時間余経過した午後7時に首相官邸に「ロナルド・レーガンを宮城県沖に派遣する」との連絡が伝わり、13日朝に三陸沖に到着した。
直ちに、米部隊司令官のギリア少将が、海自の護衛艦きりしまに乗り込み、指揮を執る第1護衛隊群司令の糟井裕之将補と会談。日米互いの艦艇に1佐(米軍では大佐)クラスを連絡官として送り込むことを決めた。
米軍の被災地支援「トモダチ作戦」は、米海軍と海自が主導して始まった。米海軍と海自には戦後構築してきた「太いパイプ」がある。米海軍にとって日本は東アジアだけではなく、中東やアフリカまで含めた安全保障の要衝であり、双方は半世紀以上、環太平洋合同演習(リムパック)などで訓練を重ねてきていた。
米空母と海自の両指揮官は毎晩、「テレビ会議(VTC)」を開いて活動内容を話し合った。ロナルド・レーガンが合同演習用に積んでいた生活物資類などはすべて被災地支援に使われた。防衛省幹部は米海軍の迅速な対応について「アジア太平洋の米軍戦力の要は海軍。日本という拠点を失うわけにはいかないという危機感の表れ」との見方を示す。
「事態にどう対処すればいいのか」。3月12日、在日米軍司令部がある米軍横田基地(東京都福生市など)では、フィールド司令官(空軍中将)ら幹部が対応を協議していた。防衛省・自衛隊との連絡でいくつもの項目が支援リストに挙がった。13日には通常は横田基地の要人輸送に使うUH1Nヘリコプターで捜索・救援要員を仙台市の陸上自衛隊霞目駐屯地に輸送した。
そして米軍は自衛隊の度肝を抜く作戦にとりかかった。特殊部隊潜入などに使われる米空軍嘉手納基地(沖縄県)特殊作戦航空群の輸送機MC130Hが仙台空港に着陸したのは16日。滑走路にがれきが散乱していたが、偵察を兼ねた捜索飛行などの調査結果をもとに「仙台空港を拠点とする」との方針が決まり、最低限のがれき除去で強行着陸し、復旧作戦に着手した。
仙台空港の管制塔は1階のレーダー室に土砂が流入し、使用不能になった。米軍の特殊作戦部隊は独自のレーダーで飛行経路と地形を掌握していたという。空自幹部は「トモダチ作戦の中で最も衝撃的な作戦だった」と驚きを隠さない。
◆原発事故
◇連日の会議、不信払拭
国防総省を巻き込んだ米軍と自衛隊の連携はスムーズに走り出したが、大震災翌日の3月12日午後に起きた東京電力福島第1原発1号機の水素爆発で、日米両政府は情報不足と連携の欠如で互いに疑心暗鬼を深めていく。
「正確な情報を教えてもらいたい」。大震災発生から2日後の13日昼前、ルース駐日米大使が枝野幸男官房長官に電話で直談判した。枝野長官は「自衛隊と米軍の間で、連携はちゃんと取れている」と説明した。
首相官邸は早くから米軍との連携を模索。11日夜には外部電源を失った福島第1原発の原子炉冷却に必要となった電源車(約8トン)を米軍の大型ヘリコプターで輸送できないか米側に打診したが「重すぎて困難」との返答を受けていた。その後始まった「トモダチ作戦」は順調に稼働しているはずだった。
だが、複数の日本政府関係者によると、ルース大使の懸念は、爆発事故を起こした原発の現状がさっぱりわからないところにあった。14日深夜、大使は再び枝野長官に電話で「わが国の原子力専門家を首相官邸に常駐させたい。意思決定の近くに置きたい」と申し出た。同盟関係とはいえ、機密情報があふれ、厳しい政策判断を次々と迫られる官邸中枢部に入り込まれることに抵抗感を覚えた枝野氏は「難しい」といったんは断った。
日本側は、菅直人首相が15日、東電本店に政府との「統合本部」を置き、海江田万里経済産業相と細野豪志首相補佐官を常駐させるまで、原発事故に関する十分な情報を得られていなかった。米国は日本の情報提供を待たず、グアム基地の最新鋭無人航空機グローバルホークや、米ネブラスカ州に駐機中の放射性物質を観測できる大気収集機WC135コンスタントフェニックスを出動させ、独自の情報収集と分析を進めていた。
ルース大使が「米専門家の官邸常駐」を要請した翌日の15日、来日中の米原子力規制委員会(NRC)とエネルギー省の担当者が、班目(まだらめ)春樹原子力安全委員長、原子力安全・保安院の担当者らと面会した。「炉心は損傷しているが、メルトダウン(溶融)は起きていない」という班目氏らの説明を米側は黙って聞いていたが、日本側の出席者の一人は「米側はここで日本側との認識のズレを感じたのではないか」と振り返る。
米側はすでにメルトダウンの発生を推定しており、「日本側が情報を隠しているのではないかとの疑念があった」(日本政府関係者)という。一方、躍起になって情報を探る米側の対応に日本政府内では「エシュロン(米軍を中心に運用されているとされる世界通信傍受システム)を使っているのではないか」との声も漏れた。
◇
菅首相や枝野長官は協議の末、NRCの担当者らが官邸内の危機管理センター横の原子力安全・保安院や東電担当者が詰める「連絡室」に16日から常駐することを認めた。
しかし、大使の懸念は消えず、北沢俊美防衛相とのパイプを頼って情報不足の解消を求めた。北沢氏はNRCの担当者を防衛省に呼び、経産省や東電の担当者らとの情報交換の場を設置。会議は計4回に及んだ。
一方、防衛政務官を経験し、太い対米人脈を持つ長島昭久民主党衆院議員は18日午後、福山哲郎官房副長官、細野補佐官とともにルース大使と東京都内のホテルで会談した。
長島議員「世界が注目している。日米協力で乗り切るしかない。情報共有の場を作りましょう」
ルース大使「それはいい。複合的な災害の初期段階だから各省庁とも大変でしょう。お手伝いしたい」
大震災発生から11日後の22日、官邸横にある内閣府ビルの一室で日米政策調整会議の初会合が開かれた。統括役の福山副長官は「この協議で出なかった話が、他の場で出ることはあり得ない」と表明した。
日本側からは福山副長官のほか、官邸の細野補佐官と伊藤哲朗内閣危機管理監、防衛省、外務省、経産省、原子力安全・保安院、資源エネルギー庁、文部科学省、厚生労働省などの局長クラス、東電の武藤栄副社長らが参加。米側はズムワルト駐日公使、在日米軍副司令官、NRCやエネルギー省担当者が参加した。
会議は以後、連日午後8時から開かれ、原発への注水や、ロボットや真水を運ぶバージ(はしけ)船投入などが議論され、原発事故収束に向けた日米協力の一元的・基幹的会議となった。
長島議員は言う。「(同会議設置で)深刻な不信感が払拭(ふっしょく)された。喉元過ぎれば熱さ忘れるではなく、日米協力の常設の調整機関の設置が重要だ」
◆総力投入
◇「強圧的な組織」 日本側戸惑いも
米軍は原発の異常事態が始まった3月11日夜には米エネルギー省の専門家が米ネバダ州ラスベガスを放射線量測定器を携えて出発し、横田基地へと向かった。測定器は上空から地上の放射線量を測定することができる。しかし、在日米軍には放射線被ばくを想定したリスク管理の厳格なガイドラインは存在しなかった。フィールド司令官は放射性物質が人間や自然にどんな影響を与えるかについてほとんど知識がなかったことを悔いた。
「ここには輸送機もヘリもある。おそらく放射性物質がある未踏の場所へと飛んでもらうことになる。だれがやる?」。専門家らが基地到着後、フィールド司令官は基地のパイロットらにこう聞いた。あくまで志願制をとるしかなかったが、全員が「やります」と返事した。上空からの測定作業は14日に始まった。
米軍は生活支援に心遣いをみせた。
<ここには何人いますか?>
<必要なものはどんなものですか?>
米軍は孤立した地域にヘリで降り立って、事前に準備していた、日本語で書かれた質問票を見せる。回答を持ち帰り、大急ぎで英訳して、その地域で必要な物資を配る。ニーズを的確に把握し、その変化に即応できる態勢が整っていた。
米軍は、現場の指揮官に多くの日本勤務経験者を派遣、「日本のルール」に従う姿勢を通した。3日目以降は支援物資の搬送も頻繁になった。通常、米軍はヘリで上空から物資を投下し帰還する。04年のスマトラ沖地震・津波の災害現場でもそうだった。しかし、今回は時間をかけて着陸し物資を手渡した。緊急食として出した「戦闘糧食(レーション)」の食べ方が分からないという被災者の声を聞いて、急きょ日本語の説明書を作成した。
フィールド司令官はこのころ、制服組トップのマレン統合参謀本部議長(海軍大将)からの電話を受けた。
マレン議長「これからウォルシュ太平洋艦隊司令官とチームをそちらに送る」
フィールド司令官「私はクビということですか?」
議長「違う。できうるすべてを提供するということだ」
海軍大将のウォルシュ司令官はフィールド司令官より格上で、米政府の総力を挙げた支援の意思を示すことになる。ウォルシュ司令官は3月下旬から約3週間にわたり、トモダチ作戦の指揮をとる。
◇
迅速で入念な米軍の対応に自衛隊側がけおされる場面もあった。
「なんだか占領軍みたいで、どうも気になるのだが」。震災後しばらくしたあと、制服最高幹部の集まる防衛省内の非公式の会合で、そんな意見が表明された。ウォルシュ司令官派遣に伴い、米太平洋軍がJTF(Joint Task Forces)の司令部を米ハワイから東京・横田基地に移すとされたことに対する懸念だった。
太平洋地域で起きる有事・大規模災害に対処するための統合任務部隊の常設司令部だが、一部将官の目には「支援はしてくれるが米国流を押し通そうとする強圧的な組織」に映った。米軍は司令部移転の際は名称を変え、JSF(Joint Support Forces=統合支援部隊)として設置。日本に対する配慮を見せた形だった。
作戦面でも一部に戸惑いがあった。強襲揚陸艦エセックスは多数の沖縄の海兵隊員を乗せて訓練のためにいたマレーシア沖から急きょ北上。18日には秋田沖に到着したものの、物資輸送などが主で、海兵隊の機能を発揮した27日からの宮城県気仙沼市・大島での復旧活動まで約1週間かかった。防衛省幹部は「まさか精鋭の海兵隊の部隊にゴミ拾いをさせるわけにもいかず、どこに行ってもらっていいか迷いがあった」と振り返る。
日米共同復興作業の象徴と位置づけた「ソウル・トレイン(魂の列車)」作戦では、在日米軍にJR仙石線の野蒜(のびる)駅など、2駅の復旧を依頼した。そこはすでに、自衛隊が遺体の捜索を終えていた。もし、米軍が遺体を見つけ、被災地とトラブルが起きれば「米国が支援しようとしているのに、逆効果になる」(陸自幹部)との配慮があったからだ。
さらに米軍との調整に関わった自衛隊幹部は「普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題もある中、沖縄の海兵隊に活躍の場を与えてほしいという米軍の意思を強く感じた」と明かす。
◇空母、中国の接近けん制
日本の防衛の重点が「東方集中」する中、その空白を埋めるように米軍が静かに動き出した。
「なんでこんなところに米軍がいるんだ」。3月17日、統合幕僚監部内がざわついた。マレーシア沖での訓練を切り上げて被災地支援へと向かう米強襲揚陸艦エセックスが、被災地に近い太平洋ではなく、日本海を航行していたためだ。
呼応するかのようにロシア軍の動きが活発化。17日にはIL20電子情報収集機が日本領空に接近し、航空自衛隊が戦闘機を緊急発進(スクランブル)させた。
続いて、米軍横須賀基地で定期整備中だった原子力空母ジョージ・ワシントンが21日、急きょ乗員や民間の整備員らを乗せ出港した。その後、伊豆大島、土佐湾沖で洋上整備を続け東シナ海にまで足を伸ばした。
防衛省幹部によると、この頃、中国空軍が偵察機を頻繁にジョージ・ワシントンに向け飛ばしたことが自衛隊の警戒・監視活動で把握された。同幹部は「中国軍の偵察対象になっていたのは間違いない」という。
また、中国は日本にも行動をとった。26日に東シナ海で警戒監視中の海自護衛艦いそゆきに中国国家海洋局ヘリZ9が約90メートルまで接近。4月1日には中国のプロペラ機Y12が同様に異常接近する行為もあった。
3月21日には領空約60キロまで接近した集塵(しゅうじん)装置をつけたロシア軍のスホイ27戦闘機とAn12電子戦機に空自がスクランブルをかけ、29日にも情報収集機が接近。戦闘機は福島第1原発事故に伴う放射性物質の飛散状況調査が目的とみられるが、同幹部は、米軍の動向に神経をとがらせていた表れとみている。
ジョージ・ワシントンは東シナ海を経由し、4月に2回、長崎県・米軍佐世保基地に物資補給などのために寄港。米海軍によると、原発事故の状況が発生当時より改善されたとして同20日に横須賀基地に帰港した。
当初、ジョージ・ワシントンが横須賀基地を離れたのは、原発事故による放射性物質の被害を避けるため、と見られていた。しかし、防衛省幹部は「米軍は空母を前進配備させた。日本から要請したわけではないが、日本に手を出したら許さない、という意思表示だった」と解説する。
「お客さんが来ないとおもしろくないよね」。トモダチ作戦終了後、米国防総省幹部は防衛省幹部に冗談めかして伝えたという。中露側の動きを想定し、関与を強める狙いがあったとみられる。
一方、被災地支援では、中国政府による「軍事支援」の申し出が、幻に終わった事例もあった。
大震災から5日後の3月16日、中国国防省が病院船派遣の用意があることを伝えたが、日本政府は27日、「港が津波で被害を受け、船を接岸できない」と、謝意を伝えたうえで辞退。だが、米海軍幹部は「中国軍の病院船が入ればトモダチ作戦のオペレーションに加わることになり、作戦会議を通じ情報を一部共有しなければならなくなる」と指摘。米軍の意向が働いた可能性を示唆した。
米中両国が東日本大震災の舞台裏で繰り広げた激しい「神経戦」の背景には、中国の軍備拡大と海洋進出への野心から、劇的に変化するアジア・太平洋地域の安全保障の構図がある。
中国は近年、米空母を近海に寄せ付けない「接近阻止」戦略を進め、地上から空母を攻撃する世界初の車載型対艦弾道ミサイルDF21D(通称・空母キラー)を開発。日本やフィリピン諸島を射程(約2000キロ)に収めたとされる。米国防総省によると、その攻撃能力を米領グアム付近にまで拡大させつつある。
これに対して米国は昨年2月、米議会に提出した「4年ごとの国防政策見直し(QDR)」で、新構想「ジョイント・エア・シー・バトル(米空海統合戦略)」を公表。米海軍が開発中の世界初のステルス式空母艦載型無人爆撃機で対抗する戦略だ。戦闘行動半径は2780キロと長く、空母キラーの射程外から攻撃できる。
米海軍関係者は「横須賀基地を(事実上の)母港とするジョージ・ワシントンに艦載することになるかもしれない。この爆撃機は日本や在日米軍基地を最前線で死守する防波堤になりうる」と話した。
ただし、防衛省では大震災後の中国軍の動向を分析した結果、「日本の混乱に付け入るような不穏な動きはなかった」と結論付けたという。一方、トモダチ作戦終了後、中国関係者が防衛省幹部に伝えた。「自衛隊10万人と米軍2万人が短時間であれだけ調和した作戦を実行したのは驚きだ」
◇韓・豪と同盟強化へ布石
米国のアジア太平洋での抑止力強化をベースとする対中戦略は、東日本大震災での被災地支援でも如実に透けて見えた。大震災後、被災地に世界23カ国・地域から救助隊などが駆けつけたが「軍事作戦」を組んだのは、日本の自衛隊のほかには米国と同盟関係にあるオーストラリアと韓国だけだった。
豪州東部クイーンズランドを拠点とする捜索・救援タスクフォースが捜索犬を伴い大型輸送機C17で東京・米軍横田基地に着陸したのは大震災3日後の3月14日早朝。国際的な災害救援で急派される精鋭チームだ。
すぐさま、米軍との調整で豪州主導の別の作戦「パシフィック・アシスト(太平洋支援)」が動き出す。到着したC17を被災地支援の輸送業務に任務変更して活用する作戦だった。
C17は大型貨物を搭載できる一方、短い滑走路でも発着できる即応性・機動性に優れた輸送機。横田基地から沖縄の米軍嘉手納基地へと向かい、陸上自衛隊第15旅団の要員とトラックを乗せ、被災地へと運んだ。
豪国防省は4機のC17のうち、さらに2機投入を決定。スミス国防相が21日、北沢防衛相に電話で伝えた。同夜と翌22日朝に相次いで豪州から飛び立ったC17は、米国の要請に基づき福島第1原発事故対応で使用する遠隔操作高圧放水砲システムを積んでいた。
豪政府関係者は「日米豪の普段の連携があって初めてできたことだ」と振り返る。日本政府高官は「豪州からは同盟国の米国と、豪州が加盟する英連邦を通じたNATO(北大西洋条約機構)の情報が入ってくる。豪州との連携は有益だ」と語り、日米豪の連携の重要性を強調した。
韓国の対応も早かった。「史上例のない大災害を経験している日本への支援に最善を尽くす」。震災当日の11日夕、韓国の李明博(イミョンバク)大統領は関係閣僚を緊急招集して指示した。12日に先遣隊を派遣し、14日からは空軍輸送機C130で救助隊や自衛隊の使う装備などを搬送。災害派遣では「過去最大規模」(韓国政府)となった。
被災地支援で構築された日米韓豪の「同盟連合」の伏線は、大震災の5カ月前にさかのぼる。
「エア・シー・バトル構想の成功のカギを握るのは、情報共有だ」。昨年10月、米軍の呼びかけで韓国で開催されたアジア太平洋の同盟国・友好国軍幹部の非公式会合で、同地域の米軍トップ、ウィラード太平洋軍司令官が表明した。日韓豪やシンガポール、フィリピンなどが参加。各国の軍幹部らが中国海軍力の拡大に懸念を示した。
米国は、空軍の最新鋭無人偵察機グローバルホークを同盟国に売却する交渉を進めている。30時間以上の連続飛行ができ、約560キロ先まで見通し、ほぼリアルタイムで地上に情報を送ることができる。「地域全体を広範囲に監視下に置き、情報共有するネットワーク構築につながる」と米軍関係者は狙いを語る。
韓国政府は「北朝鮮の警戒に役立つ」として4機を購入する計画。豪政府も「インドネシアからの不法移民や中国艦船の監視」を念頭に15年ごろをめどに5機前後を導入する方針だ。
米軍は大震災の翌12日からグローバルホークをグアムの空軍基地から福島原発上空に急派した。5月11日までの2カ月間、撮影した4400枚以上の写真を日本に無償で提供した。
トモダチ作戦終了から半年を経た11月。オバマ米大統領は豪州北部のダーウィン空軍基地を訪れ、最大2500人規模の米海兵隊を来年から順次駐留させると発表。中国をにらんだ同盟強化の布石を着々と打つ。
◇
トモダチ作戦で日米の「軍と自衛隊」の一体化は進んだ。しかし、米国では景気悪化で国防総省予算が今後10年で最低でも5~10%削減される見通しだ。同盟国に軍事的責任と負担を分散し、「より低コストで、より大きな効果」(クローニン新米国安全保障センター上級顧問)を生み出す狙いもある。
だが、グローバルホークの売り込みに防衛省は「現在保有する偵察機で必要な役目は果たせる。日本も財政的な余裕がない」(幹部)と消極的で、米軍関係者からは「具体的な交渉の進展はない」との不満も漏れる。
米国を軸とする「同盟強化」路線は、一皮めくれば、日本の防衛戦略の拡大と防衛力整備を一層迫るものでもある。窮地の日本を手助けしたトモダチ作戦や日米韓豪の軍事的連携が、日本に突きつけた課題は重い。
◇自衛隊派遣「10万人」 「防衛空白」を回避
被災地支援と原発事故対応での日米作戦の裏側で、防衛省・自衛隊ではもう一つの「作戦」を遂行した。
東日本大震災発生直後、東京・市ケ谷の防衛省の情報本部は緊迫した。電波や電子情報、衛星画像情報などの分析を通じ、国際的な軍事情勢や外国軍隊の動態を把握する機密情報の「総本山」だ。
「本来任務を怠らず、万全を期すように」。本部内では幹部から冷静な指示が飛んだ。史上空前の災害だけに自衛隊派遣が大規模になるのはすぐに分かった。防衛省幹部が警戒したのは、大規模災害派遣と原発事故対処で国の守りに穴があく「防衛空白」だけは避けなければならない、ということだった。情報本部が収集・集約した機密情報は、司令部となった中央指揮所(CCP)にも送られ、自衛隊の運用に反映された。
情報本部が提出する資料には、海上人命安全条約(SOLAS条約)に基づく船舶自動識別装置(AIS)による日本近海での中国民間船の動きや、電波情報などでとらえた中国海軍艦船の動きも含まれていた。
「防衛空白」を警戒したのは、CCPに陣取る折木良一統合幕僚長も同じで、細心の注意を払った。官邸からは大震災発生直後から「大規模派遣」を促す指示が北沢俊美防衛相を通じて矢継ぎ早に出された。
救援や復旧作業の要となる陸上自衛隊は地域ごとに全国に5方面隊あり、大規模部隊の師団9、機動的な旅団6で構成される。折木統幕長は幕僚会議の結果、九州や沖縄を防衛する西部方面隊の第15旅団(司令部・那覇市)と第8師団(同・熊本市)、関西地方を担当する中部方面隊の第3師団(同・兵庫県伊丹市)と、北海道防衛にあたる北部方面隊の第7師団(同・北海道千歳市)を極力、動かさないことを早々と決めた。九州や沖縄の海域を警戒する海上自衛隊佐世保基地(長崎県佐世保市)の艦なども動かせないと考えた。
背景にあるのは中国軍やロシア軍の存在だ。こうしてはじき出された派遣可能な自衛隊規模は、陸自に海自と航空自衛隊を含めて「12万~13万人」だった。折木統幕長は北沢防衛相に「13万人までは大丈夫です」と伝えた。陸海空3自衛隊の実員は約23万人で、半数以上が災害派遣に割かれる事態になる。政治的な判断は実員半分以下の「10万人」に落ち着いた。
==============
滝野隆浩、及川正也、尾中香尚里、大治朋子、鈴木泰広、坂口裕彦が担当しました。(グラフィック・菅野庸平 編集・レイアウト 屋代尚則)
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/verification/news/20111229ddm010040017000c.html
毎日新聞 2011年12月29日 東京朝刊』
2018.3.12追記
yahooニュースに2015.3.10付のニュースが載っている
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150306/278346/?P=1
===
『トモダチ作戦、米兵はシャワーすら浴びなかった』
2015年3月10日(火)
一等陸佐 笠松誠氏
----
笠松誠(かさまつ・まこと)
東日本大震災発生時に陸上自衛隊・国際防衛協力室長。現在は西部方面総監部情報部長。1965年生まれ。愛知県立大学卒業後、自衛隊に入隊。北部方面ヘリコプター隊、第1次イラク復興業務支援隊、在パキスタン日本国大使館防衛駐在官、幹部学校戦略教官などを歴任して現職。
----
----
2011年3月11日、東日本大震災が発生した。被災民の救助、被災地の復旧・復興を考えた時、いの一番に行なわなければならなかったことの一つが、物流インフラの復旧だった。被災地では、ありとあらゆるものが地震で壊れ、津波で流された。物流が機能しなければ、救護物資も救援物資も、被災者の元に届けることができない。地上の交通網が寸断される中で期待されたのは、物資を空から届ける方法だった。
その空の道を切り開くのに大きな力を貸してくれたのが米軍だ。東北の空の玄関である仙台空港を復旧させるプロジェクトに、「トモダチ作戦」の一環として加わってくれた。そのおかげで、わずか1カ月のうちに、民間航空機の離着陸が可能になった。
仙台空港復旧プロジェクトにおける米軍の協力はいかなるものだったのか。トモダチ作戦が持つ安全保障上の意義は何か。トモダチ作戦の経験は今、どのように役立っているのか。仙台空港復旧プロジェクトで米軍との調整の最前線に立った笠松誠・陸上自衛隊国際防衛協力室長(当時。現在は陸自西部方面総監部情報部長)に聞いた。(聞き手は森 永輔)
----
--仙台空港の復旧プロジェクトはどのように進行したのですか。
笠松:これには、米海兵隊のクレイグ・S・コゼニスキー大佐をはじめとする米陸海空海兵隊が大きな役割を果してくれました。
東日本大震災が発生した当時、陸上自衛隊の幹部学校で戦略教官を務めていた私は、国際防衛協力室長に異動することが内定していました。これは外国との間で様々な協力関係をつくる部署です。震災の発生を受けて3月18日、仙台に向かうよう命じられました。
まるで海に沈んだかのように冠水し、悲惨な状況を呈していた仙台空港の姿を見た時は、復旧には半年はかかるだろうと考えました。建物は焼失し、管制の機能はすべて失われていましたし。
悲観する我々の背中を押し、短期間での復旧を目指す提案をしてくれたのがコゼニスキー大佐でした。彼が勤務していた海兵隊のキャンプ・フジには様々な重機や大型トラックがあります。「それを使うのは今しかない」と言ってくれたのです。海兵隊の司令部は、一度は待ったをかけました。米軍が復旧作業に関わった時に日本国民がどのような反応を示すか分からないので、慎重になったようです。しかし、コゼニスキー大佐がそれを説得してくれました。
○「我々の装備を使うのは今だ」
米軍は当初から二つの明確な方針を持っていました。一つは空輸活動のハブとなる空港を開通させること。
もう一つは、その空港を復旧のシンボルとすることです。海水と瓦礫によって大きなダメージを受けた空港を復旧することができれば、被災民にも「自分のところも復旧できる」という希望を持ってもらうことができます。
--笠松さんは現地でどのような役割を果たしたのですか。
笠松:陸上自衛隊は震災に対応するため東北方面総監部に災害統合任務部隊(JTF-東北)を立ち上げました。司令官は君塚栄治・東北方面総監(当時)です。その司令部の配下に設置された日米調整所仙台空港現地調整所長(当時)として詰め、米軍や空港関係者との連携に当たりました。
----
米軍は3月16日、米太平洋特殊作戦コマンドを仙台空港に派遣し、復旧作業を開始した。同コマンドは空港のないところに空港を造る特殊作戦のエキスパートだ。臨時の航空管制機能を設置する技術も有している。3月18日には、コゼニスキー大佐が率いる海兵隊が到着。休む間もなく、瓦礫を除去する作業の準備に着手した。翌日から、米空軍が空輸してきた救援物資を、海兵隊が被災地に届ける支援が始まった。
----
--米軍と協力して作業を進める中で印象に残っているのはどういう点ですか。
笠松:彼らが「日米の間には文化面のバリヤーがある」ということをよく知っていてくれたことです。バリヤーを越えるのは容易なことではありません。しかし、その存在を意識しているのといないのとでは、行動が全く異なります。
例えば彼らは、被災者や空港職員と出会うとお辞儀をしていました。私は他の国で活動する米軍の姿を幾度も目にしてきましたが、あんな光景を見たのは初めてでした。
それだけではありません。彼らは自由に使えるシャワーユニットをいくつも持っているにもかかわらず、それらを使おうとはしませんでした。3月とはいえ重労働をしているので汗もかいたことでしょう。髭も剃らないので、ぼうぼうになっていました。なぜかと聞くと、「我々が使わなければ、被災者の誰かが使えるから」と答えるのです。
宿舎として使う天幕も簡易で小さなものを空港敷地の隅に立てて使っていました。彼らは、パソコンと巨大ディスプレイを使った会議などができる本格的な天幕を持っているにもかかわらずです。これも「余計なスペースを使わなければ、被災者が何かに利用できるかもしれないから」という理由でした。
--まさにトモダチ作戦の名前通り、米軍は友達として振る舞ったんですね。
笠松:はい。幹部学校の教官としてうれしいこともありました。教え子だった米陸軍からの留学生が偶然、仙台空港の復旧プロジェクトに配属されていました。ある時、彼女が「教官、たいへんです」と言って私のところに飛び込んできたのです。
聞いてみると、米軍が業者に発注して設置した簡易式トイレに黄と黒のトラテープが張り巡らされていて、「US ONLY」という張り紙が貼られているというのです。簡易式トイレの業者が、契約者である米軍に配慮して張り紙を張ったのでしょう。彼女は、「もし被災者がこれを見たら、誤ったメッセージが伝わってしまう。早く取りはずすよう調整してください」と私に要請したのです。
私は2005年に防衛駐在官としてパキスタンに赴任していました。この時、大地震が起きた。救助・救援のためにいちばんに駆けつけたのは米軍でした。しかし、彼らはパキスタンの人々の気持ちを慮ることができませんでした。パキスタンはイスラムの国であるにもかかわらず米軍は土日に休み、上半身裸になってキャッチボールをしていた。あれでは、むしろ行かないほうがよかったくらいでした。
米軍は3月31日、仙台空港でのプロジェクトを終えて去っていきました。その最後に何をしたか。彼らはなんとゴミ拾いをして帰ったのです。あれだけの瓦礫を撤去した後です、チューインガムの一つくらい落としていったとしてもバチは当たりません。そして、4月13日、念願だった民航機の運航が再開されました。
--まさに立つ鳥後を濁さずですね。トモダチ作戦で米軍は、どうしてパキスタンの時とは全く違う行動を取ったのでしょう。
笠松:やはり長年にわたって日本に駐留していることが大きかったのだと思います。コゼニスキー大佐がこんなことを言っていました。彼がキャンプ・フジの周辺でふだん接しているおじいさん、おばあさんと被災者の像が重なるのだと。おじいさん、おばあさんと同じような人が東北の地にもいる。その人たちを助けたいのだと。
○ゴミとなったクルマにもオーナーがいる
--キャンプ・フジ周辺のおじいさん、おばあさんが東北のおじいさん、おばあさんを救ったのだと言えますね。
米軍がまさに友達として被災民の気持ちを汲み取り、行動してくれたのは本当に有り難いことです。しかし、ご苦労も多かったのではないでしょうか。仙台空港復旧プロジェクトは事前にシナリオを決めていたわけでもなく、訓練をしていたわけでもありません。突然、起こった大災害に対して、いきなり集められた日米の部隊や空港関係者が協力するのです。順調に進む方が不思議です。
笠松:そうですね。しかし、正直な話、大きな問題になることはありませんでした。先ほどお話ししたパキスタンのプロジェクトでは多くの国から部隊が集まり、調整に難渋することがありました。それに比べると仙台空港でのプロジェクトで起きたことは何でもありません。
ただし、こんなことはありました。津波によって空港敷地内に流されてきた山となっているクルマの撤去作業をしていた時のことです。これらのクルマは破損しており、もう走ることのできない事実上のゴミです。このため米軍のある兵士がゴミとして取り扱おうとしました。それをコゼニスキー大佐が止めたのです。そして、「それぞれのクルマにはオーナーがいる。その気持ちを考えて取り扱うように」と指示しました。
また、あるチームが事前の調整をすることなく、ある小学校にヘリコプターで訪れ物資を配付したことがありました。困っている子供たちを早く助けたい一心で取った行動だったと思います。しかし、日本には日本の事情があります。被災した県の知事や、市町村の首長は、全体を見渡して、最も被害の大きいところから支援したい。そのためには、いろいろな調整が必要で、調整には時間がかかる。そういう配慮をする必要のない米軍から
見ると、日本側の動きは遅く、「やる気があるのか」と思うところもあったと思います。
○事実上の日米安保条約発動
--トモダチ作戦は安全保障上も大きな意義を持っていますね。適切な部隊を選んで任務を与え、現地に急行させる。最後の“撃ち合い”こそないものの、それ以外は有事の部隊展開と同じです。「日米安全保障条約の事実上の発動」と言われました。米軍は1万6000人の人員のほか、約20隻の艦艇、約40機の航空機を動員しました。
笠松:おっしゃる通りです。米国の各部隊は極めて短期間で展開しました。
----
米揚陸艦「トートゥガ」が佐世保から北海道に急行。3月16日、苫小牧にいる陸上自衛隊第5旅団の人員約300人を青森県の大湊に運んだ。これは津波警報が出ている真っ只中での協力だった。
強襲揚陸艦「エセックス」はアジア諸国との関係強化のためマレーシアを訪問していた。しかし、3月11日夜には同地を出航し日本に向かった。同艦はこの後、気仙沼大島の港復旧作業に加わった。
米海軍のシンボルである空母もトモダチ作戦に加わった。3月13日にはロナルド・レーガンが到着し、洋上のハブ空港としての役割を果たした。厚木基地から空輸した援助物資を降ろし、ヘリコプターに積み替えて被災地に運んだ。
----
笠松:この機動力の高さは周辺の国々を驚かせたと思います。
--国際政治の現実は厳しく油断のならないものです。ロシアは震災直後の3月17日、Su-27などの戦闘機を日本の間近まで飛ばし、放射能を収集する作業をしていました。中国も3月26日、海監のヘリコプターや航空機を海上自衛隊の護衛艦「いそゆき」に異常接近させました。
笠松:トモダチ作戦による一連の動きは、こうした国々に対して、日米の紐帯の強さ、日米同盟が非常に強固であることを周辺国に伝えるメッセージになったと思います。災害時の支援はもちろん人道支援の一環ですが、それにとどまらず、安全保障上の意義も持っています。以前は対テロ戦での協力がその役割を果していましたが、今は災害支援が取って代わっています。
○トモダチ作戦の基盤となった日米災害救護・復旧支援協力
--笠松さんは2013年にフィリピンで台風被害が起きた時に日米が共同で行った支援を「第2のトモダチ作戦」と位置づけていますね。
笠松:おっしゃる通りです。実はトモダチ作戦は、それだけが独立して存在しているわけではありません。その基礎となる、日米間の様々な協力がそれまでにありました。そして、トモダチ作戦を踏まえて出来上がった新たな協力が今、育っているところです。
まず、トモダチ作戦の基礎となった協力からお話ししましょう。嚆矢となったのは、「日米防衛協力のための指針」(いわゆるガイドライン)が1997年に改訂されたことです。この時、「大規模災害の発生を受け、日米いずれかの政府又は両国政府が関係政府又は国際機関の要請に応じて緊急援助活動を行う場合には、日米両国政府は、必要に応じて緊密に協力する」という文言が加えられました。
具体的な協力の第一弾は、中米のホンジュラスが1998年にハリケーンに襲われた時に行った国際緊急援助活動です。自衛隊は被災民を援助するため、初めて国際緊急援助活動隊を派遣しました。これに伴い、太平洋をまたいで1万2600キロメートル先の同地まで援助隊の装備品を運ぶ必要がありました。輸送機C-130の航続距離は4000キロなので、途中で幾度か燃料を補給しなければなりません。この時、米軍が基地を提供してくれたのです。グアムのアンダーセン空軍基地、ハワイのヒッカム空軍基地、カリフォルニアのトラビス空軍基地などで給油することができました。ここから、日米の協力が「間接的」ながら、始まったわけです。
その次は2005年にパキスタンで大地震が起きた時に行なった「パキスタン国際緊急援助活動」です。この地震で、7万人の市民が亡くなりました。パキスタン軍はテロとの戦争の真っ最中であるにもかかわらず、相当の人員を救援・復旧活動に割かなければならない。しかし、それでは、対テロ戦の勢いをそいでしまうことになりかねません。それを避けるため、日米が協力して救援・復旧活動を支援しました。日米の協力が、対テロ戦の維持という政策で協調する「戦略的」な性格を帯びるようになったのです。
次のステップになったのは、2010年に中米ハイチで起きた地震に対応した「ハイチ国際緊急援助活動」です。この時は、ハイチに居た34人の米国民を、ポルトプランス空港から米マイアミのホームステッド空軍基地まで自衛隊が輸送機C-130で運びました。また、腹膜炎と腰椎骨折で苦しむレオガン市在住の女の子を、米海兵隊の部隊がいる3キロ離れた地点まで、自衛隊が車両で運びました。ここからは海兵隊がヘリを使い、米軍の病院船「コンフォート」まで運んでいます。このプロジェクトでは日米がついに現場で「直接的」に協力する段階に達したのです。
こうした積み重ねがあったからこそ、トモダチ作戦で協力することができたのです。
○フィリピンでの災害支援は第2のトモダチ作戦
--トモダチ作戦が元となっている、その後の協力というのはどういうものですか。
笠松:一つは、「海図」の整備です。トモダチ作戦は「海図なき航海」と呼ばれていました。日米がどのような役割を分担するのかなど、事前には何も決まっていなかったからです。しかしトモダチ作戦を受けて、我々はこの「海図」を整備しました。その成果の一つが「自衛隊南海トラフ対処計画」です。南海トラフ地震が起きた場合を想定して、日米調整所の設置要領や、調整メカニズムの作り方、日米が共同して行う活動の概要をまとめています。
もう一つが、2013年にフィリピンを襲った台風への対処でした。レイテ島のタクロバンなどで洪水や土砂崩れが発生し、多数の死者や避難民が発生しました。トモダチ作戦を含むこれまでの活動で培った日米の協力体制を第三国に対して提供したのです。日米同盟がまさに「地域を安定させるための公共財」としての役割を果しました。
この活動では三つの大きな進展がありました。一つは、日米間の情報共有がいっそう緊密になったことです。
陸上自衛隊はこの年、米太平洋海兵隊司令部に常設の連絡将校を初めて配置しました。米太平洋海兵隊はフィリピンの救助活動を担当した部隊の上部組織です。
この時、同司令官のロブリング中将(当時)がこの連絡将校に作戦室に入ることを特別に許可しました。おかげで陸上自衛隊は、米軍がどのように動こうとしているか、すべての詳細情報を得ることができ、緊密な連携をすることができました。
二つめは国際緊急援助活動において、日米物品役務相互提供協定(ACSA)を初めて適用したことです。ACSAは、自衛隊と米軍の間で、物品・役務(サービス)を相互に提供する枠組みを定めた協定です。防衛省は2012年に自衛隊法を改正し、国際緊急援助活動についても適用できることを明記しました。フィリピンにおいて、これを初めて実行することになったのです。
○協力の輪を多国間に
三つめは、これまで培ってきた、日米以外の国とのヒューマンネットワークが花を咲かせたことです。実は、陸上自衛隊は2002年から、人道支援/災害救助活動などにおける多国間協力をテーマにしたアジア太平洋地域多国間協力プログラム(MACP)を開催しています。大規模災害が起きた時の多国間調整のあり方などについて議論を続けてきました。
そして、この時、まさに13カ国からなる多国間調整所を設置することになりました。参加したのはフィリピンのほか、日米、オーストラリア、ニュージーランド、ブルネイ、インドネシア、マレーシア、韓国、英国、スペイン、カナダ、イスラエルの各国です。
幸いなことに、多国間調整所に姿を現した日米、カナダ、フィリピン、英国のメンバーはMACPの参加者だったのです。MACPにおけるこれまでの議論の中で調整メカニズムのテンプレートを共有していたため、調整作業をスムーズに進めることができました。
--中国の台頭を背景に、アジアで多国間安全保障体制を築くべきとの議論があります。災害対応を通じて築いた多国間調整のメカニズムが、有事の際に役に立つようになるかもしれないですね。トモダチ作戦では、素早い動員が日米同盟の力を証明することになりました。フィリピンでの活動においても同様のことがあったのでしょうか。海上自衛隊の空母型護衛艦「いせ」に、米軍の垂直離着陸輸送機「オスプレイ」を搭載して臨んだと聞いています。
笠松:そうですね。これには現地を不安定な状態にしない効果が期待できました。
--大きな災害が起き、現地政府の機能が麻痺すると、その空白を突こうとして、反政府勢力などが活動を活発化させることが想定されます。そうした事態を招かないよう、すぐ近くに日米が存在していることを示すシンボルというわけですね。
笠松:おっしゃる通りです。
人道支援/災害救助活動における日米の協力は、今後どのように発展させていくでしょうか。
笠松:大きく三つの方向に進化させていく考えです。一つは、第三国に対する能力構築支援です。2012年度以降、東ティモール、カンボジア、ベトナム、モンゴル、インドネシアに対して、人道支援/災害救助活動の能力を高めるための支援を提供しています。例えば東ティモールでは車両整備技術の教育を、カンボジアでは道路構築の教育を行ないました。
二つめは日米にオーストラリアを加えた3カ国間の協力を強化することです。2013年に陸上自衛隊と米太平洋陸軍、米太平洋海兵隊、豪陸軍のトップが集まり、「人道支援/災害救助活動」と「能力構築支援事業に関する情報共有」などについて協力していくことを盛り込んだ共同声明を発表しました。
三つめは、2010年に創設された拡大ASEAN国防相会議(ADMM+)における秩序作りに貢献することです。会議には五つのワーキンググループ(WG)があります。日本は2013年、防衛医学のWGでシンガポールとともに共同議長を務めました。この活動の中で、大規模災害が発生した時の防衛医学における各国の協力のあり方について検証するため、机上演習や実動演習を行いました。実動演習には18カ国から3100人が参加しました。さらに2014年からは、人道支援/災害救助活動のWGにおいて、ラオスと共同議長国を務めています。
ADMM+において日米は直接的な協力はしていませんが、ここでも日米が連携していくことが重要だと考えています。
----
傍白
「トモダチ作戦」――取りようによっては、偽善の響きを持つネーミングだ。国益のためには相手が誰であれ厳しい態度に出る米国が、単に友情で行動するわけがない。このように捉える向きは多いにちがいない。しかし、日米間に友情が全くなかったと考えるのも間違いだろう。笠松誠・西部方面総監部情報部長が披露してくれた教え子のエピソードからは、日本人と米国人が交流し語り合ってきた基盤があり、それがあったからこそ、被災者の心情に思いを馳せた行動を米兵が取ったことがうかがわれる。この友情に対して、心からお礼を申し上げたいと思う。
この友情を、日本はアジアの国々との間にさらに広げていくことを考えねばならない。そうすることが、危機に瀕した人たちの生命と生活を救うことはもちろん、国と国との関係を深めること、そして日本自身の安全保障の強化にもつながる。
最後にもう一つ、エピソードを紹介しよう。仙台空港のオペレーションから数カ月後経った2011年夏、コゼニスキー大佐は米国に帰国することになった。同大佐は笠松・西部方面総監部情報部長に「帰る前に、やりたいことがある」と語った。それは、民航機で仙台空港に降り立つこと。それが震災復興のシンボルだからだ。同大佐は、この夢を実現して米国へと去っていった。
----
2020.3.8 追記
早いもので10年が過ぎる。NHKWebの記事から
-----
「トモダチ作戦」 震災10年目の真実
2021年3月3日 18時03分東日本大震災
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210303/k10012893921000.html?utm_int=tokushu-new_contents_list-items_009
2011年3月12日、東日本大震災の発生翌日。
未曽有の大災害に見舞われた日本を支援するため、アメリカ軍が開始したのが「オペレーション・トモダチ」=「トモダチ作戦」だった。
兵士2万4000人が投入された「日米最大の作戦」は、どのように実行されたのか。
その舞台裏を、関係者はきのうのことのように克明に語った。
(ワシントン支局記者 辻浩平)
「日米最大の作戦」
ペンタゴンの名で知られるアメリカ国防総省の巨大な建物の廊下には、いたるところに博物館さながらの歴史の資料が展示されている。
日本にまつわるものも少なくないが、そのほとんどは太平洋戦争の「敵国」として描かれている。日本の全面降伏を確認した「降伏文書」の原本も。
その中に「同盟国」として日本が登場する展示がある。「トモダチ作戦」のパネルだ。
説明書きには「2国間の最大の作戦だった」と記されている。
出動したアメリカ兵は、約2万4000人。航空機189機、艦船24隻が投入され、震災発生翌日から約1か月半にわたって救援活動や物資の輸送などにあたった。
調整役には「渦中の人物」
この大規模な作戦で欠かせなかったのが、日米両政府の連携だ。
アメリカ側でその調整にあたった1人が、ケビン・メア氏だ。
国務省の外交官として、日本で合わせて19年間勤務した日本通で、流ちょうな日本語を話す。
日本への深い理解を買われ、がれきの撤去から食料や物資の輸送、さらに福島第一原発への対応まで、日本からの多岐にわたる要請の調整にあたった。
記憶している人も多いかもしれないが、メア氏は国務省で対日政策を担う日本部長だった際に「沖縄はゆすりの名人」と発言したとされ、更迭された人物だ。
本人は発言を否定し、発災前日の2011年3月10日、みずからの発言が正確に伝えられていないとして、抗議の意志を込めて上司に辞職する旨を伝えていた。
その翌日に起きた、東日本大震災。
上司から「日米両国の調整役をするのは君しかいないだろう」と言われ、辞職を急きょ延期して任務にあたったのだった。
メア氏がいまも鮮明に覚えているのは、発災直後に行われた、ホワイトハウスや国防総省の担当者が出席する政府中枢の会議だ。
メア氏
「日本を助けるべきかどうかが議論になることは一切ありませんでした。震災支援が日米安全保障条約の対象になるか、法律の基盤があるかどうかなどということは話にも上らなかった。支援すべきだという前提で、日本をどうやって助けるかというところから議論は行われたのです」
直ちに検討されたのは、被災地に最も早く駆けつけられるアメリカ軍の部隊はどこにいるかだった。
シンガポールから急行した旗艦「ブルーリッジ」
アメリカ軍の動きは速かった。
シンガポールに寄港していたアメリカ海軍第7艦隊の旗艦「ブルーリッジ」は、救援物資を積み込み、発災の翌朝には、日本に向けて出港。
乗船していたジェフ・デイビス元大佐は、次のように振り返る。
デイビス元大佐
「乗組員の多くは陸に上がっていたが、招集をかけるまでもなく、津波のニュースを聞いてみんなすぐに艦船に戻ってきた。自分たちも何かしなければならないという意識があったのです」
被災地の状況を把握するため、アメリカ軍は哨戒機や無人偵察機を飛ばして航空写真を撮影し、日本側に提供している。
ここでも同盟関係が力を発揮したという。
デイビス元大佐
「航空写真は画質や解像度が機密にあたるものもあり、通常、他国への提供には手続きが必要になります。ただ、日本とは同盟関係にあったので共有はスムーズに進みました」
拠点空港を5日間で復旧
「トモダチ作戦」の指揮をとることになったのは当時、太平洋艦隊司令官だったパトリック・ウォルシュ氏だった。
発災時は、司令部があるハワイの真珠湾にいたウォルシュ氏。
当初、アメリカ地質調査所が出したマグニチュード9という数字を見て、計器が壊れていると思ったという。それほどの巨大地震は信じられなかったのだ。
ウォルシュ司令官は、司令部機能の一部を東京の横田基地に移し、みずからも横田に移動。
作戦を進めるうえで気にかけたのは、通常の指揮系統を見直すことだった。
ウォルシュ氏
「軍隊は、通常は上下関係がはっきりした組織です。しかし『トモダチ作戦』で私たちは、自衛隊を支援するという役割でした。彼らの求めること、必要としていることを成し遂げるという姿勢です。上下関係ではなく、自衛隊と情報を共有し、水平の関係で決定を下していきました」
作戦の象徴的な活動の1つが、仙台空港の復旧だった。
津波で冠水し、がれきに覆われ、復旧には数か月かかると見られていた。
ここに、沖縄駐留の海兵隊の特殊部隊が投入され、自衛隊と連携することで、発災5日後には重機などを積んだアメリカ軍の輸送機が着陸。
物資や人員を運ぶ拠点となる空港の再開に、アメリカ軍司令部でも大きな歓声が上がったという。
ウォルシュ氏は後日、避難所となっていた学校を訪れた際、握手を求めてきた地元の高齢女性が、その手をずっと離さなかったのが今でも忘れられないと振り返る。
「安全」か「同盟関係」か
「トモダチ作戦」が急ピッチで進む中、日米の調整にあたっていたメア氏は、別の問題に直面していた。
福島第一原発の事故による放射能への対応だった。
メア氏は、アメリカ政府内で当時、東京在住のアメリカ人9万人を退避させるかどうかが議論されていたと明かす。
原発が制御できているのか状況が分からない中、エネルギー省はコンピューターによる放射能拡散のシミュレーションを続けていた。
結果が出ていない段階で行われた会議では、万が一の場合を想定し、避難させるべきだという声が上がっていたという。
メア氏
「放射能レベルが高いと分かれば、すぐに避難させたでしょう。ただ、この時点ではシミュレーションの結果が出ていませんでした。その時点で判断して、結果的に必要なかったのに避難させたとなればアメリカ人は逃げ出したと思われ、日本から信頼されなくなります。日米同盟の基盤が崩れてしまうおそれがあったのです」
結局、会議ではメア氏などの「シミュレーションの結果を待つべき」という意見が通る。
その後、放射能レベルは問題ないことが確認されたとして避難は見送られたが、在日アメリカ人の安全と、日本との同盟関係がまさにてんびんにかけられていた瞬間だった。
自分より高位の政府関係者が集う会議で、臆せず発言するメア氏に、同僚が心配して声をかけると、笑ってこう答えたという。
「最悪クビになったって、私はすでに辞表を出している。何も恐れることはない」
その後、メア氏は日米両政府の調整にめどがついたとして、4月6日に退職している。
アメリカ兵による訴訟も
日米同盟の真価が発揮されたともされる「トモダチ作戦」。
だが、この作戦をめぐっては訴訟も起きている。
作戦に参加した空母「ロナルド・レーガン」の乗組員など少なくとも200人以上が、東京電力などに対し損害賠償や治療費などを求めて裁判を起こしているのだ。
福島第一原発の保守管理などが不適切だったために事故が起き、被ばくによって健康被害を受けたというのがその理由だ。
弁護士によると、原告の元兵士の中には白血病や甲状腺の異常などの症状が出ているという。
原告の1人、スティーブ・シモンズ元中尉が取材に応じてくれた。
シモンズさんが乗艦していた空母は福島県沖およそ200キロの地点を通過し、三陸の沖合に展開。
物資を運ぶヘリコプターなどの洋上基地として、交通網を遮断された被災地に物資を運ぶために、欠かせない役割を果たした。
任務を終え、半年余りがたった2011年11月ごろから、シモンズさんは運転中に気を失ったり、高熱が出たりするようになる。
体重は10キロ以上減り、足の神経麻痺の症状も出始めた。その後、両足は切断を余儀なくされ、今は車いす生活を送っている。
16年間勤めたアメリカ海軍は、2014年に名誉除隊となった。
作戦に参加するまでは山登りやハイキングを楽しみ、ハードなトレーニングも軽くこなす体だっただけに、シモンズさんは作戦中に被ばくした可能性が原因だと考えている。
「もし同じ状況に置かれたら…」
シモンズさんにとって、人生が大きく変わったこの10年間は、どのようなものだったのか。
そう尋ねると、長い沈黙のあとにこう返ってきた。
シモンズさん
「どう表現していいのか分かりません。ありていに言えば、この10年間のほとんどは地獄のようでした。人生で最も苦しかった時期です。体の自由を失い、人生をかけて築いてきたキャリアも除隊して無になったのですから」
シモンズさん
「今もソーシャルメディアを見ることはほとんどありません。友人が活躍し、昇進しているのを目にすると、私はそこにいないのだと再確認してしまうからです。それはとてもつらいことです。(作戦に参加した)3月になると、いつもそのことが頭をよぎります。毎年3月は私にとって一番つらい時期です」
シモンズさんたちの被ばくの可能性と、健康被害の因果関係は証明されていない。
連邦裁判所は乗組員が起こした訴訟2件について、アメリカの裁判所が扱う事案ではないなどとして、請求を棄却している。
アメリカ国防総省は2014年に連邦議会に提出した報告書で「作戦に参加したすべての個人の推定被ばく量は非常に少なく、健康被害を引き起こす水準をはるかに下回っていた」として、健康被害との関係を否定している。
それでも、福島第一原発からの放射能で体の自由を奪われたと感じるシモンズさんに、私はこう尋ねた。
「トモダチ作戦に参加したことを後悔していますか」
返答はすぐだった。
シモンズさん
「答えはノーだ。もう一度あの時に戻れたとしても、同じことをするだろう。軍隊というのは、人生に大きな影響を及ぼしかねないリスクも背負うことになると承知のうえで、入隊するものだ。日本は同盟国、私に言わせれば兄弟同然だ。だからどんな状況であっても、もし同じ状況に置かれたら、同じことをするだろう。それが兵士というものだ」
感傷に浸るわけでもない、静かで淡々とした口調だった。
「トモダチ作戦」が残したもの
日本を取り巻く東アジアは、台頭する中国や核開発を続ける北朝鮮など、不安定な情勢が続いている。
「トモダチ作戦」の司令官を務めたウォルシュ氏は、作戦によって示された強固な日米同盟は、ほかの国々にも影響を与えたと指摘する。
ウォルシュ氏
「東日本大震災によって日米同盟は試され、両国は堂々と答えを出してみせた。アメリカが同盟国に対してどこまで支援するのか、日本がアメリカとの関係においてどれほどの地位を占めているのか、東アジアの国々ははっきりと理解したことでしょう」
在日アメリカ軍をめぐっては、沖縄の基地問題や駐留経費、それに兵士が起こす事件など、多くの課題を抱えている。
ただ「トモダチ作戦」に限って言えば「A friend in need is a friend indeed(困ったときの友こそ真の友)」ということわざを地で行く、心強い支援だった。
原発事故と地震・津波への対応を同時に迫られた東日本大震災。「関連死」を含めた死者と行方不明者は2万2000人を超え、戦後最大の危機だったと言われる。
私は震災後、岩手県に赴任し3年間、被災地取材に明け暮れた。現地で出会った人たちからは繰り返し、震災の風化への嘆きと警鐘を耳にした。
あの日から10年。
震災の記憶とともに、日本が最も助けを必要としたとき、覚悟を持って駆けつけた「トモダチ」の存在も、忘れてはならないと思う。
ワシントン支局記者
辻浩平
鳥取局、
エルサレム特派員、
盛岡局、政治部を
経て2020年から
ワシントン支局
『東日本大震災の被災地支援に陸海空で緊急展開した米軍。最大時約2万4000人を動員した大規模作戦「トモダチ」は、窮地の同盟国・日本を救うための活動だったが、一皮めくれば、軍事的に台頭する中国をにらんだ米国のアジア太平洋戦略が色濃く浮かぶ。米政府・米軍は作戦を通じ、どんな目的から何を実施し、教訓を残したのかを検証した。(肩書は当時、日本時間)
◆発生直後
◇強行着陸に空自「衝撃」
全可動艦艇出港」。海上自衛隊自衛艦隊(司令部・神奈川県横須賀市)の倉本憲一司令官が「戦時」を思わせる緊急命令を全国部隊に発令したのは東日本大震災発生から6分後の3月11日午後2時52分のことだ。
海自の歴史上初めて出された命令だった。横須賀基地にいた護衛艦は緊急船舶の指定を受けて、通常の倍以上で、最高速度にあたる最大戦速に近い時速27ノット(約50キロ)で東京湾を抜けた。
同司令部と隣り合わせの米軍横須賀基地。在日米海軍司令部があり、日本防衛と米軍世界戦略の拠点だが、08年から同基地を母港とする原子力空母ジョージ・ワシントンは定期整備中で、稼働できる状態ではなかった。代わって米国防総省が投入したのが、韓国軍との合同演習に向かうため西太平洋を航行中だった原子力空母ロナルド・レーガンを中心にした空母打撃群。大震災発生から4時間余経過した午後7時に首相官邸に「ロナルド・レーガンを宮城県沖に派遣する」との連絡が伝わり、13日朝に三陸沖に到着した。
直ちに、米部隊司令官のギリア少将が、海自の護衛艦きりしまに乗り込み、指揮を執る第1護衛隊群司令の糟井裕之将補と会談。日米互いの艦艇に1佐(米軍では大佐)クラスを連絡官として送り込むことを決めた。
米軍の被災地支援「トモダチ作戦」は、米海軍と海自が主導して始まった。米海軍と海自には戦後構築してきた「太いパイプ」がある。米海軍にとって日本は東アジアだけではなく、中東やアフリカまで含めた安全保障の要衝であり、双方は半世紀以上、環太平洋合同演習(リムパック)などで訓練を重ねてきていた。
米空母と海自の両指揮官は毎晩、「テレビ会議(VTC)」を開いて活動内容を話し合った。ロナルド・レーガンが合同演習用に積んでいた生活物資類などはすべて被災地支援に使われた。防衛省幹部は米海軍の迅速な対応について「アジア太平洋の米軍戦力の要は海軍。日本という拠点を失うわけにはいかないという危機感の表れ」との見方を示す。
「事態にどう対処すればいいのか」。3月12日、在日米軍司令部がある米軍横田基地(東京都福生市など)では、フィールド司令官(空軍中将)ら幹部が対応を協議していた。防衛省・自衛隊との連絡でいくつもの項目が支援リストに挙がった。13日には通常は横田基地の要人輸送に使うUH1Nヘリコプターで捜索・救援要員を仙台市の陸上自衛隊霞目駐屯地に輸送した。
そして米軍は自衛隊の度肝を抜く作戦にとりかかった。特殊部隊潜入などに使われる米空軍嘉手納基地(沖縄県)特殊作戦航空群の輸送機MC130Hが仙台空港に着陸したのは16日。滑走路にがれきが散乱していたが、偵察を兼ねた捜索飛行などの調査結果をもとに「仙台空港を拠点とする」との方針が決まり、最低限のがれき除去で強行着陸し、復旧作戦に着手した。
仙台空港の管制塔は1階のレーダー室に土砂が流入し、使用不能になった。米軍の特殊作戦部隊は独自のレーダーで飛行経路と地形を掌握していたという。空自幹部は「トモダチ作戦の中で最も衝撃的な作戦だった」と驚きを隠さない。
◆原発事故
◇連日の会議、不信払拭
国防総省を巻き込んだ米軍と自衛隊の連携はスムーズに走り出したが、大震災翌日の3月12日午後に起きた東京電力福島第1原発1号機の水素爆発で、日米両政府は情報不足と連携の欠如で互いに疑心暗鬼を深めていく。
「正確な情報を教えてもらいたい」。大震災発生から2日後の13日昼前、ルース駐日米大使が枝野幸男官房長官に電話で直談判した。枝野長官は「自衛隊と米軍の間で、連携はちゃんと取れている」と説明した。
首相官邸は早くから米軍との連携を模索。11日夜には外部電源を失った福島第1原発の原子炉冷却に必要となった電源車(約8トン)を米軍の大型ヘリコプターで輸送できないか米側に打診したが「重すぎて困難」との返答を受けていた。その後始まった「トモダチ作戦」は順調に稼働しているはずだった。
だが、複数の日本政府関係者によると、ルース大使の懸念は、爆発事故を起こした原発の現状がさっぱりわからないところにあった。14日深夜、大使は再び枝野長官に電話で「わが国の原子力専門家を首相官邸に常駐させたい。意思決定の近くに置きたい」と申し出た。同盟関係とはいえ、機密情報があふれ、厳しい政策判断を次々と迫られる官邸中枢部に入り込まれることに抵抗感を覚えた枝野氏は「難しい」といったんは断った。
日本側は、菅直人首相が15日、東電本店に政府との「統合本部」を置き、海江田万里経済産業相と細野豪志首相補佐官を常駐させるまで、原発事故に関する十分な情報を得られていなかった。米国は日本の情報提供を待たず、グアム基地の最新鋭無人航空機グローバルホークや、米ネブラスカ州に駐機中の放射性物質を観測できる大気収集機WC135コンスタントフェニックスを出動させ、独自の情報収集と分析を進めていた。
ルース大使が「米専門家の官邸常駐」を要請した翌日の15日、来日中の米原子力規制委員会(NRC)とエネルギー省の担当者が、班目(まだらめ)春樹原子力安全委員長、原子力安全・保安院の担当者らと面会した。「炉心は損傷しているが、メルトダウン(溶融)は起きていない」という班目氏らの説明を米側は黙って聞いていたが、日本側の出席者の一人は「米側はここで日本側との認識のズレを感じたのではないか」と振り返る。
米側はすでにメルトダウンの発生を推定しており、「日本側が情報を隠しているのではないかとの疑念があった」(日本政府関係者)という。一方、躍起になって情報を探る米側の対応に日本政府内では「エシュロン(米軍を中心に運用されているとされる世界通信傍受システム)を使っているのではないか」との声も漏れた。
◇
菅首相や枝野長官は協議の末、NRCの担当者らが官邸内の危機管理センター横の原子力安全・保安院や東電担当者が詰める「連絡室」に16日から常駐することを認めた。
しかし、大使の懸念は消えず、北沢俊美防衛相とのパイプを頼って情報不足の解消を求めた。北沢氏はNRCの担当者を防衛省に呼び、経産省や東電の担当者らとの情報交換の場を設置。会議は計4回に及んだ。
一方、防衛政務官を経験し、太い対米人脈を持つ長島昭久民主党衆院議員は18日午後、福山哲郎官房副長官、細野補佐官とともにルース大使と東京都内のホテルで会談した。
長島議員「世界が注目している。日米協力で乗り切るしかない。情報共有の場を作りましょう」
ルース大使「それはいい。複合的な災害の初期段階だから各省庁とも大変でしょう。お手伝いしたい」
大震災発生から11日後の22日、官邸横にある内閣府ビルの一室で日米政策調整会議の初会合が開かれた。統括役の福山副長官は「この協議で出なかった話が、他の場で出ることはあり得ない」と表明した。
日本側からは福山副長官のほか、官邸の細野補佐官と伊藤哲朗内閣危機管理監、防衛省、外務省、経産省、原子力安全・保安院、資源エネルギー庁、文部科学省、厚生労働省などの局長クラス、東電の武藤栄副社長らが参加。米側はズムワルト駐日公使、在日米軍副司令官、NRCやエネルギー省担当者が参加した。
会議は以後、連日午後8時から開かれ、原発への注水や、ロボットや真水を運ぶバージ(はしけ)船投入などが議論され、原発事故収束に向けた日米協力の一元的・基幹的会議となった。
長島議員は言う。「(同会議設置で)深刻な不信感が払拭(ふっしょく)された。喉元過ぎれば熱さ忘れるではなく、日米協力の常設の調整機関の設置が重要だ」
◆総力投入
◇「強圧的な組織」 日本側戸惑いも
米軍は原発の異常事態が始まった3月11日夜には米エネルギー省の専門家が米ネバダ州ラスベガスを放射線量測定器を携えて出発し、横田基地へと向かった。測定器は上空から地上の放射線量を測定することができる。しかし、在日米軍には放射線被ばくを想定したリスク管理の厳格なガイドラインは存在しなかった。フィールド司令官は放射性物質が人間や自然にどんな影響を与えるかについてほとんど知識がなかったことを悔いた。
「ここには輸送機もヘリもある。おそらく放射性物質がある未踏の場所へと飛んでもらうことになる。だれがやる?」。専門家らが基地到着後、フィールド司令官は基地のパイロットらにこう聞いた。あくまで志願制をとるしかなかったが、全員が「やります」と返事した。上空からの測定作業は14日に始まった。
米軍は生活支援に心遣いをみせた。
<ここには何人いますか?>
<必要なものはどんなものですか?>
米軍は孤立した地域にヘリで降り立って、事前に準備していた、日本語で書かれた質問票を見せる。回答を持ち帰り、大急ぎで英訳して、その地域で必要な物資を配る。ニーズを的確に把握し、その変化に即応できる態勢が整っていた。
米軍は、現場の指揮官に多くの日本勤務経験者を派遣、「日本のルール」に従う姿勢を通した。3日目以降は支援物資の搬送も頻繁になった。通常、米軍はヘリで上空から物資を投下し帰還する。04年のスマトラ沖地震・津波の災害現場でもそうだった。しかし、今回は時間をかけて着陸し物資を手渡した。緊急食として出した「戦闘糧食(レーション)」の食べ方が分からないという被災者の声を聞いて、急きょ日本語の説明書を作成した。
フィールド司令官はこのころ、制服組トップのマレン統合参謀本部議長(海軍大将)からの電話を受けた。
マレン議長「これからウォルシュ太平洋艦隊司令官とチームをそちらに送る」
フィールド司令官「私はクビということですか?」
議長「違う。できうるすべてを提供するということだ」
海軍大将のウォルシュ司令官はフィールド司令官より格上で、米政府の総力を挙げた支援の意思を示すことになる。ウォルシュ司令官は3月下旬から約3週間にわたり、トモダチ作戦の指揮をとる。
◇
迅速で入念な米軍の対応に自衛隊側がけおされる場面もあった。
「なんだか占領軍みたいで、どうも気になるのだが」。震災後しばらくしたあと、制服最高幹部の集まる防衛省内の非公式の会合で、そんな意見が表明された。ウォルシュ司令官派遣に伴い、米太平洋軍がJTF(Joint Task Forces)の司令部を米ハワイから東京・横田基地に移すとされたことに対する懸念だった。
太平洋地域で起きる有事・大規模災害に対処するための統合任務部隊の常設司令部だが、一部将官の目には「支援はしてくれるが米国流を押し通そうとする強圧的な組織」に映った。米軍は司令部移転の際は名称を変え、JSF(Joint Support Forces=統合支援部隊)として設置。日本に対する配慮を見せた形だった。
作戦面でも一部に戸惑いがあった。強襲揚陸艦エセックスは多数の沖縄の海兵隊員を乗せて訓練のためにいたマレーシア沖から急きょ北上。18日には秋田沖に到着したものの、物資輸送などが主で、海兵隊の機能を発揮した27日からの宮城県気仙沼市・大島での復旧活動まで約1週間かかった。防衛省幹部は「まさか精鋭の海兵隊の部隊にゴミ拾いをさせるわけにもいかず、どこに行ってもらっていいか迷いがあった」と振り返る。
日米共同復興作業の象徴と位置づけた「ソウル・トレイン(魂の列車)」作戦では、在日米軍にJR仙石線の野蒜(のびる)駅など、2駅の復旧を依頼した。そこはすでに、自衛隊が遺体の捜索を終えていた。もし、米軍が遺体を見つけ、被災地とトラブルが起きれば「米国が支援しようとしているのに、逆効果になる」(陸自幹部)との配慮があったからだ。
さらに米軍との調整に関わった自衛隊幹部は「普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題もある中、沖縄の海兵隊に活躍の場を与えてほしいという米軍の意思を強く感じた」と明かす。
◇空母、中国の接近けん制
日本の防衛の重点が「東方集中」する中、その空白を埋めるように米軍が静かに動き出した。
「なんでこんなところに米軍がいるんだ」。3月17日、統合幕僚監部内がざわついた。マレーシア沖での訓練を切り上げて被災地支援へと向かう米強襲揚陸艦エセックスが、被災地に近い太平洋ではなく、日本海を航行していたためだ。
呼応するかのようにロシア軍の動きが活発化。17日にはIL20電子情報収集機が日本領空に接近し、航空自衛隊が戦闘機を緊急発進(スクランブル)させた。
続いて、米軍横須賀基地で定期整備中だった原子力空母ジョージ・ワシントンが21日、急きょ乗員や民間の整備員らを乗せ出港した。その後、伊豆大島、土佐湾沖で洋上整備を続け東シナ海にまで足を伸ばした。
防衛省幹部によると、この頃、中国空軍が偵察機を頻繁にジョージ・ワシントンに向け飛ばしたことが自衛隊の警戒・監視活動で把握された。同幹部は「中国軍の偵察対象になっていたのは間違いない」という。
また、中国は日本にも行動をとった。26日に東シナ海で警戒監視中の海自護衛艦いそゆきに中国国家海洋局ヘリZ9が約90メートルまで接近。4月1日には中国のプロペラ機Y12が同様に異常接近する行為もあった。
3月21日には領空約60キロまで接近した集塵(しゅうじん)装置をつけたロシア軍のスホイ27戦闘機とAn12電子戦機に空自がスクランブルをかけ、29日にも情報収集機が接近。戦闘機は福島第1原発事故に伴う放射性物質の飛散状況調査が目的とみられるが、同幹部は、米軍の動向に神経をとがらせていた表れとみている。
ジョージ・ワシントンは東シナ海を経由し、4月に2回、長崎県・米軍佐世保基地に物資補給などのために寄港。米海軍によると、原発事故の状況が発生当時より改善されたとして同20日に横須賀基地に帰港した。
当初、ジョージ・ワシントンが横須賀基地を離れたのは、原発事故による放射性物質の被害を避けるため、と見られていた。しかし、防衛省幹部は「米軍は空母を前進配備させた。日本から要請したわけではないが、日本に手を出したら許さない、という意思表示だった」と解説する。
「お客さんが来ないとおもしろくないよね」。トモダチ作戦終了後、米国防総省幹部は防衛省幹部に冗談めかして伝えたという。中露側の動きを想定し、関与を強める狙いがあったとみられる。
一方、被災地支援では、中国政府による「軍事支援」の申し出が、幻に終わった事例もあった。
大震災から5日後の3月16日、中国国防省が病院船派遣の用意があることを伝えたが、日本政府は27日、「港が津波で被害を受け、船を接岸できない」と、謝意を伝えたうえで辞退。だが、米海軍幹部は「中国軍の病院船が入ればトモダチ作戦のオペレーションに加わることになり、作戦会議を通じ情報を一部共有しなければならなくなる」と指摘。米軍の意向が働いた可能性を示唆した。
米中両国が東日本大震災の舞台裏で繰り広げた激しい「神経戦」の背景には、中国の軍備拡大と海洋進出への野心から、劇的に変化するアジア・太平洋地域の安全保障の構図がある。
中国は近年、米空母を近海に寄せ付けない「接近阻止」戦略を進め、地上から空母を攻撃する世界初の車載型対艦弾道ミサイルDF21D(通称・空母キラー)を開発。日本やフィリピン諸島を射程(約2000キロ)に収めたとされる。米国防総省によると、その攻撃能力を米領グアム付近にまで拡大させつつある。
これに対して米国は昨年2月、米議会に提出した「4年ごとの国防政策見直し(QDR)」で、新構想「ジョイント・エア・シー・バトル(米空海統合戦略)」を公表。米海軍が開発中の世界初のステルス式空母艦載型無人爆撃機で対抗する戦略だ。戦闘行動半径は2780キロと長く、空母キラーの射程外から攻撃できる。
米海軍関係者は「横須賀基地を(事実上の)母港とするジョージ・ワシントンに艦載することになるかもしれない。この爆撃機は日本や在日米軍基地を最前線で死守する防波堤になりうる」と話した。
ただし、防衛省では大震災後の中国軍の動向を分析した結果、「日本の混乱に付け入るような不穏な動きはなかった」と結論付けたという。一方、トモダチ作戦終了後、中国関係者が防衛省幹部に伝えた。「自衛隊10万人と米軍2万人が短時間であれだけ調和した作戦を実行したのは驚きだ」
◇韓・豪と同盟強化へ布石
米国のアジア太平洋での抑止力強化をベースとする対中戦略は、東日本大震災での被災地支援でも如実に透けて見えた。大震災後、被災地に世界23カ国・地域から救助隊などが駆けつけたが「軍事作戦」を組んだのは、日本の自衛隊のほかには米国と同盟関係にあるオーストラリアと韓国だけだった。
豪州東部クイーンズランドを拠点とする捜索・救援タスクフォースが捜索犬を伴い大型輸送機C17で東京・米軍横田基地に着陸したのは大震災3日後の3月14日早朝。国際的な災害救援で急派される精鋭チームだ。
すぐさま、米軍との調整で豪州主導の別の作戦「パシフィック・アシスト(太平洋支援)」が動き出す。到着したC17を被災地支援の輸送業務に任務変更して活用する作戦だった。
C17は大型貨物を搭載できる一方、短い滑走路でも発着できる即応性・機動性に優れた輸送機。横田基地から沖縄の米軍嘉手納基地へと向かい、陸上自衛隊第15旅団の要員とトラックを乗せ、被災地へと運んだ。
豪国防省は4機のC17のうち、さらに2機投入を決定。スミス国防相が21日、北沢防衛相に電話で伝えた。同夜と翌22日朝に相次いで豪州から飛び立ったC17は、米国の要請に基づき福島第1原発事故対応で使用する遠隔操作高圧放水砲システムを積んでいた。
豪政府関係者は「日米豪の普段の連携があって初めてできたことだ」と振り返る。日本政府高官は「豪州からは同盟国の米国と、豪州が加盟する英連邦を通じたNATO(北大西洋条約機構)の情報が入ってくる。豪州との連携は有益だ」と語り、日米豪の連携の重要性を強調した。
韓国の対応も早かった。「史上例のない大災害を経験している日本への支援に最善を尽くす」。震災当日の11日夕、韓国の李明博(イミョンバク)大統領は関係閣僚を緊急招集して指示した。12日に先遣隊を派遣し、14日からは空軍輸送機C130で救助隊や自衛隊の使う装備などを搬送。災害派遣では「過去最大規模」(韓国政府)となった。
被災地支援で構築された日米韓豪の「同盟連合」の伏線は、大震災の5カ月前にさかのぼる。
「エア・シー・バトル構想の成功のカギを握るのは、情報共有だ」。昨年10月、米軍の呼びかけで韓国で開催されたアジア太平洋の同盟国・友好国軍幹部の非公式会合で、同地域の米軍トップ、ウィラード太平洋軍司令官が表明した。日韓豪やシンガポール、フィリピンなどが参加。各国の軍幹部らが中国海軍力の拡大に懸念を示した。
米国は、空軍の最新鋭無人偵察機グローバルホークを同盟国に売却する交渉を進めている。30時間以上の連続飛行ができ、約560キロ先まで見通し、ほぼリアルタイムで地上に情報を送ることができる。「地域全体を広範囲に監視下に置き、情報共有するネットワーク構築につながる」と米軍関係者は狙いを語る。
韓国政府は「北朝鮮の警戒に役立つ」として4機を購入する計画。豪政府も「インドネシアからの不法移民や中国艦船の監視」を念頭に15年ごろをめどに5機前後を導入する方針だ。
米軍は大震災の翌12日からグローバルホークをグアムの空軍基地から福島原発上空に急派した。5月11日までの2カ月間、撮影した4400枚以上の写真を日本に無償で提供した。
トモダチ作戦終了から半年を経た11月。オバマ米大統領は豪州北部のダーウィン空軍基地を訪れ、最大2500人規模の米海兵隊を来年から順次駐留させると発表。中国をにらんだ同盟強化の布石を着々と打つ。
◇
トモダチ作戦で日米の「軍と自衛隊」の一体化は進んだ。しかし、米国では景気悪化で国防総省予算が今後10年で最低でも5~10%削減される見通しだ。同盟国に軍事的責任と負担を分散し、「より低コストで、より大きな効果」(クローニン新米国安全保障センター上級顧問)を生み出す狙いもある。
だが、グローバルホークの売り込みに防衛省は「現在保有する偵察機で必要な役目は果たせる。日本も財政的な余裕がない」(幹部)と消極的で、米軍関係者からは「具体的な交渉の進展はない」との不満も漏れる。
米国を軸とする「同盟強化」路線は、一皮めくれば、日本の防衛戦略の拡大と防衛力整備を一層迫るものでもある。窮地の日本を手助けしたトモダチ作戦や日米韓豪の軍事的連携が、日本に突きつけた課題は重い。
◇自衛隊派遣「10万人」 「防衛空白」を回避
被災地支援と原発事故対応での日米作戦の裏側で、防衛省・自衛隊ではもう一つの「作戦」を遂行した。
東日本大震災発生直後、東京・市ケ谷の防衛省の情報本部は緊迫した。電波や電子情報、衛星画像情報などの分析を通じ、国際的な軍事情勢や外国軍隊の動態を把握する機密情報の「総本山」だ。
「本来任務を怠らず、万全を期すように」。本部内では幹部から冷静な指示が飛んだ。史上空前の災害だけに自衛隊派遣が大規模になるのはすぐに分かった。防衛省幹部が警戒したのは、大規模災害派遣と原発事故対処で国の守りに穴があく「防衛空白」だけは避けなければならない、ということだった。情報本部が収集・集約した機密情報は、司令部となった中央指揮所(CCP)にも送られ、自衛隊の運用に反映された。
情報本部が提出する資料には、海上人命安全条約(SOLAS条約)に基づく船舶自動識別装置(AIS)による日本近海での中国民間船の動きや、電波情報などでとらえた中国海軍艦船の動きも含まれていた。
「防衛空白」を警戒したのは、CCPに陣取る折木良一統合幕僚長も同じで、細心の注意を払った。官邸からは大震災発生直後から「大規模派遣」を促す指示が北沢俊美防衛相を通じて矢継ぎ早に出された。
救援や復旧作業の要となる陸上自衛隊は地域ごとに全国に5方面隊あり、大規模部隊の師団9、機動的な旅団6で構成される。折木統幕長は幕僚会議の結果、九州や沖縄を防衛する西部方面隊の第15旅団(司令部・那覇市)と第8師団(同・熊本市)、関西地方を担当する中部方面隊の第3師団(同・兵庫県伊丹市)と、北海道防衛にあたる北部方面隊の第7師団(同・北海道千歳市)を極力、動かさないことを早々と決めた。九州や沖縄の海域を警戒する海上自衛隊佐世保基地(長崎県佐世保市)の艦なども動かせないと考えた。
背景にあるのは中国軍やロシア軍の存在だ。こうしてはじき出された派遣可能な自衛隊規模は、陸自に海自と航空自衛隊を含めて「12万~13万人」だった。折木統幕長は北沢防衛相に「13万人までは大丈夫です」と伝えた。陸海空3自衛隊の実員は約23万人で、半数以上が災害派遣に割かれる事態になる。政治的な判断は実員半分以下の「10万人」に落ち着いた。
==============
滝野隆浩、及川正也、尾中香尚里、大治朋子、鈴木泰広、坂口裕彦が担当しました。(グラフィック・菅野庸平 編集・レイアウト 屋代尚則)
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/verification/news/20111229ddm010040017000c.html
毎日新聞 2011年12月29日 東京朝刊』
2018.3.12追記
yahooニュースに2015.3.10付のニュースが載っている
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150306/278346/?P=1
===
『トモダチ作戦、米兵はシャワーすら浴びなかった』
2015年3月10日(火)
一等陸佐 笠松誠氏
----
笠松誠(かさまつ・まこと)
東日本大震災発生時に陸上自衛隊・国際防衛協力室長。現在は西部方面総監部情報部長。1965年生まれ。愛知県立大学卒業後、自衛隊に入隊。北部方面ヘリコプター隊、第1次イラク復興業務支援隊、在パキスタン日本国大使館防衛駐在官、幹部学校戦略教官などを歴任して現職。
----
----
2011年3月11日、東日本大震災が発生した。被災民の救助、被災地の復旧・復興を考えた時、いの一番に行なわなければならなかったことの一つが、物流インフラの復旧だった。被災地では、ありとあらゆるものが地震で壊れ、津波で流された。物流が機能しなければ、救護物資も救援物資も、被災者の元に届けることができない。地上の交通網が寸断される中で期待されたのは、物資を空から届ける方法だった。
その空の道を切り開くのに大きな力を貸してくれたのが米軍だ。東北の空の玄関である仙台空港を復旧させるプロジェクトに、「トモダチ作戦」の一環として加わってくれた。そのおかげで、わずか1カ月のうちに、民間航空機の離着陸が可能になった。
仙台空港復旧プロジェクトにおける米軍の協力はいかなるものだったのか。トモダチ作戦が持つ安全保障上の意義は何か。トモダチ作戦の経験は今、どのように役立っているのか。仙台空港復旧プロジェクトで米軍との調整の最前線に立った笠松誠・陸上自衛隊国際防衛協力室長(当時。現在は陸自西部方面総監部情報部長)に聞いた。(聞き手は森 永輔)
----
--仙台空港の復旧プロジェクトはどのように進行したのですか。
笠松:これには、米海兵隊のクレイグ・S・コゼニスキー大佐をはじめとする米陸海空海兵隊が大きな役割を果してくれました。
東日本大震災が発生した当時、陸上自衛隊の幹部学校で戦略教官を務めていた私は、国際防衛協力室長に異動することが内定していました。これは外国との間で様々な協力関係をつくる部署です。震災の発生を受けて3月18日、仙台に向かうよう命じられました。
まるで海に沈んだかのように冠水し、悲惨な状況を呈していた仙台空港の姿を見た時は、復旧には半年はかかるだろうと考えました。建物は焼失し、管制の機能はすべて失われていましたし。
悲観する我々の背中を押し、短期間での復旧を目指す提案をしてくれたのがコゼニスキー大佐でした。彼が勤務していた海兵隊のキャンプ・フジには様々な重機や大型トラックがあります。「それを使うのは今しかない」と言ってくれたのです。海兵隊の司令部は、一度は待ったをかけました。米軍が復旧作業に関わった時に日本国民がどのような反応を示すか分からないので、慎重になったようです。しかし、コゼニスキー大佐がそれを説得してくれました。
○「我々の装備を使うのは今だ」
米軍は当初から二つの明確な方針を持っていました。一つは空輸活動のハブとなる空港を開通させること。
もう一つは、その空港を復旧のシンボルとすることです。海水と瓦礫によって大きなダメージを受けた空港を復旧することができれば、被災民にも「自分のところも復旧できる」という希望を持ってもらうことができます。
--笠松さんは現地でどのような役割を果たしたのですか。
笠松:陸上自衛隊は震災に対応するため東北方面総監部に災害統合任務部隊(JTF-東北)を立ち上げました。司令官は君塚栄治・東北方面総監(当時)です。その司令部の配下に設置された日米調整所仙台空港現地調整所長(当時)として詰め、米軍や空港関係者との連携に当たりました。
----
米軍は3月16日、米太平洋特殊作戦コマンドを仙台空港に派遣し、復旧作業を開始した。同コマンドは空港のないところに空港を造る特殊作戦のエキスパートだ。臨時の航空管制機能を設置する技術も有している。3月18日には、コゼニスキー大佐が率いる海兵隊が到着。休む間もなく、瓦礫を除去する作業の準備に着手した。翌日から、米空軍が空輸してきた救援物資を、海兵隊が被災地に届ける支援が始まった。
----
--米軍と協力して作業を進める中で印象に残っているのはどういう点ですか。
笠松:彼らが「日米の間には文化面のバリヤーがある」ということをよく知っていてくれたことです。バリヤーを越えるのは容易なことではありません。しかし、その存在を意識しているのといないのとでは、行動が全く異なります。
例えば彼らは、被災者や空港職員と出会うとお辞儀をしていました。私は他の国で活動する米軍の姿を幾度も目にしてきましたが、あんな光景を見たのは初めてでした。
それだけではありません。彼らは自由に使えるシャワーユニットをいくつも持っているにもかかわらず、それらを使おうとはしませんでした。3月とはいえ重労働をしているので汗もかいたことでしょう。髭も剃らないので、ぼうぼうになっていました。なぜかと聞くと、「我々が使わなければ、被災者の誰かが使えるから」と答えるのです。
宿舎として使う天幕も簡易で小さなものを空港敷地の隅に立てて使っていました。彼らは、パソコンと巨大ディスプレイを使った会議などができる本格的な天幕を持っているにもかかわらずです。これも「余計なスペースを使わなければ、被災者が何かに利用できるかもしれないから」という理由でした。
--まさにトモダチ作戦の名前通り、米軍は友達として振る舞ったんですね。
笠松:はい。幹部学校の教官としてうれしいこともありました。教え子だった米陸軍からの留学生が偶然、仙台空港の復旧プロジェクトに配属されていました。ある時、彼女が「教官、たいへんです」と言って私のところに飛び込んできたのです。
聞いてみると、米軍が業者に発注して設置した簡易式トイレに黄と黒のトラテープが張り巡らされていて、「US ONLY」という張り紙が貼られているというのです。簡易式トイレの業者が、契約者である米軍に配慮して張り紙を張ったのでしょう。彼女は、「もし被災者がこれを見たら、誤ったメッセージが伝わってしまう。早く取りはずすよう調整してください」と私に要請したのです。
私は2005年に防衛駐在官としてパキスタンに赴任していました。この時、大地震が起きた。救助・救援のためにいちばんに駆けつけたのは米軍でした。しかし、彼らはパキスタンの人々の気持ちを慮ることができませんでした。パキスタンはイスラムの国であるにもかかわらず米軍は土日に休み、上半身裸になってキャッチボールをしていた。あれでは、むしろ行かないほうがよかったくらいでした。
米軍は3月31日、仙台空港でのプロジェクトを終えて去っていきました。その最後に何をしたか。彼らはなんとゴミ拾いをして帰ったのです。あれだけの瓦礫を撤去した後です、チューインガムの一つくらい落としていったとしてもバチは当たりません。そして、4月13日、念願だった民航機の運航が再開されました。
--まさに立つ鳥後を濁さずですね。トモダチ作戦で米軍は、どうしてパキスタンの時とは全く違う行動を取ったのでしょう。
笠松:やはり長年にわたって日本に駐留していることが大きかったのだと思います。コゼニスキー大佐がこんなことを言っていました。彼がキャンプ・フジの周辺でふだん接しているおじいさん、おばあさんと被災者の像が重なるのだと。おじいさん、おばあさんと同じような人が東北の地にもいる。その人たちを助けたいのだと。
○ゴミとなったクルマにもオーナーがいる
--キャンプ・フジ周辺のおじいさん、おばあさんが東北のおじいさん、おばあさんを救ったのだと言えますね。
米軍がまさに友達として被災民の気持ちを汲み取り、行動してくれたのは本当に有り難いことです。しかし、ご苦労も多かったのではないでしょうか。仙台空港復旧プロジェクトは事前にシナリオを決めていたわけでもなく、訓練をしていたわけでもありません。突然、起こった大災害に対して、いきなり集められた日米の部隊や空港関係者が協力するのです。順調に進む方が不思議です。
笠松:そうですね。しかし、正直な話、大きな問題になることはありませんでした。先ほどお話ししたパキスタンのプロジェクトでは多くの国から部隊が集まり、調整に難渋することがありました。それに比べると仙台空港でのプロジェクトで起きたことは何でもありません。
ただし、こんなことはありました。津波によって空港敷地内に流されてきた山となっているクルマの撤去作業をしていた時のことです。これらのクルマは破損しており、もう走ることのできない事実上のゴミです。このため米軍のある兵士がゴミとして取り扱おうとしました。それをコゼニスキー大佐が止めたのです。そして、「それぞれのクルマにはオーナーがいる。その気持ちを考えて取り扱うように」と指示しました。
また、あるチームが事前の調整をすることなく、ある小学校にヘリコプターで訪れ物資を配付したことがありました。困っている子供たちを早く助けたい一心で取った行動だったと思います。しかし、日本には日本の事情があります。被災した県の知事や、市町村の首長は、全体を見渡して、最も被害の大きいところから支援したい。そのためには、いろいろな調整が必要で、調整には時間がかかる。そういう配慮をする必要のない米軍から
見ると、日本側の動きは遅く、「やる気があるのか」と思うところもあったと思います。
○事実上の日米安保条約発動
--トモダチ作戦は安全保障上も大きな意義を持っていますね。適切な部隊を選んで任務を与え、現地に急行させる。最後の“撃ち合い”こそないものの、それ以外は有事の部隊展開と同じです。「日米安全保障条約の事実上の発動」と言われました。米軍は1万6000人の人員のほか、約20隻の艦艇、約40機の航空機を動員しました。
笠松:おっしゃる通りです。米国の各部隊は極めて短期間で展開しました。
----
米揚陸艦「トートゥガ」が佐世保から北海道に急行。3月16日、苫小牧にいる陸上自衛隊第5旅団の人員約300人を青森県の大湊に運んだ。これは津波警報が出ている真っ只中での協力だった。
強襲揚陸艦「エセックス」はアジア諸国との関係強化のためマレーシアを訪問していた。しかし、3月11日夜には同地を出航し日本に向かった。同艦はこの後、気仙沼大島の港復旧作業に加わった。
米海軍のシンボルである空母もトモダチ作戦に加わった。3月13日にはロナルド・レーガンが到着し、洋上のハブ空港としての役割を果たした。厚木基地から空輸した援助物資を降ろし、ヘリコプターに積み替えて被災地に運んだ。
----
笠松:この機動力の高さは周辺の国々を驚かせたと思います。
--国際政治の現実は厳しく油断のならないものです。ロシアは震災直後の3月17日、Su-27などの戦闘機を日本の間近まで飛ばし、放射能を収集する作業をしていました。中国も3月26日、海監のヘリコプターや航空機を海上自衛隊の護衛艦「いそゆき」に異常接近させました。
笠松:トモダチ作戦による一連の動きは、こうした国々に対して、日米の紐帯の強さ、日米同盟が非常に強固であることを周辺国に伝えるメッセージになったと思います。災害時の支援はもちろん人道支援の一環ですが、それにとどまらず、安全保障上の意義も持っています。以前は対テロ戦での協力がその役割を果していましたが、今は災害支援が取って代わっています。
○トモダチ作戦の基盤となった日米災害救護・復旧支援協力
--笠松さんは2013年にフィリピンで台風被害が起きた時に日米が共同で行った支援を「第2のトモダチ作戦」と位置づけていますね。
笠松:おっしゃる通りです。実はトモダチ作戦は、それだけが独立して存在しているわけではありません。その基礎となる、日米間の様々な協力がそれまでにありました。そして、トモダチ作戦を踏まえて出来上がった新たな協力が今、育っているところです。
まず、トモダチ作戦の基礎となった協力からお話ししましょう。嚆矢となったのは、「日米防衛協力のための指針」(いわゆるガイドライン)が1997年に改訂されたことです。この時、「大規模災害の発生を受け、日米いずれかの政府又は両国政府が関係政府又は国際機関の要請に応じて緊急援助活動を行う場合には、日米両国政府は、必要に応じて緊密に協力する」という文言が加えられました。
具体的な協力の第一弾は、中米のホンジュラスが1998年にハリケーンに襲われた時に行った国際緊急援助活動です。自衛隊は被災民を援助するため、初めて国際緊急援助活動隊を派遣しました。これに伴い、太平洋をまたいで1万2600キロメートル先の同地まで援助隊の装備品を運ぶ必要がありました。輸送機C-130の航続距離は4000キロなので、途中で幾度か燃料を補給しなければなりません。この時、米軍が基地を提供してくれたのです。グアムのアンダーセン空軍基地、ハワイのヒッカム空軍基地、カリフォルニアのトラビス空軍基地などで給油することができました。ここから、日米の協力が「間接的」ながら、始まったわけです。
その次は2005年にパキスタンで大地震が起きた時に行なった「パキスタン国際緊急援助活動」です。この地震で、7万人の市民が亡くなりました。パキスタン軍はテロとの戦争の真っ最中であるにもかかわらず、相当の人員を救援・復旧活動に割かなければならない。しかし、それでは、対テロ戦の勢いをそいでしまうことになりかねません。それを避けるため、日米が協力して救援・復旧活動を支援しました。日米の協力が、対テロ戦の維持という政策で協調する「戦略的」な性格を帯びるようになったのです。
次のステップになったのは、2010年に中米ハイチで起きた地震に対応した「ハイチ国際緊急援助活動」です。この時は、ハイチに居た34人の米国民を、ポルトプランス空港から米マイアミのホームステッド空軍基地まで自衛隊が輸送機C-130で運びました。また、腹膜炎と腰椎骨折で苦しむレオガン市在住の女の子を、米海兵隊の部隊がいる3キロ離れた地点まで、自衛隊が車両で運びました。ここからは海兵隊がヘリを使い、米軍の病院船「コンフォート」まで運んでいます。このプロジェクトでは日米がついに現場で「直接的」に協力する段階に達したのです。
こうした積み重ねがあったからこそ、トモダチ作戦で協力することができたのです。
○フィリピンでの災害支援は第2のトモダチ作戦
--トモダチ作戦が元となっている、その後の協力というのはどういうものですか。
笠松:一つは、「海図」の整備です。トモダチ作戦は「海図なき航海」と呼ばれていました。日米がどのような役割を分担するのかなど、事前には何も決まっていなかったからです。しかしトモダチ作戦を受けて、我々はこの「海図」を整備しました。その成果の一つが「自衛隊南海トラフ対処計画」です。南海トラフ地震が起きた場合を想定して、日米調整所の設置要領や、調整メカニズムの作り方、日米が共同して行う活動の概要をまとめています。
もう一つが、2013年にフィリピンを襲った台風への対処でした。レイテ島のタクロバンなどで洪水や土砂崩れが発生し、多数の死者や避難民が発生しました。トモダチ作戦を含むこれまでの活動で培った日米の協力体制を第三国に対して提供したのです。日米同盟がまさに「地域を安定させるための公共財」としての役割を果しました。
この活動では三つの大きな進展がありました。一つは、日米間の情報共有がいっそう緊密になったことです。
陸上自衛隊はこの年、米太平洋海兵隊司令部に常設の連絡将校を初めて配置しました。米太平洋海兵隊はフィリピンの救助活動を担当した部隊の上部組織です。
この時、同司令官のロブリング中将(当時)がこの連絡将校に作戦室に入ることを特別に許可しました。おかげで陸上自衛隊は、米軍がどのように動こうとしているか、すべての詳細情報を得ることができ、緊密な連携をすることができました。
二つめは国際緊急援助活動において、日米物品役務相互提供協定(ACSA)を初めて適用したことです。ACSAは、自衛隊と米軍の間で、物品・役務(サービス)を相互に提供する枠組みを定めた協定です。防衛省は2012年に自衛隊法を改正し、国際緊急援助活動についても適用できることを明記しました。フィリピンにおいて、これを初めて実行することになったのです。
○協力の輪を多国間に
三つめは、これまで培ってきた、日米以外の国とのヒューマンネットワークが花を咲かせたことです。実は、陸上自衛隊は2002年から、人道支援/災害救助活動などにおける多国間協力をテーマにしたアジア太平洋地域多国間協力プログラム(MACP)を開催しています。大規模災害が起きた時の多国間調整のあり方などについて議論を続けてきました。
そして、この時、まさに13カ国からなる多国間調整所を設置することになりました。参加したのはフィリピンのほか、日米、オーストラリア、ニュージーランド、ブルネイ、インドネシア、マレーシア、韓国、英国、スペイン、カナダ、イスラエルの各国です。
幸いなことに、多国間調整所に姿を現した日米、カナダ、フィリピン、英国のメンバーはMACPの参加者だったのです。MACPにおけるこれまでの議論の中で調整メカニズムのテンプレートを共有していたため、調整作業をスムーズに進めることができました。
--中国の台頭を背景に、アジアで多国間安全保障体制を築くべきとの議論があります。災害対応を通じて築いた多国間調整のメカニズムが、有事の際に役に立つようになるかもしれないですね。トモダチ作戦では、素早い動員が日米同盟の力を証明することになりました。フィリピンでの活動においても同様のことがあったのでしょうか。海上自衛隊の空母型護衛艦「いせ」に、米軍の垂直離着陸輸送機「オスプレイ」を搭載して臨んだと聞いています。
笠松:そうですね。これには現地を不安定な状態にしない効果が期待できました。
--大きな災害が起き、現地政府の機能が麻痺すると、その空白を突こうとして、反政府勢力などが活動を活発化させることが想定されます。そうした事態を招かないよう、すぐ近くに日米が存在していることを示すシンボルというわけですね。
笠松:おっしゃる通りです。
人道支援/災害救助活動における日米の協力は、今後どのように発展させていくでしょうか。
笠松:大きく三つの方向に進化させていく考えです。一つは、第三国に対する能力構築支援です。2012年度以降、東ティモール、カンボジア、ベトナム、モンゴル、インドネシアに対して、人道支援/災害救助活動の能力を高めるための支援を提供しています。例えば東ティモールでは車両整備技術の教育を、カンボジアでは道路構築の教育を行ないました。
二つめは日米にオーストラリアを加えた3カ国間の協力を強化することです。2013年に陸上自衛隊と米太平洋陸軍、米太平洋海兵隊、豪陸軍のトップが集まり、「人道支援/災害救助活動」と「能力構築支援事業に関する情報共有」などについて協力していくことを盛り込んだ共同声明を発表しました。
三つめは、2010年に創設された拡大ASEAN国防相会議(ADMM+)における秩序作りに貢献することです。会議には五つのワーキンググループ(WG)があります。日本は2013年、防衛医学のWGでシンガポールとともに共同議長を務めました。この活動の中で、大規模災害が発生した時の防衛医学における各国の協力のあり方について検証するため、机上演習や実動演習を行いました。実動演習には18カ国から3100人が参加しました。さらに2014年からは、人道支援/災害救助活動のWGにおいて、ラオスと共同議長国を務めています。
ADMM+において日米は直接的な協力はしていませんが、ここでも日米が連携していくことが重要だと考えています。
----
傍白
「トモダチ作戦」――取りようによっては、偽善の響きを持つネーミングだ。国益のためには相手が誰であれ厳しい態度に出る米国が、単に友情で行動するわけがない。このように捉える向きは多いにちがいない。しかし、日米間に友情が全くなかったと考えるのも間違いだろう。笠松誠・西部方面総監部情報部長が披露してくれた教え子のエピソードからは、日本人と米国人が交流し語り合ってきた基盤があり、それがあったからこそ、被災者の心情に思いを馳せた行動を米兵が取ったことがうかがわれる。この友情に対して、心からお礼を申し上げたいと思う。
この友情を、日本はアジアの国々との間にさらに広げていくことを考えねばならない。そうすることが、危機に瀕した人たちの生命と生活を救うことはもちろん、国と国との関係を深めること、そして日本自身の安全保障の強化にもつながる。
最後にもう一つ、エピソードを紹介しよう。仙台空港のオペレーションから数カ月後経った2011年夏、コゼニスキー大佐は米国に帰国することになった。同大佐は笠松・西部方面総監部情報部長に「帰る前に、やりたいことがある」と語った。それは、民航機で仙台空港に降り立つこと。それが震災復興のシンボルだからだ。同大佐は、この夢を実現して米国へと去っていった。
----
2020.3.8 追記
早いもので10年が過ぎる。NHKWebの記事から
-----
「トモダチ作戦」 震災10年目の真実
2021年3月3日 18時03分東日本大震災
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210303/k10012893921000.html?utm_int=tokushu-new_contents_list-items_009
2011年3月12日、東日本大震災の発生翌日。
未曽有の大災害に見舞われた日本を支援するため、アメリカ軍が開始したのが「オペレーション・トモダチ」=「トモダチ作戦」だった。
兵士2万4000人が投入された「日米最大の作戦」は、どのように実行されたのか。
その舞台裏を、関係者はきのうのことのように克明に語った。
(ワシントン支局記者 辻浩平)
「日米最大の作戦」
ペンタゴンの名で知られるアメリカ国防総省の巨大な建物の廊下には、いたるところに博物館さながらの歴史の資料が展示されている。
日本にまつわるものも少なくないが、そのほとんどは太平洋戦争の「敵国」として描かれている。日本の全面降伏を確認した「降伏文書」の原本も。
その中に「同盟国」として日本が登場する展示がある。「トモダチ作戦」のパネルだ。
説明書きには「2国間の最大の作戦だった」と記されている。
出動したアメリカ兵は、約2万4000人。航空機189機、艦船24隻が投入され、震災発生翌日から約1か月半にわたって救援活動や物資の輸送などにあたった。
調整役には「渦中の人物」
この大規模な作戦で欠かせなかったのが、日米両政府の連携だ。
アメリカ側でその調整にあたった1人が、ケビン・メア氏だ。
国務省の外交官として、日本で合わせて19年間勤務した日本通で、流ちょうな日本語を話す。
日本への深い理解を買われ、がれきの撤去から食料や物資の輸送、さらに福島第一原発への対応まで、日本からの多岐にわたる要請の調整にあたった。
記憶している人も多いかもしれないが、メア氏は国務省で対日政策を担う日本部長だった際に「沖縄はゆすりの名人」と発言したとされ、更迭された人物だ。
本人は発言を否定し、発災前日の2011年3月10日、みずからの発言が正確に伝えられていないとして、抗議の意志を込めて上司に辞職する旨を伝えていた。
その翌日に起きた、東日本大震災。
上司から「日米両国の調整役をするのは君しかいないだろう」と言われ、辞職を急きょ延期して任務にあたったのだった。
メア氏がいまも鮮明に覚えているのは、発災直後に行われた、ホワイトハウスや国防総省の担当者が出席する政府中枢の会議だ。
メア氏
「日本を助けるべきかどうかが議論になることは一切ありませんでした。震災支援が日米安全保障条約の対象になるか、法律の基盤があるかどうかなどということは話にも上らなかった。支援すべきだという前提で、日本をどうやって助けるかというところから議論は行われたのです」
直ちに検討されたのは、被災地に最も早く駆けつけられるアメリカ軍の部隊はどこにいるかだった。
シンガポールから急行した旗艦「ブルーリッジ」
アメリカ軍の動きは速かった。
シンガポールに寄港していたアメリカ海軍第7艦隊の旗艦「ブルーリッジ」は、救援物資を積み込み、発災の翌朝には、日本に向けて出港。
乗船していたジェフ・デイビス元大佐は、次のように振り返る。
デイビス元大佐
「乗組員の多くは陸に上がっていたが、招集をかけるまでもなく、津波のニュースを聞いてみんなすぐに艦船に戻ってきた。自分たちも何かしなければならないという意識があったのです」
被災地の状況を把握するため、アメリカ軍は哨戒機や無人偵察機を飛ばして航空写真を撮影し、日本側に提供している。
ここでも同盟関係が力を発揮したという。
デイビス元大佐
「航空写真は画質や解像度が機密にあたるものもあり、通常、他国への提供には手続きが必要になります。ただ、日本とは同盟関係にあったので共有はスムーズに進みました」
拠点空港を5日間で復旧
「トモダチ作戦」の指揮をとることになったのは当時、太平洋艦隊司令官だったパトリック・ウォルシュ氏だった。
発災時は、司令部があるハワイの真珠湾にいたウォルシュ氏。
当初、アメリカ地質調査所が出したマグニチュード9という数字を見て、計器が壊れていると思ったという。それほどの巨大地震は信じられなかったのだ。
ウォルシュ司令官は、司令部機能の一部を東京の横田基地に移し、みずからも横田に移動。
作戦を進めるうえで気にかけたのは、通常の指揮系統を見直すことだった。
ウォルシュ氏
「軍隊は、通常は上下関係がはっきりした組織です。しかし『トモダチ作戦』で私たちは、自衛隊を支援するという役割でした。彼らの求めること、必要としていることを成し遂げるという姿勢です。上下関係ではなく、自衛隊と情報を共有し、水平の関係で決定を下していきました」
作戦の象徴的な活動の1つが、仙台空港の復旧だった。
津波で冠水し、がれきに覆われ、復旧には数か月かかると見られていた。
ここに、沖縄駐留の海兵隊の特殊部隊が投入され、自衛隊と連携することで、発災5日後には重機などを積んだアメリカ軍の輸送機が着陸。
物資や人員を運ぶ拠点となる空港の再開に、アメリカ軍司令部でも大きな歓声が上がったという。
ウォルシュ氏は後日、避難所となっていた学校を訪れた際、握手を求めてきた地元の高齢女性が、その手をずっと離さなかったのが今でも忘れられないと振り返る。
「安全」か「同盟関係」か
「トモダチ作戦」が急ピッチで進む中、日米の調整にあたっていたメア氏は、別の問題に直面していた。
福島第一原発の事故による放射能への対応だった。
メア氏は、アメリカ政府内で当時、東京在住のアメリカ人9万人を退避させるかどうかが議論されていたと明かす。
原発が制御できているのか状況が分からない中、エネルギー省はコンピューターによる放射能拡散のシミュレーションを続けていた。
結果が出ていない段階で行われた会議では、万が一の場合を想定し、避難させるべきだという声が上がっていたという。
メア氏
「放射能レベルが高いと分かれば、すぐに避難させたでしょう。ただ、この時点ではシミュレーションの結果が出ていませんでした。その時点で判断して、結果的に必要なかったのに避難させたとなればアメリカ人は逃げ出したと思われ、日本から信頼されなくなります。日米同盟の基盤が崩れてしまうおそれがあったのです」
結局、会議ではメア氏などの「シミュレーションの結果を待つべき」という意見が通る。
その後、放射能レベルは問題ないことが確認されたとして避難は見送られたが、在日アメリカ人の安全と、日本との同盟関係がまさにてんびんにかけられていた瞬間だった。
自分より高位の政府関係者が集う会議で、臆せず発言するメア氏に、同僚が心配して声をかけると、笑ってこう答えたという。
「最悪クビになったって、私はすでに辞表を出している。何も恐れることはない」
その後、メア氏は日米両政府の調整にめどがついたとして、4月6日に退職している。
アメリカ兵による訴訟も
日米同盟の真価が発揮されたともされる「トモダチ作戦」。
だが、この作戦をめぐっては訴訟も起きている。
作戦に参加した空母「ロナルド・レーガン」の乗組員など少なくとも200人以上が、東京電力などに対し損害賠償や治療費などを求めて裁判を起こしているのだ。
福島第一原発の保守管理などが不適切だったために事故が起き、被ばくによって健康被害を受けたというのがその理由だ。
弁護士によると、原告の元兵士の中には白血病や甲状腺の異常などの症状が出ているという。
原告の1人、スティーブ・シモンズ元中尉が取材に応じてくれた。
シモンズさんが乗艦していた空母は福島県沖およそ200キロの地点を通過し、三陸の沖合に展開。
物資を運ぶヘリコプターなどの洋上基地として、交通網を遮断された被災地に物資を運ぶために、欠かせない役割を果たした。
任務を終え、半年余りがたった2011年11月ごろから、シモンズさんは運転中に気を失ったり、高熱が出たりするようになる。
体重は10キロ以上減り、足の神経麻痺の症状も出始めた。その後、両足は切断を余儀なくされ、今は車いす生活を送っている。
16年間勤めたアメリカ海軍は、2014年に名誉除隊となった。
作戦に参加するまでは山登りやハイキングを楽しみ、ハードなトレーニングも軽くこなす体だっただけに、シモンズさんは作戦中に被ばくした可能性が原因だと考えている。
「もし同じ状況に置かれたら…」
シモンズさんにとって、人生が大きく変わったこの10年間は、どのようなものだったのか。
そう尋ねると、長い沈黙のあとにこう返ってきた。
シモンズさん
「どう表現していいのか分かりません。ありていに言えば、この10年間のほとんどは地獄のようでした。人生で最も苦しかった時期です。体の自由を失い、人生をかけて築いてきたキャリアも除隊して無になったのですから」
シモンズさん
「今もソーシャルメディアを見ることはほとんどありません。友人が活躍し、昇進しているのを目にすると、私はそこにいないのだと再確認してしまうからです。それはとてもつらいことです。(作戦に参加した)3月になると、いつもそのことが頭をよぎります。毎年3月は私にとって一番つらい時期です」
シモンズさんたちの被ばくの可能性と、健康被害の因果関係は証明されていない。
連邦裁判所は乗組員が起こした訴訟2件について、アメリカの裁判所が扱う事案ではないなどとして、請求を棄却している。
アメリカ国防総省は2014年に連邦議会に提出した報告書で「作戦に参加したすべての個人の推定被ばく量は非常に少なく、健康被害を引き起こす水準をはるかに下回っていた」として、健康被害との関係を否定している。
それでも、福島第一原発からの放射能で体の自由を奪われたと感じるシモンズさんに、私はこう尋ねた。
「トモダチ作戦に参加したことを後悔していますか」
返答はすぐだった。
シモンズさん
「答えはノーだ。もう一度あの時に戻れたとしても、同じことをするだろう。軍隊というのは、人生に大きな影響を及ぼしかねないリスクも背負うことになると承知のうえで、入隊するものだ。日本は同盟国、私に言わせれば兄弟同然だ。だからどんな状況であっても、もし同じ状況に置かれたら、同じことをするだろう。それが兵士というものだ」
感傷に浸るわけでもない、静かで淡々とした口調だった。
「トモダチ作戦」が残したもの
日本を取り巻く東アジアは、台頭する中国や核開発を続ける北朝鮮など、不安定な情勢が続いている。
「トモダチ作戦」の司令官を務めたウォルシュ氏は、作戦によって示された強固な日米同盟は、ほかの国々にも影響を与えたと指摘する。
ウォルシュ氏
「東日本大震災によって日米同盟は試され、両国は堂々と答えを出してみせた。アメリカが同盟国に対してどこまで支援するのか、日本がアメリカとの関係においてどれほどの地位を占めているのか、東アジアの国々ははっきりと理解したことでしょう」
在日アメリカ軍をめぐっては、沖縄の基地問題や駐留経費、それに兵士が起こす事件など、多くの課題を抱えている。
ただ「トモダチ作戦」に限って言えば「A friend in need is a friend indeed(困ったときの友こそ真の友)」ということわざを地で行く、心強い支援だった。
原発事故と地震・津波への対応を同時に迫られた東日本大震災。「関連死」を含めた死者と行方不明者は2万2000人を超え、戦後最大の危機だったと言われる。
私は震災後、岩手県に赴任し3年間、被災地取材に明け暮れた。現地で出会った人たちからは繰り返し、震災の風化への嘆きと警鐘を耳にした。
あの日から10年。
震災の記憶とともに、日本が最も助けを必要としたとき、覚悟を持って駆けつけた「トモダチ」の存在も、忘れてはならないと思う。
ワシントン支局記者
辻浩平
鳥取局、
エルサレム特派員、
盛岡局、政治部を
経て2020年から
ワシントン支局