おいらはゴミでも食べていればいいと自分で思うんですよね...............
汚いところで汚い食い物を食っていれば良いんだと思う訳です。
おいらに食事をさせて頂いている状況には恐縮するばかりなんですよ。
他の人からすると
なぜ自分の家で食事をしていかないのか?
と言う雰囲気を感じることも少なくありません。
でも衣食住というのは生活に密着した出費です。
おいらは以前に開○○仕をしていました。
よって仕事の量も少なかったモノですからね。
同じ立場の人であればどれだけ一人あたり金がかかるのかを良く考えるのです。
おいらが食事をすると言うことは単純に一回分の食事が増えるということです。
ここでおいらの見解を書かせて頂くと
おいらには投資をする価値もない
→投資=食事という図式が成り立つ
→食事=出費に直結している
→おいらには出費をさせるほどの価値はない
→極力ほかの人の家で食事の機会を減らす努力をする
この「ほかの人の家で食事をする機会を減らす」というのがポイントになってくるんですよ。
相手側の家族や親からすると
「家(お邪魔している家庭)の料理が口に合わないのかも」
とか
「おいらは自分の家で良い料理を食べているから家(お邪魔している家庭)では食事をしないのだ」
と考えられているような言い方をされます。
これは非常に「大きな誤解」です。
おいらはその真逆の考えなんですよね。
おいらにはお邪魔する家の家族と一緒の食事を取るほどの価値もありません。
それに自分の家で両親が備えて下さる食事でも「こんなに良いモノを食べても良いのか?」と常々考えています。
自分だけであれば毎日が白米を頂ける事を過分の親切であると考えなければならない立場の人間です。
なのに神様や両親、その他多くの人の過分の親切によっておかずや食事を頂けます。
更に良く考えることとして「なぜおいらはこんなに豊かな国に生まれてきたのだろう」と感じます。
貧しい国、貧困にあえぐ国に行って「体験」などではなく実感を伴わせるぐらいの生活をしなければならないという強迫観念に囚われます。
余りに豊かすぎる「飽食の国・日本」ですが、その豊かな国も値上げが実行されて揺らぎつつありますよね。
こんな状態ではいけない、食べられない苦しさ、それも「食べるモノがあるのに食べない」というまやかしで安くて軽いエゴイズムを満たすような行為ではなく、食べ物も飲み物も確保することが出来ない本当の食への渇望を味わって生きていく事の苦しさを知る生き方をしなければならない立場にいるとおいらは自分では考えています。
おいらには日本の食というのは豊かすぎるんですよ。
それに日本は仕事をせずともゴミ箱をあさると幾らでも食べかけの食べ物が出てきます。
くわえて毎日コンビニやファーストフード店、飲食店では莫大な量のまだ食べることが出来る食料や食材が捨てられています。
よって日本では本当の意味での飢餓というのは味わうことが出来ないでしょう。
ボランティア活動で食事をさせるものもありますしね。
外国に目を向けてみるとこんなあまあまな状況というのは殆ど見受けられません。
解ったつもりで「貧しい」とか「お金がない」とか「ワーキングプア」と言う言葉が容易に用いられていますがね。
本当に必要であれば道ばたの草でも食べますし、プライドを捨てればゴミの中からは幾らでも出てきます。
水はトイレなどが幾らでもあるのですからね。
死ぬ気になれば生きる術というのは本能とも言うべき危機察知能力で切り抜けられるはずなんですよ。
食事の基準に関してはかなり書きたいことがあるんですけどね。
今回の要点として
おいらはほかの人と一緒の食事が出来るほど上等な人間ではない
と認識していることを書きたかった訳です。
それに負担にはなりたくないんですよね。
出費というのは結局はボディーブローのように金銭的負担を強いることになり、気付かないうちにその家族には大きな負担となってしまう訳ですよ。
おいらはこんな事を望んでいませんし、そんな価値も無いとも考えています。
悪い意味での奴隷と一緒でおいらの行なうことは当然するべき事だと考えていますし、気遣われるほどの価値もないんです。
生きているだけで十分罪を負っているのですから、これ以上罪を増やさないようにしていきたいモノです。
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彼女は、イエスを喜ばせたいと一生懸命でした。女性が、食事を用意する再に、一番気にかけるのは、相手の人に喜んでもらいたいということです。
それから、もちろん、費用の点でも計算して食事を提供します。誰に対しても、文句を言いながら、いやいやお金を出すのはいやなものです。ですから、女性は男性とは違って、安い材料で、いかに喜んでもらえるかを考えるのです。
安い材料で、おいしい料理を出すのは、手間がかかることです。でも、女性は、そんなことちっとも気になりません。それは、料理の目的は、食べることだけではないからです。女性の一番好きな男性のタイプは、おいしそうに食事をする人だそうです。おいしかったね、ありがとうという一言だけで、王冠をもらったような気分になります。おかわりされると、夢のような幸福です^^
それは、女性と、男性が、感情的に違う役割を持っているからだと思います^^
エヴァンゲリオンで、レイちゃんが、お礼を言いたいときに、ごめんね、こんな時、どんな顔をすればいいかわからないの・・と言ったら、主人公が、笑えばいいと思うよと言います。それで、笑った顔を見て、感動しますが、あれと同じですね(笑)
もし良かったら、こんど、いっぱいいただきました、ありがとう、料理がとても上手ですねとか、お世辞でもいいから言ってあげてください。普段、家で作っても、結構報われない女性は、本当にイルカの数十倍癒されますから=^^=
女性からの、食事論でしたー
確かに気遣いには常々恐縮しています。
そこまでおいらには価値がないからです。
マルタは非常に良い動機で食事を用意していましたよね。
ところが彼女の場合はもてなす価値のあるイエスとその弟子たちだったからです。
感謝の念をおいらは人よりも強く持たねばらない人間です。
記事でも書いているように白ご飯でさえごちそうなんですよ。
金銭的には「安い材料」でも気持ちの上で「食べてもらいたい」と考えて購入し、調理し食卓に並ぶ時点でおいらの「精神世界」では非常に高価な食事になります。
料理に気持ちが載っていると思うと心では何でも美味になっていくんですよね。
なんでも調理しだしてくだされば「おいしい」んです。
エヴァンゲリオンのあのシーンは無感覚になってしまった心での最大の表現方法だと感じますよね。
それに対してのシンジ君の反応も感動を倍増させます。
おいらは語彙が少ないのですが、出来る限りの感謝の言葉を伝えるようにしています。
これは当然のことで言わなければ、おいらからすると強迫観念が迫ってくるほど苦痛となります。
食事を作ってくださる方の気持ちは良くわかるのです。
おいらも食事招待をしていますし、家族が招待していますからね。
しかしどれだけ食事招待をしたいと感じられてもおいら自身が自分自身を否定しているのですから、その気遣いが苦しいのです。
............理解に苦しむかもしれませんね~。
残念ながら、おいらはそんな人間なんですよ。
ほんと、理解できるのが、全くもって、あははーな病気ですが。
でも、私は、ちょっぴりと長生きしているのと、元来の性格もあって、少々あつかましく出来ているんですよvvヲバタリアンは、そうやって世の中を生きているんです。若者で男性のmumuさんは、本当に大変だと思います(><)
この病気の自己否定傾向は自分でどの程度のモノなのかを知る必要がありますよね。
自分自身の中で自分の価値を認識してやらなければ他の人は誰も褒めてくれませんしね~。
人間というのは貶すことに掛けては特化していますが、褒めるとなると非常に難しいこととなってしまいますよね。
褒めることは「=自分が負けた」と言う認識を日本人は持っていますよね。
これでは駄目だと思います。
でも親は悪気はなかったのでしょうけど、子供の頃からやることなすこと否定されて育ってきましたからね。
気持ちを汲もうとして貰えなかったのが今でもずっと後を引いていて精神的苦痛となっています。
自己否定が美しいことだとされていることも問題がありますよね。
確かに「自分が最高に優れている」というサタン的な考え方は悪ですが、ある程度の適正な自己評価というのは絶対に必要だと思いますよね。
食事をする際にも頂く際にも感謝の念を持っていただいていきたいモノです。