思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。
扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記



精神論で良く言われることですが.........

・美しいと感じることやモノに関して
まず自分の主観があってその「主観」のバックには人生経験や価値観などが必ずある訳です。
そして意識しないと、その「主観」を通してでしか人間というのはモノを見れません。
しかし本当に美しく、価値のあるモノには自分の主観が入ってしまうとかすれて見えてしまうモノが多く感じます。
また人から聴いた情報というのは他の人の価値観をある程度は理解していないと「話す人の価値観」でしか見れません。
それは時に美化されていたり、逆にみすぼらしく表現されることが多く自分が見て判断する価値よりもかなりずれていることが往々にして起こりえます。

これは写真や絵、音楽などのアートの場合はよりいっそう明確になります。
人によっては「素晴らしい」「才能に溢れた作品」などの言葉が降ってきますが、これにも逆があって絵の場合は「子供の落書き」とか歌の場合は「犬の遠吠え」、写真の場合は「誰でも撮れるもの」と言うレッテルが貼られます。

しかし客観的な見方を培いつつ自分の主観を少しスパイスとして入れた作品というのは出たばかりの時はインパクトが無く、評価されないかもしれませんが、同じ場所に存在させておく無意識のエネルギーみたいなモノが働いて真の価値を見分ける人が必ず出てくるような気がします。
「モノを存在させておく=展示」ですがスペースを確保するには考えている以上のエネルギーが必要です。
モノを置いておくと言うことはタダでは無いのでそれに対してお金を払う必要が生じます。
でも良いモノはそれを払う人が現れ、管理までしてくれるようにまでなります。
おいらはまだ30年弱しか生きていませんが、同じ歳の他の人よりも少し様々なモノを見る事が出来ているような気がします。
これは感謝すべき事ですな。
そして良いモノというのは自分の主観を強烈に印象づけるモノではなく、宇宙に存在するすべてのモノというのは神が作られている故に存在が可能であることを認めて理解し、創造物の美を限りなく追求しているモノである場合が多いような気がします。

無我について
モノを作る点ではまずモノありきで考えることが必要で、そのものをいかに美しく見せることが出来るかを追求することが必要になってきます。
しかし現在の多くの人はまず「自分ありき」で物事を考えがちです。
まあおいらもそうなので偉そうなことを書いていますが、全く出来ていませんな....
でも「ありのままを受け入れ、ありのままを用い、ありのままを見せる」事がもっとも美しいことだと感じるようになってきたんですよね~。
かくありたいと願いつつ出来ていない自分がいます。
また芸術というのは才能がある人が追求するモノだと考える人が多いのですが、可能性はすべての人にあることも良く感じます。
今世に出ている芸術家が特段特別だとは全く感じないんですよね~。
所詮見地を変えて見ると「ドングリの背比べ」ですし、人間の頭の良さには限界があります。
自分が優れていると慢心している人間を見ていると「はいはい、勝手に言ってなさい」と言う気持ちにもなります。
人間が作るものというのは神が作ったものをベースに使い方や見せ方を発見しているしているに過ぎず、神の見地ではもっと美しく人が圧倒されるような見せ方が無限に存在することを考えると人間の業というのはなんて狭いんだろうとも感じます。
だからモノを作るのは神によるのであり、人間が作ったのではないと言うことを書きたいんですな。
すべてのモノは神が造り、「その作られたものをいかにそのまま見せるのか」や「いかに加工してそのものを美しく見せるのか」を追求することによってのみ美しさが存在し得ると感じるのです。

まあね。
自分の強烈な主観を主張したモノの中にも良いモノはあります。
またインパクトは強いでしょうな。
しかし長く使われたり見られたりすることは少なく感じるんですよ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする



« それは誤解で... 人生で一度や... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。