おいらの望んでいることが最近解るようになってきました............
世の中には「安定した仕事」というのは夢とか都市伝説の類のモノになっています。
公務員は信用できない人間になりつつありますし官僚もご託を並べて自分には責任がないというような対応をします。
公職に就いている方は不正を行なう機会も多く一般人が解らない所で懐にお金を入れているのは容易に想像できます。
世間一般でも超一流会社の社長といってもいつ何時風潮が代わり会社が潰れるか解りません。
信用を形成させて行くには非常に長い年月がかかりますが、失うのは一瞬で刹那的に崩れ去ります。
んで株価は暴落し衰退の一途を辿るということはよく見られる現象です。
小さなことにも真摯に対応し努力している人というのはたくさん居ます。
おいらの父もそのような人間の一人です。
一生懸命に仕事し固定客もかなり付いていた時期があります。
たしかに衣食住の費用は高くなっていきましたがインフレすればするほど1回の仕事の金額を上げることも出来る環境にありました。
以前に住んでいた関西というのはマッサージに対する認識が今住んでいる地域とは全く違いました。
それを冒涜するようにこちらに来るようにし向けた人間達には憤りを感じます。
まず自分のことしか考えず、自分の益になることをさもこちらの利益になるような言い方で唆していざこちらに来ると解りきっていた仕事の量に責任を取ろうとはしませんでした。
そもそも責任の取り方も解らない人間だと言うことはあったときから解っていたのでおいらは最初から猛烈に反発し反対しました。
でもおいらが反対すればするほど盛り上がって「絶対に引っ越すのだ」という向きで両親が一致して凄い流れでおいらを巻き込んでこちらに来ることになりました。
人間というのは障害が大きければ大きいほど盛り上がって乗り越えようとしますよね。
妄信的に甘い言葉にのって今の現状を予想していたおいらからすると「愚か」に見えたのですがね。
おいらが反対したりこちらに来たことで文句を言ったりするとおいらが今で言う「K.Y.(空気が読めない)」人間なんだと見られていたことには屈辱を感じていました。
「何を言ってるんだこの子は」とか「今に自体が良くなるのに」という目で見られていたんですな。
おいらは客観的に物事を見ていましたのでそのような楽観的な見方というのはしませんでした。
仕事に対するスタンスをいろいろと書いてきましたが地方では情報量がどうしようもないほど少なくて何も出来ないことは解りきっていたことでした。
おいらはアルバイトなどの一時しのぎの仕事は正直嫌だったんですけどね~。
必要に迫られて仕事をするようにし向けられるようになりました。
まあ自分の生活の分程度は稼ぐ必要があったので「し向けられる」という書き方は相応しくないでしょう。
でもちゃんと仕事に見合った給料を頂きたいという切実な願いがあったわけですよ。
一生懸命人の何倍も仕事をしても評価できない人間の元で仕事をすることほど苦痛になることはありません。
一生涯安定した収入は得ることは難しいのは解りきっていることです。
しかし人間に出来る範囲での「安定した仕事」を求めることのどこに問題があるのでしょうか?
仕事に喜びを見いだすことにどんな問題があるのでしょうか?
人間性を豊かにしたいとかもっと人を見る目を養いたいと思うことが悪いことなのでしょうか?
一部の人間の言うことを妄信的に信じることが正しいのでしょうか?
他の人のことで責任を負っている人間がその責任を放棄し何もしないことが正義なのでしょうか?
おいらは中途半端なことはしたくありません。
もし他の人に期待させたならば、そしてその人が感謝の念を抱いているのであれば事が終わるのを見届けなければならないと考えています。
まあ感謝の念のない人にはしないことが多いのですがね。
仕事の場合は小さな事をこつこつと積み上げていく堅実な作業を重視したいと思いますし、それを行なっている人を評価したいと日々考えています。
己の益のみ見ることなく全ては他の人がいるからこそ物事を行ないたいんですよ。
そしてその価値を認めてくれる人から給金を貰って堅実に作業することによってもたらされる人間として築くことが出来る「安定」を手に入れたいと切に願っているわけです。
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