扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

ふと考えたこと 2006.10.25

2006-10-27 10:14:10 | Weblog
携帯の書きかけの記事をMacに移して書きました.........

高低差4~5mの海面を見て、ここから飛び込んだら、もう生きなくても良いのだと考えてしまいました。
しかし人間というのは生存本能を持っています。
少しでも助かる要素があれば無意識の内に生きようとするものです。
周りを見渡して見ると30mぐらい向こうにテトラポッドがありました。
「死ぬ」と決意するからには妥協して助かる可能性が少しでもあるような場所や状況では死ぬまいと考えています。

今回、飛び込んで死ぬことを考えた際に他の人をうらんでとか、辛い状況が続くからなどの外因的な要素が多少は少なくなっていることに気がつきました。
やはり「おいら自身が生きているべきではないのだ」という考えを自然と死を受け入れ、納得できているように感じます。

自殺のギネスに関して学生の時に先生に聞いた覚えがあるのですが、すごい死に方をしている人がいます。
これで死ななかったら不死身だ!!と力説しているのが印象に残っていました。
もし死ぬのであればあれぐらいして死ぬつもりです。(笑)

今回自殺を考えた理由はもう一つあります。
先日、バイクで事故をした子が自殺をほのめかすような事を言ったらしいのです。
このことを聞いておいらが感じたのは

「事故したのは自分の実を撒いて、
 刈り取った事ではないのか?」

という事でした。
簡単に書くと「自業自得」だという事です。
彼はバイクの限定解除の免許を取って一年経つか経たないかぐらいで事故をしました。
バイクの危険性についての認識不足は否めません。

確かに事故にあって重傷を負い同情するのは大切です。

しかしおいらの見地では「どうしようもない状況」に遭っている人
たとえば
・人間が不完全だから引き起こされる病気などで苦しんでいる人
・災害によって苦境に立っている人
・他者から負わされた怪我に苦しむ人
などにあっている方を自分の過失によって事故に遭った人よりも見返りたいと感じるのです。

冷たい書き方なのかも知れませんが、冷静に考えた際においらの場合このような結論に達したわけですな。

自分の過失によって負った大けがを気に病んで自殺というのは起こっているのは事実でしょう。
自責の念にとらわれて、辛いという気持ちもよくわかります。
「あのとき、あのようにしていたら、怪我しなかったのに」ということを毎日のように考えるでしょう。
しかし過去のことを悔いても意味のないことです。
必要なのはこれからの事であり、特に大切なのは

”今”何を「考え」、「行動する」のか

だと言う結論に達してもいます。

おいらは過去を振り返ると、対人関係や自分の失敗など事細かなことに自責の念にとらわれていました。
彼はおいらと思考パターンがよく似ています。
優秀な人たちがたくさん居てその人たちと自分を比較すると自分が見劣りすることも多いでしょう。
加えて自責の念を抱くことも多いようです。
この点ではっきりとわかっているのは彼よりもおいらの方が自責の念が強く、自分の体を過酷に扱っていた過去があることです。
またおいらは持ち合わせていない「自尊心」というものも持っても居ることは、彼が事故に遭う前に会話したことでよくわかりました。
おいらは客観的に自分のことを振り返ってみて「20代の前半は物事の因果関係を良く理解していなかった。」と言うことを言いました。
今でも因果関係をすべて理解できていませんが、それでも「若気の至り」は少なくなりつつあります。
これは彼に向けた言葉ではありません。
おいら自身が自分自身に感じた言葉だったのです。
しかしそのことを他の人を交えて話をしたときにたしなめました。
彼は自分自身に向けられた言葉だと思ったようです。

確かに彼のように豊かな人生経験を有していないおいらの言葉にはバックボーンとなる説得力がありません。
加えて知識も知恵の量もはるかに少なく、記憶障害に悩まされる日々が続いています。
努力も出来ず、どのようなことも三日坊主なので余計にそうなのかもしれません。

でもかれが「自殺をほのめかすということ」と「自尊心を有していること」に矛盾を感じました。
自殺というのは他の人から見れば「エゴイズム」の最たるものに映るかもしれません。
またエゴを通すために自殺した人はたくさん居ます。

しかし昨今のいじめ問題で自殺した人たちは「エゴイズム」で死んだのでしょうか?

遺書などからわかるように、彼らは自分の自尊心をはぎ取られ、完膚無きまでに叩きのめされ、打ちのめされて奴隷以下の扱いを受けたのでしょう。
そこにすべての人に与えられている権利の「基本的人権」などは存在せず、自分のことを自分で蔑み、生きていることが罪だと考えるようになったのでしょう。
その過程が手に取るようにわかり、昨今の自殺問題をみているといたたまれなく思い辛く感じています。
もっと感情面で書きたいことが山ほどありますが、思い出すと自分で自分の身を裂くほどの辛さが込み上げてきて憂鬱になります。
これ以上は何も書くまい.......

いじめをする人は社会人になってもします。
学校での体験は、パワーハラスメントやセクシャルハラスメント、モラルハラスメント、職場別ハラスメントなど多岐にわたる圧力や差別の温床となっているのです。

ここで人間の満たしたいという欲求を考えると理解が深まるかもしれません。
以前にも書いたことがあると思うのですが、全く違った見方なので、また書こうと思います。

健康な人間が満たしたいと思う欲求
1.健康と長寿
2.食物
3.睡眠
4.金銭とそれによって買えるもの
5.性欲の満足
6.子孫の繁栄
7.自己の重要感

おいらが参照にした本にはもう一つ「来世の生命」というものがあったのですが、おいらのクリスチャンとしての観点では人間というのは

「死ぬ」=「何も存在しなくなり、来世など存在しない」=「無」

という方程式がありますので関係がありません。

人間の欲求に関して書きましたが、7つの中でもっとも満たすことが出来ないものというのはなんでしょうか?
人によって見方が違い様々な意見があると思いますし、多数あるという意見も多いでしょう。
しかしこの中で最も多くの人が満たされていないことは「自己の重要感」なんです。
自己の重要感をわかりやすくに書くと「自分が必要とされていると感じたい」いう考えです。
この欲求というのはいつでも、何歳になってもつきまといます。
健康な人に限ってのことですがね......

そしてこれを歪んだ世の中で満たそうとすると極端な考え方に走るようになります。
つまり、「いじめ」をすることによって自分が必要とされていると感じる「以上」のことを味わいたいと思うようになるんですな。
親や良く接する大人が「自分が他者より優れていることを実感したい」という傾向を示している場合は「自己の重要感」を満たすことを飛び越して優越感に浸りたいと願うようになります。
人間の歪んだ性行というヤツですな。
この考え方は最低です。
人の意見を聞く姿勢が存在しなくなるからです。
人の意見を聞かなくなると、「学ぶ」ということが無くなります。
人というのは学び続けないと怠慢になり、健全な考えというのは悪意などによって取って変えられ肉的傾向のみを追求しようとするようになります。
肉的傾向は今の世に見られている様々な犯罪や悪行のことです。

「他人のふり見て我がふり直せ」という言葉がありますが、今の世の中は「他人のふりして、もっと悪いことを改良しよう」になっているように思います。

「いじめ」もおいらの見地からすれば立派な犯罪です。
法律の中に「共謀罪」というのがありますが、これは不完全で中途半端な法律のように感じます。
また学校というのは狭められた社会であるともいえます。
そこに他者が介入することは不自然なこととなっていますよね~。
授業参観などによって公開されていることをアピールしているようですが、「授業参観」というのは親向けに行われる授業で発表会みたいなものです。
教師は親にうけることを狙って子供たちに教えますし、子供たちもさも健全な学校生活を送っていることを後ろ姿で見せようとします。
しかしそのような授業参観ではな~んにもわかるわけがないんです。

健全な思考をした第三者が常に見回っているという認識をさせて、学校側も生徒側もきちんと対応していくべきなのです。
まあ「健全な思考をした第三者」がどこにでもいるかと問われるとはなはだ疑問に思いますがね。

「学校に関係ないのに何をうろうろしているのか?」
「不審者だ。」
等と見なされないために見回り隊を作って学校を見回ることをしなければならないとも感じます。
いつ何時来てもそれに対応できるという姿勢が必要だということですな。
これはイコール健全な教育活動を常に行っている事です。
もしくは生徒や学校の中にモニタリングルームやモニタリングスタッフを作ることも求められているのかもしれません。

今の学校の採点は教師側の独断と偏見で成り立っています。
その採点方法も見直されるべきでしょう。
先日かなり見直されたという報道がなされていました。
しかしあれでも教育者側のための採点指標となるだけです。
やはり採点も第三者がするべき事柄だと感じるのです。

これらのことがなされるのであれば、教師によるいじめが無くなりはしないでしょうが、多少は少なくなると思います。
また子供たちも健全な学校生活が送れるようになるのではないでしょうか?

いまお年寄りが暇をもてあましているので、そのような人生経験豊かな人に採点をゆだねるのは相応しいことだと思います。
まあお年寄り全員が出来た人間であるとは限りませんがね......

加えてもう少し書いておきたいことがあります。
聖書的な見地から書くと、いじめをする側の人の方が弱く、いずれは死に至ることは原則を見ると明らかです。
なぜ今までこのように重要視されてこなかったのか?と不思議に思うぐらいです。

クリスチャン内でもこのような事態が起こっていることは嘆かわしいことです。
パワーハラスメントやモラル・ハラスメントというのは、世だけではなく実際にクリスチャン内でも存在します。
このことに苦しんでいる人たちや過去にそのような扱いを受けた人たちは今でも苦しんでいるのです。
まあ、おいらも一応その中の一人なんですが.......

受けた側がこう感じているということを書きたかったんですな。

また4mぐらい下の海面を見ましたが、それほど恐怖感はありませんでした。
10mになれば恐怖感は反比例のグラフのように倍以上になるんでしょうけどね。
「クイズプレゼンバラエティー Qさま」の10m飛び込みってどれほど怖いのか興味があります。
あれってスリルを求めることになるんでしょうかね~.......

今回の記事で感じたのは死ぬことを受け入れることが出来つつあるということかな~.......
上からの裁きを一日も早く望んでいます。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。