思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。
扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記



結局は自分の言いたい事というのはEgoismでしかないんですよ.......................................

今日も弟君に言いたい事を言ってしまいました。
先日に少しクリスチャンの集まりで世代間の価値観を鑑みて

「その世代としての努力を認めるべき」

という話を聴いたばかりなのですがね。
おいらは他人にはこのような事は言いません。
家族だからこそ理想も高く、非常に厳しい意見を言ってしまうのかもしれませんな。
加えて言いたい事というのは「厳しさの基準」についておいらの心当たりのありまくりなモノがありました。

「自分に厳しい人は他の人にも厳しい」

という事実でした。
おいらは自分を殺したいぐらいに呪って生きてきました。
全ての基準を適応できなければその瞬間に

「どうにかして死ねばいいのに」

と自分のことを嫌悪して生きてきました。
何をするのにも自分自身が悪いと決めつけて過失が他人にある場合でもおいらが悪いからなのだという乖離した思考をしているぐらいでした。
例えば2001.09.11の同時多発テロに関してはどちらの言い分もあると思っていましたが、なぜ自分が変わりに死ぬ事が出来なかったのかを考えていましたね。
諸悪の根源とまでは言いませんが、おいらの周りで起こっている事態で害となる事柄はおいらが起因であるという飛躍した考え方もしていたモノです。
そして悪い事が起こるのであればおいら自身のみに起きる事を願ってやみませんでした。
他の人が苦しい目を見るぐらいであれば代わりにおいらが死ぬのが最良の事だという意識は現在でも少なくはありません。
おいらは失敗の多い人生を送ってきましたからね。

しかし客観的に考えれば考えるほど矛盾を感じるようになりました。
これは助言を頂いてからの思考の変化によりある程度の自分の分を認める事が出来るようになってからの事です。
おいらの過去の思考や傾向が退けられた状況を振り返り分析すると間違いではなかったのだという事実ですね。
逆に正しいのが実証されて明確にされてきたモノまであります。
落ち度はこちらにはなく、ほとんどが言い掛かりやちゃんとした根拠のない薄っぺらで人間特有のEgoismにすぎないのだと思いますね。
彼らの特徴としては余りに薄すぎる言動が自分自身の行動に矛盾を発生させて結局は破綻させてしまうというパターンがあります。
人は蒔いたモノを刈り取るのですから、これらの人の行動というのは決まってきますね。
つまり自分で自分の尻ぬぐいを出来ないんですよ。
これはほとんどの人の目には明らかになって相手の論理が間違っていたのだという証拠にもなります。

口では調子の良い事を言うのは簡単です。
でも適応できるかというと適応できていない人がほとんどです。
おいらは出来ている事と出来ていない事の区別はしなければならないと決めて発言するようにしています。
意見を述べる時には出来ている事の中からしか発言しないというのはMoralの問題でしょう。
自分に出来ていない事で発言を求められる際にはお断りの言葉として「出来ていないのですが」という言葉を付けるようにもしています。
このような発言をする際に何度も何度も助言を頂く事が少なくありません。

「『出来ていないのですが』なんて断らなくても良いんだよ」
「みんな出来ていないんだから言わなくても良い」
「全部を出来ないのが当たり前なのだから」

といった具合にです。
このような意見というのはおいらが注解する際にかなりの頻度で言われます。
頻繁に頭に付けているという意識はないのですが、周りの人たちからすると卑屈に映るようですな。
正直な心情を書くとこのような事を言われる方が不思議でなりませんでした。

おいらの言う事なんて価値がないというのが前提でおいらは発言するのですから、Responseを求めていませんでした。
そしておいらは人間として見て貰えなくても結構だと考えて生きてきました。
最近は少し自分の分を持てるようになってきましたけどね。
それでも自分が行動した分や考え実行した分だけを得るべきという意識は少なくありません。

おいら自身が自分自身を嫌悪の対象としてみているのですから、自分自身への評価というのは厳しくなるのが必然です。
よって「自分に厳しい」という中の最上級に位置していると言っても良いぐらいなのかもしれませんな。
おいらは完璧主義者ですが、完璧主義というのは最低な人間です。
達し得ない事を望むのですから自滅的な性格なのは間違いないんですな。

この頃また感じているのは自分自身を軽んじている傾向に拍車が掛かっているという事でしょうか...............

ある程度まであった「自分の分」がおいらが生理的に受け付けない人間に汚染されているような気がするんですよね。
まあ、おいらが生理的に受け付けない人間というのは長い事見てきて判断した結果で

「関わると有益な習慣を損なう人」

となります。
おいらは関わりたくはないのですが、関わらざるを得ない事態に陥っている訳ですな。
・車に同乗したくないのに仕方がなく同乗せざるを得ない
・会話をせざるを得ない
というような事態があります。
ある程度まで線引きしているのに、泥に塗れた厚底ブーツの土足で踏み込まれたような気分なんですよ。
口からついて出てくる言葉の軽い事ったら有りません。
やっぱりおいらはこのような人というのは受け付けないんだな~と思えてきますね。

人というのは嫌な気分にされた事というのは良く覚えています。
こちらが正しいのにそれを曲げてあちらが正しいというような状態をしょっちゅう作り出してきた人間というのはおいらの中では嫌悪すべき人間たちです。
彼らはそれが常習化していることにより良心の呵責というのは覚えないような精神的麻痺を起こしています。
口で何とでもなると考えているんですな。
おいらはそのような人間が嫌いです。
黙って物事を行う人間や言葉通りに物事を行う人間の方を評価したいと思います。
おいらの中での前者と後者の評価は雲泥の差が発生します。
口で物事を繋げようと思うと都合の良いようにしか繋げない人間を信用しろという方が無理がありますからね。
自分の都合の悪い事までちゃんという人や伝えるべき事と伝えなくても良い事を区別して伝える人は異なります。
確かに伝えるべき人には伝えるべきですが、伝えなくても良い人にまで伝えるというのは可笑しいでしょう
よって都合良く伝えるというのとはまた違うという事になります。

物事というのは知るべき人間と知らなくても良い人間というのがいます。

知るべき人間は責任がある人間やそのような関係者でしょう。
知らなくても良い人間というのは責任感の欠如を示している人間や口の軽い人間です。
つまり親族でも知るべき人間と知らせてはならない人間が居ると言う事ですな。
親しい人間でも同様です。
Gossipmongerは所詮は価値のある言葉はほとんど発する事がありません。
言葉が軽すぎる人間というのはおいらは嫌悪するんですよ。
意味ありげな物言いをしますが、その実では期待しただけ無駄なのが多いんですよ。
よって基本的にそのような人には期待しないのが得策なのでしょう。

このような事を書くと政治家の事が浮かんできますな。

上記のような人と接していると考えるんですよ。
自分の質を下げているような気分がしたり、自分の思考が悪い方向に向いているような気がしてなりません。
もっと内容の濃い会話を望んでいるのに話が噛み合わない人が多くて困ります。
もう少し濃い内容の話が出来ないモノなのかと呆れていますね。
断っておきたいのですが、おいらは性格の悪い人間ですのでおいらの価値判断が間違っている事が少なくないという事です。
よっておいらの判断では間違いが多々起こっているのを示しているのでしょう。

噂話というのはおいらは好きではないんですけどね。
世間ではするのが当たり前だという風潮があるようです。
おいらにはついていけません。
う~ん、御免被りたいですな。

最初の話に戻ります。
弟君に言いたい事を言ってしまったという罪悪感があります。
彼の傾向というのは「自分の関心事にしか興味がない」という事でしょうか。
それとおいらは人目に触れる所での練習というのを嫌う性格なのですが、全く逆で人目に触れる所からしか練習を始めようとしないという所でしょうかね。
この価値観の相違がおいらからすると嫌悪感を発生させる要因となります。
例として「卓球の素振り」があります。
卓球は一時家族で一緒に出掛けて毎週の習慣として行っていた事でした。
しかし人は誰しも関心事というのがあります。
家族でも全く同じ関心事の中で生活しているという方が不思議です。
個々に趣味があり、個々に関心事が異なるという前提を考慮に入れないんですな。
おいらとしてはこれが苦痛でなりません。
音楽に関しても、モノの扱いに関しても全く違ってきます。

おいらは実力至上主義で上手い人の歌を聴きたいと思います。
これは学生時代から両親の影響で演歌と接してきたのも大きいのかもしれません。
演歌というのは上手さの巧さの違いが最も出る歌種です。
上手い人しかデビューできないでしょう。

何かが壊れたとしたらそれを直す為の努力をおいらは怠りません。
「最善を尽くして駄目だった」というのであればおいらは何も文句がありません。
しかし何もせずに新しいモノを買ってくるだけで済ますという姿勢は嫌なんですよ。
「代えのモノと買ったらいい」という使い捨て根性は嫌悪すべきモノです。
確かに使い捨てる種類のモノは存在するのは確かですけどね。

おいらは両親に「モノを大切に使用しなさい」とは直接的に言われたことはありません。
でも両親は行動によって学ばせて下さってきました。
両親が使用しているモノというのは長持ちしていますからね。
人は語るよりも物事を行うことによっての方が雄弁に語れることの表れなのかもしれません。

世代間の価値観の違いを差し引いてもそれは違うのではないの?と思うんですよ。
彼の言い分としては話の中でおいらが発言すると

「何故ここでその話をもってくるのだ?」

というような反応がありました。

「今はそのような話とは関係がない」

という意味で発言したんですな。
ところがです。
物事というのは一連の流れがあります。
つまり「関係がない」という方が矛盾があるんですよ。
聖書の研究をしている時なら尚更です。
聖書というのは見事な球体で、全てが調和を保っており繋がっているという代物です。
ということは聖書を研究している上で繋がりがないという否定は非常に大きな矛盾を生むことになります。
聖書の言葉というのは調和し、完全で「完璧」のはるか上の完成度を誇っています。
完全というのは能動的でActiveなんですよ。
しかし完璧というのは完璧という枠内でしか行動できません。
つまり規則と原則の違いのようなモノですな。
完璧というのは規則で、完全というのは原則となります。

蒔いたモノを刈り取るという言葉を知っているならば関係がないという言葉を使えないはずです。
言葉を知っているならば因果関係があり起点があり終点として感情が発生すると言うことですな。
おいらは別に空気を悪くしたいから言うのではありません。

誰が注意するのが楽しいでしょうか?

その人が自分自身に悪感情をもつのは解りきっているのにそのような行為をするというのはよっぽど事でしょう。
本当にその人のことを考えていないと言いませんよ。
確かに「言うべき時」というのがどうしてもあります。
これは親族でなくても言わなければならないときというのがあるんですな。
しかし家族の場合は違います。

悪い所が見えたならば指摘することの何が悪いのでしょうか?

与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」を読んだ心境が良く解るのですがね。
先に生まれた兄弟というのは両親のこと、下の兄弟姉妹のことを思って生きていると言うことを理解して貰いたいモノです。
「もうこれ以上は言うまい」と何度も考えたことを言いました。
指摘してくれるのはよっぽどの事なんだということですな。

以前に、「親は子供のことを一番に考えて生きている」という意見を言われたことがありました。
「子供が親に向ける以上に親が子供のことを考えている」というようなことを老齢の方に言われたことがありました。
でもこの意見にはおいらは同意しかねます。
事実としておいらは親のことを自分以上に心配している状態が続いているんですな。
例え自分自身が招いた生活習慣病であるとしても代わりたいと思うことが少なくありません。
そのようなことを繰り返して生きているのですからおいらが死ぬことによって助かるのであれば吝かではないという意識が再度生まれつつあります。
「自分の分」をある程度確保できるのであればこのような思考というのは発生しないんですけどね。
かなり汚染されていますな。

言葉を濃いモノにしていきたいモノです。
語るにしても、聴くにしても、見るにしても、読むにしてもです。
軽い言葉はもうしばらくは接したくもありませんし、聴きたくありません。
しかし状況的に接しざるを得ないのですから、自分自身で取り込んでいく努力を殊更求められているのだと痛感している次第です。

この記事で書きたいことは

「弟君、申し訳ない」

という気持ちでいっぱいで傷つけたくはなかったということです。
それと

「希薄すぎる言葉は聴くに堪えない」

ということでしょうか。
うんざりしていますな..........

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