扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

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JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

文具の魅力 その76 2008.08.19

2008-08-19 23:59:13 | Stationery & Supply
一昨日ぐらいから左手が腱鞘炎気味です................................

表紙が薄い本というのは左手に極度に負担が掛かります。
持ちにくいんですよね。
置いて読めばいいのですが、おいらは夢中になると指先にも力が入って持つ手も凄い状態で読んでいるようです。
腱鞘炎になってもおかしくない持ち方をしているようなので少し持ち方を変えたのですが、おいらの本を読む決まり事を書いてみようと思います。
これは本に限った事ではないのですが、

「左手を使うようにしよう」

と言う強い意識があるんですな。
だから

「本を開くのは左手でないと駄目」

なんてことも決めています。
まあ右手でも開く事はありますけどね。
ほとんどが左手で行うようになりました。
ほぼ無意識で左手で開くようになっていますので右手で開くと違和感を感じるぐらいです。
これは書く事と連動させる為の知恵なんですけどね。

右手で文字を書き左手で開いていくというのは効率的なんですよ。

これはComputerの使用でも同様になってきました。
おいらはComputerのMouseはLogicoolのTrackBallを使用しています。
その中でも両方の手で使用できるMarble MouseというMouseを使っているんですよね。
右手ではKeyboardのPage DownとPage UpのKeyを押せるようにしていますね。
Computerのことで書きたい事があるので近々また書こうと思います。

とにかく効率を追求していくとある程度の形というのが出来てきます。
これはマンネリ化に繋がるのですが、良い意味でのマンネリ化を作り出さなければならないでしょう。
ということでこういった習慣が身についたんですな。
おいらは聖書を研究していますからね。
聖書というのは1900頁程度を行ったり来たりする訳です。
しかも頻繁に、そしてその片手間にMemoを取る習慣が付いているのですから

「左手で開いて右手で書く」

というのはNativeに出来るようにならなければならないとある時点から決めてそうなるように取り組んできたんです。
それが功を奏しつつありだいぶん馴染んできましたな。
昨日も書きましたが、やっぱり本というのは手にとって読む形式が一番じっくり来ると実感しています。
そしてMemoを取る事や感じた事を右手で書くのが落ち着きます。

学校ではこういった事は普通は教えられません。
おいらは農業系でも測量や土工など土木関係の勉強をしていましたし、関数電卓というのを使用していましたので学ぶ機会がありました。
商業系では右手で打ち左手で開いていくのが当たり前だとされていたようですけどね。
妹が簿記の2級を持っているので勉強しているのを端から見ていたのですが、凄い早さで打って行ってました。
でもおいらは土木とか工業系の資格などですので左打ち右書きだったんですな。
そういえば測量の勉強をしている時に結構大変な計算をやっていました。

「測量士補というのは電卓を使ってはいけない」

という規定があります。
今から15年ほど前の事ですが、電卓やパソコンが普及した現在でも電卓を使用してはいけないというのは時代に逆行していると思いながらも必死こいて勉強したモノでした。
あの頃は何も知りませんでしたからね~。
Computerで直ぐに出る計算をなぜこんなにしなければならないのだろうと始めは考えていましたな。
でも計算というのは答えが出ますので直ぐに達成感を得る事が出来た事からおいらの性に合っている質のモノなのだという事を知ってからはのめり込むようになりました。

ところで今調べたのですが今でも駄目なようです。
平成20年度測量士・測量士補国家試験(受験案内)
の一番下のその他の項目で「電卓は使用できません。」と書かれていましたな。

昔取った杵柄で多少の簡単な計算なら中学生レベルまでなら対応できるようです。
身体と頭というのは覚えているモノなのだな~と今考えると思いますな。
身体や頭というのは人格が崩壊して「心の事故」を起こしてもかなりの部分が繋がっているんでしょうかね~。
あの頃から全く進歩していない自分がいます。
しかもでっぷり太って見事に禿げ上がった頭の当時を知る人が見ると一見すると別人のようなおいらがいる訳ですよ。
不思議な感じですな。

測量士補の勉強というのは計算スピードがある程度モノを言います。
とにかく計算する回数が多いのに加えて正確性も求められますので二回は同じ計算を行います。
Total StationやGPSがほぼ正確な測量を可能にしつつある昨今ですが、やはり基本的なProcessというのは知っておかなければならないという事なんでしょうね。

ところで中学生の勉強を一緒に行う際に感じてるのは昨今の勉強というのは

こんな事まで教えなければならないのか?

と驚くような当たり前の事まで教えられているようですな。
おいらの幼少期に親から教えられていた常識を「学習」として学ぶ変な時代です。
親が教えないのですから、仕方がないでしょうね。

心の揺らす方法を知らない人が増えていますよね。
良い意味での心の揺らし方、奮わせ方を知らない人が多くなっています。
日々の生活の中での「感動」や生きているという「喜び」を見ずに当たり前の事としてみる人が多いんですよね。
これは子供に限った事ではありません。
人をおののかせ恐怖に陥れる方法は単純な暴力で良いのですからこういう意味では心を揺らせ、心を震わせる事に長けている人が多くなりました。
でも人を愛おしんだり、人を喜ばせたいという「純粋な動機」で行動するのを見かける機会というのは皆無といっても良いぐらいになりました。

こう考えると昔見た光景を思い出す訳です。
文具の魅力 その8 2007.09.22で書いた子のことをね。
子供の親への愛と親の子供への愛というのは美しいモノだと思いますね。
でも家族だけにはほとんどの人は誰でも優しくなれますよね。
「悪人でも子供には優しく必要なモノを備える」というような内容は聖書に書かれています。
単純な暴力で気を晴らすというのは意外かも知れませんが、逆効果で一時的な効果しかありませんし、繰り返し暴力をふるうようにもなっていくモノなのです。
Domestic Violenceが常習化する原因の一つに「自分だけが我慢していれば済む事だ」と被害者が考えるところにあります。
確かに暴力を振るう人間が悪い事は当たり前でこの人は裁かれなければならないのは当然の事です。
でも誰かに助けを求めて暴力を振るわなくても良い方法というのを探さなければならないんですよね。
これは自分の為でもあり一番効果が現れるのは暴力を振るう本人なんですよ。
常時暴力を振るいたいと考えている人は余程歪んで屈折した世界に晒された人なのでしょう。
憐れに思いますし可哀想だとも思います。
おいらが鬱で世の中に絶望し、何もかもどうでも良くなり生きる事に価値を見いださなくなった時に助けになったのは単純な事でした。

短くても良いのですが、言葉として残す

という事でした。
これは驚くほど効果がありました。
現在もこのBlogで言葉に残しているのですがね。
一本の鉛筆と既に使用されている紙でも良いんです。
何か書かれていたり印刷されていても、その上からでも感じている事を字にすると言うのは本当にすっきりしますから試してください。
おいらも家で暴れていた時期がありました。
でも暴れてもまたエネルギーが溜まるともっと大きくて強い暴れ方をしなければ解消しなくなっていったんですな。
暴力の悪いところはエスカレートさせないと気が済まない所にあります。
断っておきたいのですが、人や動物に危害を加える事だけが「暴力」ととられがちですが、モノに当たるのも十分に暴力です。
おいらは実際に人を殴った事があるのは人生でも数える程度ですからね。
それと「言葉による暴力」もあります。
おいらの場合は言葉の暴力を使用していましたな...............
でも言っても言っても解消とはほど遠い状況でした。
そんなエネルギーというのはかなり大きいモノですよね。

それに対して「字を書く」というのは取るに足りない事ではないでしょうか?

苦しい、辛い、悲しい、泣きたいなど文字にして客観的に見る事が出来ると思いのほか冷静になれるんですな。
おいらが手書きじゃないと駄目な時があるのはこのような背景があるからなんですよね。

なんだか訳のわからない方向に行ってしまいましたが、今回の記事で書きたかったのは

「右手で書き、左手で開く」

という習慣を培ったんだよ、という事でした。

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