「自分は愛されていない」と感じたことはありませんか.................................................
自分の状況は非常に恵まれており、状況としては申し分ありません。
しかし「愛」というものは環境から得られることというのは少ないんですよね。
「愛を感じる」というのは
「個人の主観に基づいた自己判断」
でしか無いんです。
それに幾らお金があり、欲しいモノが全て手に入ってもそこに自分が本当に欲する「愛」は無いでしょう。
「モノに対する執着」という形での愛はありますけどね。
ただ「口を開けて待っている人間に餌を遣っている感覚」
つまり
「動物を飼うような感覚で人を扱っても良いのかどうか」
ということになります。
このような扱いを受けた人間がどのようになるかご存知でしょうか。
Neglect(ネグレクト)と呼ばれ虐待の一つとして世間一般でも認知されています。
こういった扱いを受けた人間がどのような人間に育っていくのでしょうか。
酷い場合はまず「死」にます。
ネグレクトは犯罪なんですよね。
そしてわたしの知っている人は自閉症になりかけました。
大人しい赤ちゃんであれば愛情を注がずに「餌」を遣っていれば良いのでしょうか?
そうではありません。
大人しいから愛情が要らないという結論に簡単に達する人間は愚かでしょうね。
人は人間として当然受けるべき愛情を、然るべき方法で与えられるべきなのです。
また他にも「犯罪者」になる可能性が高いということも見逃せないでしょう。
犯罪者を生むということは
「その親が既に犯罪を犯しているから」
なんです。
愛情を与える方法を考え直し精査し直さなければならないでしょう。
愛というのは本当に多くの方法で与えられます。
しかし与えられた本人がそれが「愛」であると認識しなければなりません。
当然受けるべきモノでも認識が必要になります。
わたしの場合に愛を横取りされて来たのが当たり前になっていたのだと感じています。
幼い時から横取りされるのが当たり前になっていたんですね。
これは自分自身に対する愛にも大きな影響を与えてきました。
自分自身に何かしらを購入するということは「=犯罪」でした。
まず前提として人を優先することが当たり前になります。
どんなに襤褸を着ていても、どんなに惨めな生活をしていても人に施すのが当然だったんですね。
このような考え方をしていると人間というのはまともには育ちません。
それと最近わかってきたことなのですが、感受性が高かったり状況を把握しやすい人間にとっては
親から適切な愛を与えられてこなかった
という思いは強くなり、絶望を感じることも少なくありません。
わたしが愚かで価値がないのではなく、親がこの点では愚かで無知なのだということを理解できるようになって来ました。
人間というのは賜物があります。
賜物というのはその人が備えている優れた特質のことなんですけどね。
わたしはこの点で賜物を持っているのでしょうね。
このように感じることが出来るようになったのは大きな進歩です。
ただ疑問を感じるのは
なぜ他人の必要を敏感に理解できるのに自分の子供の必要を理解できて来なかったのか
ということですね。
「子供は親を超えていくものだ」とよく言われていますが、洞察力の点では中学生の時点で既に超えていたようです。
というより最近困っているのは、周りの人間が酷く愚かに見えてきたということでしょうか。
わたしも大概愚かですがね。
周りもわたしと遜色ないんだな~と解るようになって来ました。
そしてわたしにも優れたところがあり、賜物があるということも良く解るようになれました。
それとどうやらわたしも神に愛されているらしいんですよね。
これはわたしにとってとても嬉しいことです。
これからも神に愛されるようにいきていきたい、神に愛されるような人間として生きていきたいと願っています。
自分の状況は非常に恵まれており、状況としては申し分ありません。
しかし「愛」というものは環境から得られることというのは少ないんですよね。
「愛を感じる」というのは
「個人の主観に基づいた自己判断」
でしか無いんです。
それに幾らお金があり、欲しいモノが全て手に入ってもそこに自分が本当に欲する「愛」は無いでしょう。
「モノに対する執着」という形での愛はありますけどね。
ただ「口を開けて待っている人間に餌を遣っている感覚」
つまり
「動物を飼うような感覚で人を扱っても良いのかどうか」
ということになります。
このような扱いを受けた人間がどのようになるかご存知でしょうか。
Neglect(ネグレクト)と呼ばれ虐待の一つとして世間一般でも認知されています。
こういった扱いを受けた人間がどのような人間に育っていくのでしょうか。
酷い場合はまず「死」にます。
ネグレクトは犯罪なんですよね。
そしてわたしの知っている人は自閉症になりかけました。
大人しい赤ちゃんであれば愛情を注がずに「餌」を遣っていれば良いのでしょうか?
そうではありません。
大人しいから愛情が要らないという結論に簡単に達する人間は愚かでしょうね。
人は人間として当然受けるべき愛情を、然るべき方法で与えられるべきなのです。
また他にも「犯罪者」になる可能性が高いということも見逃せないでしょう。
犯罪者を生むということは
「その親が既に犯罪を犯しているから」
なんです。
愛情を与える方法を考え直し精査し直さなければならないでしょう。
愛というのは本当に多くの方法で与えられます。
しかし与えられた本人がそれが「愛」であると認識しなければなりません。
当然受けるべきモノでも認識が必要になります。
わたしの場合に愛を横取りされて来たのが当たり前になっていたのだと感じています。
幼い時から横取りされるのが当たり前になっていたんですね。
これは自分自身に対する愛にも大きな影響を与えてきました。
自分自身に何かしらを購入するということは「=犯罪」でした。
まず前提として人を優先することが当たり前になります。
どんなに襤褸を着ていても、どんなに惨めな生活をしていても人に施すのが当然だったんですね。
このような考え方をしていると人間というのはまともには育ちません。
それと最近わかってきたことなのですが、感受性が高かったり状況を把握しやすい人間にとっては
親から適切な愛を与えられてこなかった
という思いは強くなり、絶望を感じることも少なくありません。
わたしが愚かで価値がないのではなく、親がこの点では愚かで無知なのだということを理解できるようになって来ました。
人間というのは賜物があります。
賜物というのはその人が備えている優れた特質のことなんですけどね。
わたしはこの点で賜物を持っているのでしょうね。
このように感じることが出来るようになったのは大きな進歩です。
ただ疑問を感じるのは
なぜ他人の必要を敏感に理解できるのに自分の子供の必要を理解できて来なかったのか
ということですね。
「子供は親を超えていくものだ」とよく言われていますが、洞察力の点では中学生の時点で既に超えていたようです。
というより最近困っているのは、周りの人間が酷く愚かに見えてきたということでしょうか。
わたしも大概愚かですがね。
周りもわたしと遜色ないんだな~と解るようになって来ました。
そしてわたしにも優れたところがあり、賜物があるということも良く解るようになれました。
それとどうやらわたしも神に愛されているらしいんですよね。
これはわたしにとってとても嬉しいことです。
これからも神に愛されるようにいきていきたい、神に愛されるような人間として生きていきたいと願っています。