長年、時効という制度に苦しんでこられた人たちの福音となるのでしょうか...................
これに対する答えは「No」であると言えるでしょう。
「人の死」というのはすべての人間に平等に訪れる最終的な結末であるとはいえ、「奪われた」命に対しては命を持って償うというのが人としての自然な「成り行き」もしくは「理(ことわり)」と言えるでしょう。
以前に「死刑という判断」という記事の中で死刑制度の崩壊が起こっているという内容のことを書きました。
死刑というのは「死への恐怖」を利用した犯罪者への「抑止力」として作られていると言ってもいいでしょう。
しかし昨今の犯罪の特色としては死ぬことが恐怖の対象から変化が起こっているようです。
犯罪心理学などを考えるとGameの話が出てくることが多いのですがね。
因果関係が明確にされていないという理由で販売が継続されています。
確かに18歳以上の「Rating」という制度が設けられ若年層が購入することが出来ないSoftwareも出てきていますがね。
これは親に購入してもらったり知人の成人の人に買ってもらったりして購入するなんて方法が取れるわけです。
Gameの中では人は簡単に「死」に、そして「生き返り」ます。
おいらはこれを自分自身のGame感では捉えることが出来ませんでした。
ところが親戚の男の子のGameをしているのを見ていると物凄く淡白に「死」というものを扱っているのだと理解できました。
「Reset」という言葉もおいら自身のGame感ではガッツりとはできない部分だったのですが、彼のGame Styleを見ていると理解できました。
彼らのGameの方法というのはGameを上手くなるというよりは下手で何度死んでもReset出来ることで何度でもTRY出来て、
「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」方式で「成功したらめっけもんだ」というStanceのようです。
いくら死のうがいくら殺されようが死ぬすぐ手前から始めることが出来るのだから構わないというやり方です。
このようなGameをしていると命への概念や美しい生命活動を全否定しているように感じてしまいます。
「PS3」のGameのLine Upを見ていると「殺し合い」モノが本当に多く感じますね。
その手のGameばかりしているというのは麻痺するというのもよくわかります。
中でもBIOHAZARDを見かけたのですが、あまりにも残酷で胸が悪くなるぐらいでした。
一応はChristianの子供なのですがね。
あれほど残酷な描写を平気な顔して進めている事自体が信じられませんでした。
人の命を奪うことの重大性、重罪性を理解出来ていないのでしょうね。
簡単に子供の命を奪う親が増えています。
それに生かさず殺さずの状態、ネグレクトなど死ぬ方が楽なのではないかと思えるほどの事をされている子供たちがいます。
おいらはネグレクトではありませんが、大欝を患って思ったのは
「生きているよりも死ぬ方が楽で苦しまなくても良い」
という結論でした。
今の状態まで持ち直したのは一人の人間がおいらを認めてくれたからです。
誰にも認められず、認識もされないというのは全く期待していないおいらでさえ苦しいものでした。
この手の認識されるべき人間としては家族が第一でしょうね。
人間として生きていくにつれ不条理やどうしようもないことが発生して、Stressが起こります。
そのStressの発散方法というのは若年層は殆ど知りません。
よって手っ取り早いGameで対処するようになるのかもしれません。
確かにGameと言うのは面白く楽しいものであるとおいらも認識しています。
これは間違いないでしょう。
おいら自身もGameを嗜んでいますからね。
しかしこんなに残酷なGameが若年層に普及していいものかという疑問があります。
いくら成人していても残酷なGameと言うのはしない方がいいのは当然です。
MoralやMannerを身に付けている成人というのは少なくなっています。
成人式を見ているとそれは明白でしょう。
現在では成人でも成人ではないと認識するのがいいと思われます。
「落ち着き良識を持った判断をできる年齢」
という曖昧な表現があります。
社会的に一定の認識としてあるのは「30歳」という区切りがあるのが理解出来るように成りました。
どのような人間でも30を超えると一定の経験なり知識なりを保有するように成り良い判断を下すことができるようになるという意味です。
しかしGame業界では30というのはあまり期待出来ない年齢です。
ファミリーコンピュータというGame機が世に出たのは1983年です。
丁度Gameが普及した年齢層が現在の30代を構成していると言ってもいいかもしれません。
まだやっている人たちはたくさんいますけどね。
30代になると仮想の世界ではなくRealな世界のほうが楽しいという理解もできてくる年齢なんですよね。
小学生から高校、大学、成人、20代とGameや漫画、アニメ、本、音楽など一人で楽しむためのモノを好む傾向がありました。
しかし急に家族や親族、人との繋がりが「貴重な関係」であることがわかるように成ります。
蔑ろにして、邪険に扱っていたものがこれほど貴重な時間なのだと思い知らされると迂闊に断るということが躊躇われるように成りました。
おいらは人間関係が邪魔であることは変わりが無いように思います。
人間嫌いも変わっていないでしょう。
でも人の好意や親切には敏感でありたいと思っています。
それに人の「頑張り」や「努力」も直ぐにでも認めたいと思っています。
こういう思考ができるようになるには人が人格を保有していて活動しているということを認めなければなりません。
人は意志を持って行動しているという最低限の因果関係ですな。
ただGameの中での一人のCharacterで作られたモノではなく、感情がそこにはあり、それは尊重されなければならないという人権です。
それらを全否定するのがGameの残虐性であるように思います。
なんだか時効が無くなるという記事では無くなっていますね。
また別の記事で書きたいですな。
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