現在、鬱の子のCounselingのような事をしています..........................
おいらも鬱になるので大概にしておきたいのですがね。
入院するとかしないとかの話になっているようなんですよね。
おいらはおいらのような経験をする可能性のある人が苦しんでいるのであれば其れを回避させてやりたいと考えます。
おいらの鬱のMaxの状態はもっとも重い部類に入るぐらいのモノとなっていました。
「大鬱」と呼ばれる状態ですな。
鬱病患者の多くは行き着く結論として自殺へ向かう思考をしています。
しかし病院などのお医者さんなどのCounselorは一人一人の患者との関わりはBusinesslikeなモノで限界があります。
此の関係がもっとも理想的なモノでしょうね。
理由は余りに深みに填ると自分自身の感情に甚大な影響を受けるからなんですよ。
患者の話を聞いていると自ずと自分も患者の思考になっていくモノなんですよ。
よって個々の患者の問題の解決策を知っていようとも其れを提示して直ぐに問題を解決する事はしてはならないんです。
効果的に問題を解決するには
「患者自身が問題の解決策を見出して解決する」
という答えしかありません。
部外者や第三者、もしくは親族でさえ問題を解決する事は出来ないのです。
悩みの根本原因というのは患者固有のモノであり、患者の意志が伴っていなければ解決となり得ないという事でしょう。
問題解決の糸口を分析し特定出来ていても駄目なんですよね.............
悩みを聴いていると、こういうことが見えてくるのでお医者さんやCounselorというのは大変だな~と理解出来ました。
解決策は見えているのに見守り続けることを強いられているのですからね。
そしてその解決策の多くは身の回りの人間からの是認に他なりません。
是認がないから「自尊心が無く」
自尊心が無いから「自分の行う事柄に価値がない」
価値が無いから「自分の存在を否定する」ようになり
存在を否定する事から「自傷行為に至る」
自傷行為をするようになるとEscalateして「自殺に至る」
こういうProcessを経ます。
人の思考は考え続けている事柄により構成されていきます。
そして考え続ける事は発達し発展するようになっています。
考え続ける事で行った事柄というのは経験からEscalateするようになっているんですよね。
こういう心理というのは誰しもあるでしょう。
然う言えば他にもおいらはこういう問題を抱える子との関わりを持っていました。
すでに生活の一部になっていましたが、問題を抱えるようになりました。
その問題を悔い改めたならば、関わりを経つ事はなかったのですがね。
親の認識の問題でしょうね。
母子家庭や父子家庭というのは仕事で時間を取ってやれない故に甘やかす傾向にあります。
こういう家庭であることに加えて特有の問題を抱えてもいます。
そのあたりを書く事は出来ないのですが、此の特有の問題の故に更に甘やかしてきたのを行動の端々に観察する事が出来ました。
おいらは自分に甘い人間が大嫌いです。
しかし行き成り断ち切るという事も難しいんですよね。
物事を親から教えられてこなかったばかりに、無知故に自分の行動の優先順位を認識出来ず、自分の関心事に最大の役割を負わせるという価値基準ですな。
価値基準というのは個々によって違います。
そしてその価値基準というのは自分の価値観という非常に歪んだLensを通してでしか人は見る事が出来ません。
例として書くとFish Eye Lens(魚眼Lens)みたいな視界で事象を見ている所を想像してもらえればわかりやすいかも知れません。
価値観というのは個人個人で関心事が違い、その関心事によって価値のある無しを判断しているのです。
例えばFashionに関心のある人は自分が所有している服が乏しいと感じているはずです。
理由は服の情報を沢山取り入れ服の種類やDesign、Brandなどの様々なFactorがあるのを知っているからです。
雑誌などを見ると一つの雑誌で一人のModelは少なくともTopsとBottomsを着ているはずです。
下着などを含めると軽く数万円は飛んでいくStylingをされているはずです。
そのような写真が複数写っているのがFashion雑誌です。
こういう雑誌を見ていると自分が所有している服の乏しさを痛感しているはずなんですよね。
それに「古くなった」とか「季節が変わった」などのFactorを含めると服に投資する金額というのは生活の中で主要な部分を占有するモノとなっていくでしょう。
それに対してFashionに関心のない人はFashionに関心がないが故にFashionに関心がある人から見るとFashionに自信を持っているように映ります。
Fashionに関心がない故に左右されないのが自信を持っているように映るんですな。
これって本当に大きな皮肉ではないでしょうか。
関心がない故に自信を持っているように見えるのであれば、関心がありある程度の装いをしている人は尚更自信を持っても良いモノなのに却ってその分野で消極的になり自信が全くない状態にまでなっているんですな。
これは上記の子とは別件での会話です。
まあね。
自信と自尊心とは別物です。
自尊心は有しても有益なモノですが、自信は過度のモノとなると有害なモノとなります。
誇りへと繋がるモノですからな。
おいら自身が鬱病を煩い、回復傾向にあるが故に様々な人々の心の機微に敏感になる事が出来ています。
人の関心事、人の悩み、人の悲しみ、人の辛さなどをですな。
感情移入すると自分まで駄目になっていくのでしないようになりましたがね。
おいらの至った結論としては自分の事を悩む時間があるならば人のために時間や資産を使う事を躊躇ってはならないという事でしょう。
他の人のために時間を使うという事は自分の事を悩む事よりも何倍も建設的で喜びの大きいモノです。
見返りなど求めもしませんし、他の人のためにする事は全て捨てるような心構えで物事を行っていくと本当に楽になります。
ただ単に目的に集中しているからなんですけどね。
おいらの目的は単純なモノとなりつつあります。
第一目標としてはやはり
神様に喜んでもらう
でしょう。
神様に喜んで貰える延長線上に
知人に喜んで貰う
というのがあります。
喜んで貰えれば労力は報われます。
価値を認識し、それに対する適切な感謝の言葉を貰えるならばそれだけで十分なんですよね。
行った事柄へのお礼を貰うことを前提に物事を考えるならば、其れは単なる「駆け引き」に成り下がります。
「純粋な善意」を示すことが出来る立場にいるというのは何と恵まれた環境にいるのだろうか
とよく感じるようになりました。
駆け引き無しに喜んでもらうのを目的にしているのが相手に理解して貰えれば貰えるほど変わってきた事があります。
それは此方の動機を尊重し、尊厳を持って扱って頂けるようになってきました。
此方としてはそれほど極端なことをしていないのにもかかわらず、小さな事にも目を向けて貰えるようになっていくというのは本当に皮肉なモノです。
ところでおいらが人のために物事を行うのは決まっています。
・感謝の念の深い人
・最善を尽くしている人
・抑圧に面して、謂われもない皺寄せを食らっているのに我慢した耐えている人
・人の為に努力している人
でしょうね。
これ以外にも適応される人がいますが、極々わずかです。
直面している問題というのは本人にとってはとてつもなく大きなモノに思えるでしょう。
それを客観的に見る事が出来るならば微々たる問題なのだという事を理解出来るはずなのですがね。
其れが出来ない故に鬱病になっているのです。
おいらも鬱になるので大概にしておきたいのですがね。
入院するとかしないとかの話になっているようなんですよね。
おいらはおいらのような経験をする可能性のある人が苦しんでいるのであれば其れを回避させてやりたいと考えます。
おいらの鬱のMaxの状態はもっとも重い部類に入るぐらいのモノとなっていました。
「大鬱」と呼ばれる状態ですな。
鬱病患者の多くは行き着く結論として自殺へ向かう思考をしています。
しかし病院などのお医者さんなどのCounselorは一人一人の患者との関わりはBusinesslikeなモノで限界があります。
此の関係がもっとも理想的なモノでしょうね。
理由は余りに深みに填ると自分自身の感情に甚大な影響を受けるからなんですよ。
患者の話を聞いていると自ずと自分も患者の思考になっていくモノなんですよ。
よって個々の患者の問題の解決策を知っていようとも其れを提示して直ぐに問題を解決する事はしてはならないんです。
効果的に問題を解決するには
「患者自身が問題の解決策を見出して解決する」
という答えしかありません。
部外者や第三者、もしくは親族でさえ問題を解決する事は出来ないのです。
悩みの根本原因というのは患者固有のモノであり、患者の意志が伴っていなければ解決となり得ないという事でしょう。
問題解決の糸口を分析し特定出来ていても駄目なんですよね.............
悩みを聴いていると、こういうことが見えてくるのでお医者さんやCounselorというのは大変だな~と理解出来ました。
解決策は見えているのに見守り続けることを強いられているのですからね。
そしてその解決策の多くは身の回りの人間からの是認に他なりません。
是認がないから「自尊心が無く」
自尊心が無いから「自分の行う事柄に価値がない」
価値が無いから「自分の存在を否定する」ようになり
存在を否定する事から「自傷行為に至る」
自傷行為をするようになるとEscalateして「自殺に至る」
こういうProcessを経ます。
人の思考は考え続けている事柄により構成されていきます。
そして考え続ける事は発達し発展するようになっています。
考え続ける事で行った事柄というのは経験からEscalateするようになっているんですよね。
こういう心理というのは誰しもあるでしょう。
然う言えば他にもおいらはこういう問題を抱える子との関わりを持っていました。
すでに生活の一部になっていましたが、問題を抱えるようになりました。
その問題を悔い改めたならば、関わりを経つ事はなかったのですがね。
親の認識の問題でしょうね。
母子家庭や父子家庭というのは仕事で時間を取ってやれない故に甘やかす傾向にあります。
こういう家庭であることに加えて特有の問題を抱えてもいます。
そのあたりを書く事は出来ないのですが、此の特有の問題の故に更に甘やかしてきたのを行動の端々に観察する事が出来ました。
おいらは自分に甘い人間が大嫌いです。
しかし行き成り断ち切るという事も難しいんですよね。
物事を親から教えられてこなかったばかりに、無知故に自分の行動の優先順位を認識出来ず、自分の関心事に最大の役割を負わせるという価値基準ですな。
価値基準というのは個々によって違います。
そしてその価値基準というのは自分の価値観という非常に歪んだLensを通してでしか人は見る事が出来ません。
例として書くとFish Eye Lens(魚眼Lens)みたいな視界で事象を見ている所を想像してもらえればわかりやすいかも知れません。
価値観というのは個人個人で関心事が違い、その関心事によって価値のある無しを判断しているのです。
例えばFashionに関心のある人は自分が所有している服が乏しいと感じているはずです。
理由は服の情報を沢山取り入れ服の種類やDesign、Brandなどの様々なFactorがあるのを知っているからです。
雑誌などを見ると一つの雑誌で一人のModelは少なくともTopsとBottomsを着ているはずです。
下着などを含めると軽く数万円は飛んでいくStylingをされているはずです。
そのような写真が複数写っているのがFashion雑誌です。
こういう雑誌を見ていると自分が所有している服の乏しさを痛感しているはずなんですよね。
それに「古くなった」とか「季節が変わった」などのFactorを含めると服に投資する金額というのは生活の中で主要な部分を占有するモノとなっていくでしょう。
それに対してFashionに関心のない人はFashionに関心がないが故にFashionに関心がある人から見るとFashionに自信を持っているように映ります。
Fashionに関心がない故に左右されないのが自信を持っているように映るんですな。
これって本当に大きな皮肉ではないでしょうか。
関心がない故に自信を持っているように見えるのであれば、関心がありある程度の装いをしている人は尚更自信を持っても良いモノなのに却ってその分野で消極的になり自信が全くない状態にまでなっているんですな。
これは上記の子とは別件での会話です。
まあね。
自信と自尊心とは別物です。
自尊心は有しても有益なモノですが、自信は過度のモノとなると有害なモノとなります。
誇りへと繋がるモノですからな。
おいら自身が鬱病を煩い、回復傾向にあるが故に様々な人々の心の機微に敏感になる事が出来ています。
人の関心事、人の悩み、人の悲しみ、人の辛さなどをですな。
感情移入すると自分まで駄目になっていくのでしないようになりましたがね。
おいらの至った結論としては自分の事を悩む時間があるならば人のために時間や資産を使う事を躊躇ってはならないという事でしょう。
他の人のために時間を使うという事は自分の事を悩む事よりも何倍も建設的で喜びの大きいモノです。
見返りなど求めもしませんし、他の人のためにする事は全て捨てるような心構えで物事を行っていくと本当に楽になります。
ただ単に目的に集中しているからなんですけどね。
おいらの目的は単純なモノとなりつつあります。
第一目標としてはやはり
神様に喜んでもらう
でしょう。
神様に喜んで貰える延長線上に
知人に喜んで貰う
というのがあります。
喜んで貰えれば労力は報われます。
価値を認識し、それに対する適切な感謝の言葉を貰えるならばそれだけで十分なんですよね。
行った事柄へのお礼を貰うことを前提に物事を考えるならば、其れは単なる「駆け引き」に成り下がります。
「純粋な善意」を示すことが出来る立場にいるというのは何と恵まれた環境にいるのだろうか
とよく感じるようになりました。
駆け引き無しに喜んでもらうのを目的にしているのが相手に理解して貰えれば貰えるほど変わってきた事があります。
それは此方の動機を尊重し、尊厳を持って扱って頂けるようになってきました。
此方としてはそれほど極端なことをしていないのにもかかわらず、小さな事にも目を向けて貰えるようになっていくというのは本当に皮肉なモノです。
ところでおいらが人のために物事を行うのは決まっています。
・感謝の念の深い人
・最善を尽くしている人
・抑圧に面して、謂われもない皺寄せを食らっているのに我慢した耐えている人
・人の為に努力している人
でしょうね。
これ以外にも適応される人がいますが、極々わずかです。
直面している問題というのは本人にとってはとてつもなく大きなモノに思えるでしょう。
それを客観的に見る事が出来るならば微々たる問題なのだという事を理解出来るはずなのですがね。
其れが出来ない故に鬱病になっているのです。