わたしは、あなたが冷たいか熱いかのどちらかであってくれればと思う...........
「このように、あなたがなまぬるく、熱くも冷たくもないので、
わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」
先々週と先週に学んだ記事が心の中を行き巡り、反芻しては自己嫌悪に陥っています。
怠惰だと言われれば全く持ってその通りで、「たるんでいる」と言われれば弁解の余地は全くありません。
先々週と先週の火曜日に学んだこと今日は学んだ聖句を合わせると、余りに当てはまりすぎて辛いと感じます。
古代エジプトのファラオの言葉なのですが、自分自身にいつも感じている事がそのまま言葉になっていました。
しかし彼は言った、「お前たちはたるんでいる、たるんでいるのだ!
だから『わたしたちは行きたい。○○○に犠牲をささげたい』等と言っているのだ。
さあ、行って、働け!お前たちにわらは与えられないが、それでも定めの量のれんがは納めるのだ」。
イスラエル人がエジプトで奴隷として扱われ重労働(れんが作り等)に苦しんでいた際に発せられた言葉です。
この言葉はおいらの心情の的を射ていて、いつも自身を急かしている理由となっています。
何事に対しても改善の余地があり、その改善を実行しないことは悪だと常に考えており「たるんでいる、たるんでいるのだ!」と言っていることに今日は気がつきました。
なまぬるく、たるんでいることを考えると情けなく思い自身の不甲斐なさにいてもたってもいられません。
自責の念に囚われ、他の人と話をする権利もないとか「己のことも全うに出来ないのに何を抜かしているのだ」などと自分に悪態をついています。
加えて他にも言葉を見ているとその通りだと感じます。
あなたは、「わたしは富んでおり、富を得たのだから、何一つ必要なものはない」と言いながら、
自分が惨めで、哀れで、貧しく、盲目で、裸であることを知らない
おいらは富んでいません。
日本人の一般人の平均以下の生活を送っているはずです。
また「何一つ必要なものはない」なんて考えて事はありません。
でも後半の言葉は全く持ってその通りだと思うんですな。
わかっている部分でも惨めで、哀れで、貧しく、盲目で、裸であることは理解できています。
しかしわからない部分に関しては余りにも多すぎて、その事を考えると外にも出られないな~なんて考えてしまいます。
出てますけどね。(爆)
己の情けなさを理解した上で出かけるわけです。
この後に続く言葉を考慮すると多少は緩和されるような気がしますが、おいらはそんな上等な人間ではないともよく考えるんですな。
文脈を追うとこうです。
すべてわたしが愛情を抱く者を、わたしは戒め、また懲らしめる。
それゆえ、熱心になり、そして悔い改めなさい。
毎日が悔い改めの日々なのですが、それでも許されることはないと考えてもいます。
なんだかすごく自責の念が湧いてきてどうしようもない状態です。
いや~......
つらいですな......
久しぶりに自殺をマジで考えてしまっています。
毎日の不甲斐なさを呪い、自分の悪いところを祟りたい気分です。
もっとも時間を割いている事は自身の悪い点を見つけることだということもわかっていますし、出来ていないことを探すことも習慣になっています。
数日前に
では、なぜ兄弟の目の中にあるわらを見ながら、
自分の目の中にある垂木のことを考えないのですか。
ということを書きましたが、余りに自身の中にある垂木が大きすぎる事も良く感じます。
他の人に意見を述べることは自分の出来ていること以上のことは言いたくありません。
自分が出来ないことを言うことは僭越以外の何者でもないからです。
それを平気で指摘する人の気持ちが理解できません。
自分の分を知り、自分の立場を理解することに勤めていきたいものです。
「このように、あなたがなまぬるく、熱くも冷たくもないので、
わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」
先々週と先週に学んだ記事が心の中を行き巡り、反芻しては自己嫌悪に陥っています。
怠惰だと言われれば全く持ってその通りで、「たるんでいる」と言われれば弁解の余地は全くありません。
先々週と先週の火曜日に学んだこと今日は学んだ聖句を合わせると、余りに当てはまりすぎて辛いと感じます。
古代エジプトのファラオの言葉なのですが、自分自身にいつも感じている事がそのまま言葉になっていました。
しかし彼は言った、「お前たちはたるんでいる、たるんでいるのだ!
だから『わたしたちは行きたい。○○○に犠牲をささげたい』等と言っているのだ。
さあ、行って、働け!お前たちにわらは与えられないが、それでも定めの量のれんがは納めるのだ」。
イスラエル人がエジプトで奴隷として扱われ重労働(れんが作り等)に苦しんでいた際に発せられた言葉です。
この言葉はおいらの心情の的を射ていて、いつも自身を急かしている理由となっています。
何事に対しても改善の余地があり、その改善を実行しないことは悪だと常に考えており「たるんでいる、たるんでいるのだ!」と言っていることに今日は気がつきました。
なまぬるく、たるんでいることを考えると情けなく思い自身の不甲斐なさにいてもたってもいられません。
自責の念に囚われ、他の人と話をする権利もないとか「己のことも全うに出来ないのに何を抜かしているのだ」などと自分に悪態をついています。
加えて他にも言葉を見ているとその通りだと感じます。
あなたは、「わたしは富んでおり、富を得たのだから、何一つ必要なものはない」と言いながら、
自分が惨めで、哀れで、貧しく、盲目で、裸であることを知らない
おいらは富んでいません。
日本人の一般人の平均以下の生活を送っているはずです。
また「何一つ必要なものはない」なんて考えて事はありません。
でも後半の言葉は全く持ってその通りだと思うんですな。
わかっている部分でも惨めで、哀れで、貧しく、盲目で、裸であることは理解できています。
しかしわからない部分に関しては余りにも多すぎて、その事を考えると外にも出られないな~なんて考えてしまいます。
出てますけどね。(爆)
己の情けなさを理解した上で出かけるわけです。
この後に続く言葉を考慮すると多少は緩和されるような気がしますが、おいらはそんな上等な人間ではないともよく考えるんですな。
文脈を追うとこうです。
すべてわたしが愛情を抱く者を、わたしは戒め、また懲らしめる。
それゆえ、熱心になり、そして悔い改めなさい。
毎日が悔い改めの日々なのですが、それでも許されることはないと考えてもいます。
なんだかすごく自責の念が湧いてきてどうしようもない状態です。
いや~......
つらいですな......
久しぶりに自殺をマジで考えてしまっています。
毎日の不甲斐なさを呪い、自分の悪いところを祟りたい気分です。
もっとも時間を割いている事は自身の悪い点を見つけることだということもわかっていますし、出来ていないことを探すことも習慣になっています。
数日前に
では、なぜ兄弟の目の中にあるわらを見ながら、
自分の目の中にある垂木のことを考えないのですか。
ということを書きましたが、余りに自身の中にある垂木が大きすぎる事も良く感じます。
他の人に意見を述べることは自分の出来ていること以上のことは言いたくありません。
自分が出来ないことを言うことは僭越以外の何者でもないからです。
それを平気で指摘する人の気持ちが理解できません。
自分の分を知り、自分の立場を理解することに勤めていきたいものです。