よい子の読書感想文 

読書感想文561

『抵抗の哲学 クロォチェ(羽仁五郎  現代評論社)

 イタリアの哲学者、クロォチェを知ったのは『きけわだつみのこえ』文中でだった。羽仁五郎著『クロォチェ』を読み、感銘とともに、彼らは自由主義の国の最終的に勝利することを確信してゆくのだった。国軍の将兵として死地に赴くとき、その確信は国軍の敗北を予言せねばならない。あの時代にあって学問の自由を内心において失わなかった一部の学徒兵の心境、その苦悩はいかばかりか。私も『クロォチェ』を読み、少しでも追体験したいと願った。
 そういう経緯で、最初に手にしたのが、岩波の『歴史の理論と歴史』だった。いま思えば、そう食欲をそそる内容でもなかったはずだが、『きけわだつみのこえ』にリスペクトしていたからか、それなりに集中して読んだ。次に手が伸びなかったのは、単純に、店頭に並んでいなかったからだろう。意識的に探さないと入手できない程度に、いまではマイナーな哲学者なのかもしれない。羽仁五郎も同様だ。
 本書をどこで見つけたのかは、失念してしまった。それほど長く積ん読していたようだ。学徒兵がその日記等で絶賛していたのは『歴史の理論と歴史』ではなく、羽仁五郎による解説書『クロォチェ』だった。本書は戦後、それを収録して新たな原稿を加えたものである。私は否応なく期待し、反動で、最初に手にしたときはガッカリして読み込めなかった。何が良いやらわからないというか、どれが羽仁五郎の主張で、どれがクロォチェ作品の引用なのか、よくよく気をつけないと見落としてしまい、読み疲れてしまったのだ。
 今回、手元の在庫を読み切り、休暇に、いざ積ん読本をと、読み直しを試みたわけだが、学徒兵等が絶賛した理由と、現在私たちが読んでも感銘を得られないギャップの理由がようやくわかった。
 羽仁五郎は、クロォチェ作品を引用することで、クロォチェに代弁させるという際どい離れ業をやってのけていたのである。言論の自由が抹殺される時代にあって、それは身を挺した挑戦であり、果敢な体制批判だったろう。それらのことを括弧に入れて読まなければ、羽仁五郎『クロォチェ』の価値は知り得ないのである。
 さて併録されている戦後のものは、蛇足の感の否めない部分も少なからずあったし、文章の推敲もされてないようで、痛々しい感じはしたが、汲むべきものもあった。
 著者は現代の歴史はアウシュビッツ以前と以降とで断絶されるといい、次のように書いている。
【このアウシュビッツの問題を現代の最大の問題であり、またぼく自身にとっても最大あるいは唯一の問題だと考えているが、なかなかこれを本質的に、どこにその本質があるかがつかめないのである。ぼくはみんなでこれを考えなくてはいけないと思う。なぜ考えなくてはならないかというと、それについて本質的につかめないでいる間は、いつ何どきでもこれが復活するということであり、もう一度起こるということである。】
 またこうも書いている。
【過去の歴史が現代の教訓になるとか、あるいは類推になるとかいうふうな問題では、とてもアウシュビッツの問題は解決できないと思う。】
 いまさらクロォチェもあるまいと、読んでいる最中は思ったりもしたが・・・いまさらながら、私たちは、上に引用したような課題の地平から、這い上がられていはしないのだ。
 最後になるが、収録されている『クロォチェ』の引用は、“”で囲まれてはいるが、改行もなく、非常に判別しづらい。通常、引用は明確化するために改行し、さらに字体や字のサイズまで変えたりするが、本書においてそういうサービスは一切ない。読むのに疲れたが、これは検閲者に対するささやかな抵抗だったのかもしれない。


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