手元にある未読本を読み終え、出かけにバッグへ忍び込ませる本を選ぶ食指がはたと止まった。
永らく読みあぐねたハードカバーの積ん読本たちは、まだ十冊ほどある。でも眠い通勤電車には最も不適。といって、短期集中できる電車の読書をしないのも勿体ない。それで本棚の既読本たちを眺め、この作品集に手が伸びた。二十代の前半に読んで以来だから、もう干支がひとまわりしたことになる。
印象は良かったのだが、同じ著者の文芸評論を最近読んで、ようやく再読しようという気になった。自然と手が伸びることなく十数年も経っていたのは何故だろうか。後付けのように評価するなら、本作が、風景画のように静的で、落ち着いていて、ぶれないイメージがあったからのような気がする。それだけ完成度が高いということなのだろう。
喩えるなら、『草のつるぎ』らは飲み物でいうお茶か。良質な茶葉を、適切な湯温で、正しい淹れ方で注がれている。しかし、ささくれだち、苛立ち、消化不良のまま疾走しているとき、飲みたいのは不健康なしろものなのかもしれない。茶よりはコーラ、コーラよりは酒、という具合に。
喩え話に終始してしまったが、改めて、描写の丁寧さと、それとは相反するかのような歯切れ良い文体に感心させられた。いま軽く読み返し、幾つかを抜粋してみようと思ったが、つい魅入ってしまっていた。
この文体は、抜き取ってサンプリングした瞬間に色褪せてしまうと感じた。ちょうど、夏の木陰でそよいだ風の美しさを、それだけ切り取って説明などできないように。
たまたまではあったが、『草のつるぎ』、『一滴の夏』いずれも、夏に読むにふさわしい作品だった。岩塩を身体的に求めてやまないような皮膚感覚は、寒い時期に読んでは感情移入しにくいかもしれない。水しぶきを浴びて得る快感もそうだ。
高次元で、感覚というものを描ききる。モラトリアムの中で浮遊するような語り手を描いていながら、まったく青臭い感じがしないのは、そうした著者の完成された文体の賜物なのかもしれない。
以前は題材やストーリーにばかり着目して気づかなかった本作品集の文学的香気を、今回、少しは嗅ぎ当てることができた気がする。他の著作も探してみたい。
