〈私〉時代とは何か。著者は冒頭でこう述べている。
《「聖なるもの」が一つひとつ失われていったのが、「近代」という時代です。ある意味で、〈私〉がこのように強調される現代とは、そのような「近代」の行き着いた時代なのかもしれません。なぜなら、あらゆる「聖なるもの」が見失われてしまった現代において、価値とされるものは、もはや〈私〉しかないからです。》
ポスト・モダンという風潮が訪れたとき、“神話”にとってかわるものとして、しきりと分裂病的な細分化された欲求(享楽)が取り上げられた。バブル期の経済に連動して、それはしばらく説得力ある説明だったろう。
それが立ち行かなくなった時代を評して〈私〉時代と呼ぶ著者の取り組みに興味を覚えた。新聞の書評をみて、さっそく注文したのだった。
本書の中で著者は、想像力の壁によって隔てられていた『階級意識』は“平等化”された『個人の自意識』にとってかわられたとし、こう提起している。
《民主的社会における根拠の不在を嘆くよりも、むしろ民主的社会における自己模索の質を高めていくべきなのです。》(P71)
《個別化し断片化した声をくみ上げ、そこに共通の地平を築くような、より高度な感度をもったデモクラシーがいま求められています。》(P92)
また、〈私〉時代は憂うべき事態をも招いている。自意識への志向が、自己表現すべき言葉の体系を身につけられぬまま、無媒介に愛国心につながってしまう。それは不満が“私事化”される時代に対応したという意味で危険であろう。著者はこういう。
《〈私〉の不満や不安を、脅威とされる他者の排除へと結びつけないためには、〈私〉の問題を〈私たち〉の問題へと媒介するデモクラシーの回路を取り戻すしか道はありません。〈私〉のナショナリズムの克服は、デモクラシーによって実現されるべきなのです。》 (P117)
しかし如何にその“デモクラシー”を再構築していけば良いのか。著者はその再生の骨子として“社会的希望の回復”をいう(P134)。社会とは「人生の意味を創出するメカニズム」であり「希望の分配のメカニズム」である、と。〈私〉を生きることにこだわるゆえに、社会は参照軸であり続けるはず、と。
読み違えれば、ムラを善しとするアナクロにも見えてしまうが、根本的に著者の視座は斬新で革命的である。つまり国家が命令や強制によって立つシステムであるとすれば、社会は諸個人による自律に支えられて成る、という考えに、著者は自己利益の長期的・公共的追求を抱き合わせる。それは人々のモラルに訴えるだけではなく、現実的で即物的な利益に関わるものとして、リアリティある提起だろう。
むすびで著者は『〈私〉は、〈私〉の実現のためにも社会を必要とするということです』という。その視点からすれば以下の批判は切実だ。
《自分は大切にされていないのだから、そういう社会を大切にする必要はないという悪循環があるとすれば、この悪循環を断たなければなりません。》
《他者が見えない、あるいは社会が見えないという恐怖こそが、とりあえず目の前にある自己利益の確保へと人々を促します。そうだとすれば、エゴイズムを批判する前に、個人をエゴイズムへと走らせるそのような社会環境こそを問題にしなければなりません》(P163)
むすびの第二は『〈私〉の意識こそが歴史の発展を生み出すということです』
第三は『〈私〉意識の高まりがデモクラシーの活性化を求めるということです』
これらテーゼを解説するのが本書の役割だったといっていいだろう。終盤で著者はフランスの政治哲学者ルフォールを引き合いに出すが、面白いので引用する。
《民主的社会とは、そのような「権力の場」から君主を追い払い、その場をつねに「空虚」にとどめておくことによって成り立っているとルフォールはいいます》
《とはいえ、社会の統合の象徴的な中心が空虚であるということは、デモクラシー社会の独特な不安定さの原因となります。それゆえに、デモクラシー社会には、この中心を何らかのもので埋めたいという潜在的な願望があります。このような願望に応えるために出現したのが二〇世紀の「全体主義」だったとルフォールはいいます》
《このようなルフォールの議論に従うならば、およそ近代デモクラシーとは、外部の絶対的な根拠を欠き、自律しようとするがゆえにその中心に空虚をかかえた存在にほかなりません。その本質は、たえざる異議申し立てに開かれている点にあるといえるでしょう。その意味でいえば、デモクラシーとはそもそも「答えのない」状況において、それでも社会的な意味をたえざる議論と論争を通じて創出していくプロセスだったのです》(P174)
なるほど、と思う。ツァーリズムの亡霊は、ファシズムとして、スターリニズムとして、あるいは小泉純一郎式の劇場政治として、今後も絶えそうにない。そしてデモクラシーの難しさと希望も、この“空虚”にあるのだと思う。著者は第4章の最後をこう締めくくっている。
《「答えのない時代」を正面から受け止め、まさにそのことを自律と自己反省の契機とすること、静的で自己完結的な安定性ではなく、動的な自己批判と自己変革を目指すこと、そのために必要な他者を見いだし、その他者とともに議論し続けるための場をつくり続けること、これこそ〈私〉時代のデモクラシーの課題にほかなりません》(P180)
やや教条的な結論だが、むすびの文中にはこれを補完する一説があるので引用しておく。
《今日求められるのは、人々の平等を前提にしたモラルです。そして、自分と立場や理想を異にする人々もまた、自分と同じ人間であることに対する共感の能力です。》
《何が「私たち」の共同の意志なのかを、相互の議論と交渉を通じて一歩一歩確認していく作業が、デモクラシーの中核をなすはずです》
《〈私〉を排除した〈私たち〉にはグロテスクなものがありますが、〈私たち〉のない〈私〉は絶望にほかなりません。〈私〉から〈私たち〉へ、そのためのデモクラシーへの希望が、いま求められています》(P194)
引用ばかりで感想文としては落第の出来になってしまった。書き直そうとも思ったが、このままでいいと考え直した。
いまの、リアルな、身近な問題を捉えているゆえに、感想を述べるための俯瞰的視点がまだ得られていないのだ。従って、本書は、今後私が政治を考える上での指針の一つになるだろうし、学際的にある課題に取り組もうとする場合には、一つの柱にもなるはずだ。
まさに解釈よりも変革が必要な分野、なのである。
