安吾がエッセイの中でいわゆるチャタレイ裁判について取り上げていて、検察の手法をクリエーターの視座から辛辣に批判しており、ふと読みたくなった。チャタレイ裁判のことは知っていたし、映画も観たが、肝心の原作が手付かずだったのだ。
裁判で流布されてしまったセンセーショナルな事件性や、映画の印象から(子供のころ観たので)、もっと露骨な描写が続くのかと思いきや、そういった場面はそれほど多くない。それに現代のわれわれからすれば、司法当局が取り上げることのほうが意外である(当時からして既に心外な、表現の自由を侵す過剰干渉であると検察は批判されたわけだが)。
そして、私がもっと意外だったのが、この作品の観念的な部分だった。映画ではクリフォード卿との対比を際だたせるためか、男くさい単なる労働者階級のように演じられていた森番メラーズだが、作中では元陸軍中尉のインテリ風労働者として描かれ、その言動もひどく理屈っぽくて、一癖も二癖もある人物だ。
読んでいてその人物像が掴みがたく、混乱しそうにもなったが、著者の経歴を知って少し納得した。だいぶ著者の感情が入っているようなのである。
で、性的描写についてだが、猥褻だとか、いやらしいものではなく、変に醒めた即物的描写と、名文といいたくなる文学的表現とが交錯する。書き手の懐の深さと、性的描写へのこだわりを感じさせる。
上記2タイプの描写を引用してみよう。
《彼女は自分の手を彼の激しく動くからだの上に力なく置いていた。どんなに努めても、彼女の心は頭の上方から見下しているようであった。彼が腰で突いてくるのは滑稽に思われた。そして彼のペニスの、頂点に達して射精しようという強い願いは茶番のように見えた。そうだ、これが恋愛なのだ。この滑稽な尻の運動と貧弱な頼りない湿った小さなペニスの萎んでゆくのが。》
しかし同じ二人の行為も、場合によっては以下のように表現される。
《しかし侵入してきたものは、太初に世界を造った重たい原始的な優しさであり、安らぎの入って来るふしぎな感じ、秘密な安らぎであった。胸の中の恐怖は静まった。彼女の胸は安らぎの中に身を委せた。彼女はすべてを放棄した。すべてを、彼女のすべてを、なるがままにさせた。そして洪水の中に自己を失った。
彼女には自分が海のように思えた。起きあがって高まる暗い波、巨大な山となった波。そして暗黒のなかにいる彼女のすべてが揺れ始めた。(中略)彼女自身の波は、彼女をおき去りにして、さらに遠くさらに遠くうねって行き、遂に突然、全身の細胞の急所になにかが触れ、彼女は静かだが激しい痙攣をおこしはじめた。》
卑猥に描こうというのでなく、いかに表現し切れるか。言葉という場合によっては記号のようなものを駆使して、記号からは最果てにあることを描き究めようとする。ロレンスの、文学者としてのこだわりを強く感じた。
