昭和20年1月から同年4月まで、ビルマ・イラワジ河畔で戦われた日本軍対連合軍の闘いを描く。圧倒的な劣勢を、河川という自然障害で補おうという作戦であったことから、多くの教訓が得られるものと期待して読んだ。
なにしろ、この作戦において、防衛線の中央を担任したのはインパールから敗走した第15軍である。あの後、さらに組織的な戦闘をしなけらばならなかったとは知らなかった。本書はいう。
戦力の極度に低下した第15軍が、僅か3個師団をもって、東はモンロン山系から西はパコック南側にわたる約400キロの広正面で会戦を指導する場合、軍の戦力を補うものはイラワジ河の障害を措いて他に求め得ない。
しかし、いくら大河を障害に用い得たとしても、担任正面が広すぎた。
1個師団の防御正面数十キロ~百キロに及ぶ広さであっては、例え河岸に全兵員を一列に配備したとしても10~20m間隔になってしまう。
広正面の防御に最も必要なものの一つは、機動打撃力である。陣地は反撃の拠点として準備し、敵の攻撃衝力を止めるため、陣地による火力よりも、機動打撃を重視する防御方式(機動防御)に頼らざるを得ない状況の場合、敵に勝る機動力を持つこと、従ってその機動を昼間においても可能にするため航空優勢を保持することは重要なことである。
この当時、ビルマで使用可能な航空機は日本60機に対して連合軍1200機。航空優勢など望むべくもなかったし、日本軍の戦車は20両であってみれば、機動打撃など絵に描いた餅に過ぎなかった。
ではどうやって日本軍は4か月も持ちこたえたのか。
それは度重なる逆襲であり夜間の斬り込みだった。果敢ではあり、いつどこから攻めてくるかわからない恐怖感が連合軍を疲弊させもしたろうが、人命を尊重しない日本軍特有の戦法は当然戦死者を莫大なものにしていった。
沖縄やフィリピンの戦死者の多さはよく知られているが、ビルマにおけるその数(185,149人)もまた驚異的である。
本書は最後に、その戦訓を、各級指揮官のコメントを紹介しながら述べている。
「・・・この一見して無謀ともいうべき会戦ないし作戦計画は、方面軍としても、集団としても果たして勝算を見込んで、慎重にしかも真剣に、構想立案せられたものであろうか。・・・」
(前歩兵第60連隊長 松村大佐)
「この大敗北の根源は、主としてこの放漫非常識なイラワジ会戦計画に胚胎するといっても、必ずしも強弁とは断じ得ないと思う。」
(第18師団長 中中将)
「人的、物的戦力整わない淡い奇跡を希求する捨鉢的な危険極まる作戦であったと断じ得る。決して結果論ではない。」
(第15師団長 山本中将)
中には、もっと後退して緊縮した陣地を構成し、準備して戦うべきと上申した軍司令官もいたが、採用されなかったという。上層部は、勝利や人命などよりも、敵の進行を遅滞させることを優先させていたのだろう。沖縄を、本土防衛のための時間稼ぎとしたように。
“ジャワの極楽ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア”
インパール作戦後にも重ねられた悲劇的戦闘の経過を本書で通読し、なぜビルマが地獄と呼ばれたか、その一端を知ることができた。また、戦略の失敗を、戦術で取り返すことの不可能を、その血の教訓を、学ぶ機会となった。
