私が文芸雑誌を買ったり定期購読したりしていた時期に芥川賞を受賞した作品だけに、題名も著者の名もよく覚えている。だがおかしなことに内容についての印象がない。読んだかどうか、記憶も曖昧である。
当時、私は時代錯誤なほど保守的な視座から文学を捉えていた。私の所属していたグループ界隈が、そもそも『文學界』や『三田文学』あたりを指標とし、昔ながらの私小説を歓迎する雰囲気にあった。リニューアルした『文藝』を、それらが輩出しだした“J文学”を、本流が亜流を見下すふうに見下していた。そうした諸先輩方の筆鋒に、私はただ盲従していたに過ぎないのだが。
という色眼鏡で見ていたから、これも“J”であろうと早合点して読まなかったのかもしれない。偏見に読む目を曇らされ、流し読んで記憶に残らなかったということもありえる。
しかし読んでみると、意外に古くさい作りの小説で、それが身近さを感じさせ、私の偏見は消し飛んだ。文章もひっかかるような荒削りなところがあって、新人らしさが好印象だった(読んでいて快適ではなかったが)。この読みにくさも創られた“文体”なのだろうか。朗読してみれば、そのまずさに気づくはずなのだが。
出戻りの主人公は、鬱々と何かを抱えているらしいことを感じさせる。作り物にしては、泥臭い切実感があって、不自然な展開をもその切実さの延長で飲みこんでしまいそうになった。著者の経歴が反映された作品なのかもしれない。
老女の耄碌した言動に主人公の幻想がリンクしていき、ともにタンゴを踊るラストに、無理な飛躍を覚えはする。ただし、そう描かざるを得なかった生硬さみたいなものが、この作品を“文学”にしているのだと思った。
