また古本屋で未読の芥川賞作品を拾ってきた。『芥川賞』というネームバリューに踊らされるようで少し癪だが、砂浜で綺麗な石を探し歩くような楽しさがある。
7年くらい前の作品。表紙に『身の内に潜む「悪」を描き切った驚愕・衝撃の芥川賞受賞作』とある。こんな週刊誌チックな書き方をするから文春は好きになれない。大仰な紹介から推察するに、選考の仕方にも商業主義的な基準があるだろうことは否めない。期待すまいと諦めの気持ちで読み始めた。
案外、引き込まれた。《期待しない》というスタンスにしっくりするのだろう。即物的で、ズケズケとした文体は、凄んでいるのか偽悪なのか、あるいは素なのかわからないが、ともかくも読ませる筆力に満ちていた。“書く”ことに非常な握力を、しかも日常的に用いてきた人というイメージを著者に持った。
しかし堕ちていくことを対照化し、その意味に対応すべき、作中人物の発信点 が定まっていない。不鮮明である。つまり突飛である。
おそらくそこに、著者の特異性と、“失われた10年”の後にも漂流し続ける文学(でなければ思想?)の状況が表出しているのかもしれない。
そのひとつとして。表題作でも併録の『岬行』でも、作中人物は中年女に密かな憧れを抱いている。しかも母親との距離がやたらと近い。それらは意図された描写なのかわからないが、少なくとも言えるのは、近代文学が逃避や脱皮を願った何かを、この作品ではまったく度外視している。楽観すら感じる。言い換えれば『いいじゃねーか』とニヤニヤしている。それは絶望か希望か。私にはわからない。
その一方で『酷いことがしてみたくなる』。親に寄生するくせに墜ちている、そういう在り方についての社会性を描こうという、文学への媚びなのか。いまさら衝撃もクソもあるまい。
作中、女のイメージは絶えず『柴田女史』や『弥勒菩薩』へとブレる。本作のベクトルは《回帰》にあると見ていい。幼児性への回帰。残虐性もその一形態であろう。
そういったところに青天の霹靂があるのだとしたら、近代とはなんだったのかと、また問いたくもなる。と、私の思考もぐるっとまわって回帰したのだった。
