調べものの途中で知り、初めてこの著者の作品を手にした。表題作は大佛賞受賞作で、デビュー作『星条旗の聞こえない部屋』は野間文芸新人賞を受賞している。
そういう経歴の書き手なら、年々量産され、多くが忘れられていく。けれども、リービ英雄はアメリカ人であり、唯一のアメリカ人としての日本文学作家である。注目せざるを得ない。
いままでどうして知らなかったのか。アンテナの小ささに反省を新たにした(やはり月間の文芸誌を一冊くらい定期講読すべきかと思い直した)。あるいは名前を目にしても、芸人か何かだと思い込んで興味すら抱けなかったのかもしれない。
いったい、英語(米語)で育ってきた人が、どのように日本語を駆使するのか。しかも純文学を書き紡ぐことができるのかと興味深く感じた。それも、“9.11”について、あちら側の思考を日本文学の容れもので読めるのだ。
文体は丁寧で、オーソドックス。違和感なく、予備知識を与えられず読めば日本で生まれ育った日本人の文章だと思うだろう。
特異だとすれば、度々、語り手の心のなかで二つの言語が同時通訳され、翻訳され、あるいはそれが為し得ずに躓くところだろう。
そればかりか、語り手は、常に耳に入ってくる言語が何語であるかを聞き分けようとする。また、英語に囲まれた環境であるのに、場合によって日本語で思考している自分を見い出している。
つまり、作品中、常に語り手は言語に執着している。あるいは虜なっている。しかし、だからこそ『千々にくだけて』は類い稀な文学に昇華されたのだと思う。
トランジットのカナダで足止めされた語り手は、“9.11”に悲しみと非難を表明する張り紙や横断幕を目にする。
【噴水の上には、「ことばとアートで気持ちを表現しましょう」】
【何百もの「自己表現」の前でエドワードは立ちつくした。鮮やかすぎる色と単純すぎることばが次々と目に入った。見ているうちにエドワードはすこしずつ吐き気をもよおしてきた。】
“3.11”の経験から、稚拙な表現、常套句の激励にヘドが出る心理はわかる。しかしきっと、リービ英雄は、“ことば”で表現することに使命を感じたのではないか。越境者にしか書けぬことが、こういう場合にこそあったのだろうから。
言語は思考を生む。深く言語を理解すれば、思考も自ずと深くなるはずだ。リービ英雄はだから、複眼的に、抉り得る立ち位置にいる。語り手が惑っている以上に、読む側は惑わされる気がして、それがリービ英雄という純文学作家の味であり、もしかしたら本人も意図せぬ力なのかもしれない。
ワシントンに向かうことを「上京」と書いてみせ、アメリカ人を「ガイジン」と呼んでみたりする。これは著者のサービスだろうが、このように、常にリービ英雄は翻訳しながら、その差異を思考している。
病的なニコチン中毒が描かれているが、反射的な翻訳の苦悩を癒したいがためだろう。
幼少期から現在を逆照射する『国民のうた』は、著者の文学の核を知る上で興味深かった。デビュー作など、他の作品も探して読もうと思う。
