学生のころ訃報を新聞で目にし、初めてその名を知った。昭和19年に芥川賞を受け、その生き様を“最後の文士”とか“清貧”と称されていた、という記事が印象に残っていた。
しかし手にする機会がなかった。〈私小説〉や〈純文学〉を地でいく書き手ゆえだろう、“清貧”とは“製品”化を意図しないスタンスがもたらした尊称であり、結果、“製品”ばかり陳列する書店には並ばないのだ。商業主義に潰され忘れられていく中に、激しく琴線に触れる作品が埋もれているだろうことを思えば、私は未知の恋人を探すように古書店にこもることもあるのだ。そうして見つけた一冊が本書である。
表題作『摩周湖』は、いかにも私小説風の作り方で、そのオーソドックスさに、何故だか安心さえした。とはいえ、過不足ない描写が続いていくだけに、摩周湖に直面したときの心理描写は唐突過ぎて作品のバランスを崩しているように感じた。良くも悪くも文学青年的あるいは同人雑誌的で、事実に寄りかかり過ぎて作品化に成功できていないように思えた。いわば摩周湖との邂逅によって、あれこれがカタルシスされ、すっきりして東京に帰るという流れに、予定調和的な安易さを見てしまうのである。解説で摩周湖を初めて見たときの驚きを書いているが、著者が作品外でそんな説明を加えるべきではないだろうと思った。まるで書き足りずに補うみたいではないか。
『漁夫画家』も木田金次郎という画家との出会いを描く話。著者が文学開眼の書と呼ぶ有島武郎『生れ出づる悩み』に登場する画家である。
淡々とした文体に好感を持ちこそすれ、これも“事実”に寄りかかった、なんだかエッセイみたいな印象を受けてしまった。作品を形成する大前提に、〈私は○○を見た。○○に会った。すごい感動でしょう?〉というフィルターがかかっているようなのだ。
私小説を否定はしない。ただ今回読んだ『摩周湖』などは、私小説化せねばならぬ心の疼きが感じられなかった。少なくとも、それを読み取ってもらいたいという作品作りの姿勢は見えなかった。そもそもに、核となるべきモチーフが、片手間に捉えてみたような軽さしか備えてなかったのではないか。
細部の描写を味わうことに集中すべき作品だったのかもしれないが。
