ソ満国境における絶望的な戦闘が目前に迫って中巻は閉じられ、砲声によって下巻の幕は開く。
小銃分隊長として教え子たちを指揮する梶は、しかし絶望的な状況下でありながら、どこか生き生きとしている。兵営での古兵や下士官による非道な仕打ちよりは、絶望的であれ自己判断で行動できる環境のほうが、自由を求める内心は躍動しようとするのだろう。
新兵にとっては兵営よりも、きつい演習の方が過ごし良いというのは読んだことがある。皮肉な話、日本陸軍が場合によっては実力以上を発揮して戦ったのは、日常化した不条理な抑圧が一因かもしれぬ。
感想から逸れた。
ソ連軍の砲撃は極めて効果的である。日本軍に対する物理的威力もそうだが、関東軍やら大日本帝国やらへの信仰に対して、特に破壊力を示した。
本書において終盤のターニングポイントは下巻当初の猛烈な砲撃である。兵らは、玉音放送を待つまでもなく価値観の転覆を余儀なくされ、梶の態度も(こういって良ければ“人間の条件”に関する態度)、舵取りの変換を迫られていく。
その苛烈さの中で、新兵らの人間模様が描かれる。特に、中巻で梶と対立しがちだった軍国少年の新兵・寺田が、次第に梶を畏れ、敬うようになっていくのは、下巻における数少ない人間的な挿話だった。
読んでいて、常々、“人間の条件”とは何だろうと考えさせられた。上巻では、部下(中国人)に平手打ちしたことを気に病み、自らを責め続けた梶が、敗残兵となってからは生きるためにソ連兵を射殺する。そこに良心の呵責という躓きはない。
妻にいまいちど逢うため、自らの生活を取り戻すため、梶は生きようとし、有能な兵士として運命を切り開いていこうとする。結果的に、敗走する者らのリーダーになってしまい、望まぬ加害は続けられた。
“条件”は、条件次第なのか。とすれば、やはり人間は、戦争とか侵略という条件を全力で避けねばなるまい。
人間性を失わざるを得ない敗走劇を見ていて、そういう思いに帰着した。
と、シリアスな読み方をする一方で、梶たちの闘いは冒険、活劇の要素にも満ち
、毎朝の通勤電車は緊張感に充実し、著者の並々ならぬストーリーテーラーぶりに感心し通しだった。“人間の条件”というテーマには全くそぐわない復習劇も、読者のカタルシスを慮って挿入された活劇の一要素だったろうか。
しかし、もう家のすぐ近くまで来たと錯覚し、少しだけ眠るつもりで雪に埋もれていく梶を最後に見なければならないのは辛かった。
人知れず満州の荒野で死んでいった日本人は少なくないだろう。また、作中にも描かれる通り、虐殺された中国人も……。こうして、死んでいった人々を顧みることで、読者は気づく。本書が梶という個性を描きつつ、近代史の一部を俯瞰させてもいることを。私たちは、忘れてはなるまい。どのような犠牲が払われ戦争が終わったのか、平和が得られたのか、また隣国に怨恨を残したのかを。
抜き書きしたい一節は山ほどあったが、読むことに熱中して付箋を貼ったりできなかった。惜しいことをしたが、いずれ再読しよう。
