題名からして、某マンガ家の“戦争論”を意識したのだろうか。だとすれば一般向けに新書という発行の仕方にも納得がいく。マンガの“戦争論”を真に受けるような人々は、活字の本をそうそう読みはしないだろう。まして学術的なものになど手を伸ばすことはないだろう。著者や出版サイドは、そういった階層にも手が届くようなぎりぎりの妥協点として新書を選んだのかもしれない。新書に詰め込むには無理があるテーマであるから、そういう意図があるのかなと思った。
歴史哲学の探究、と紹介されている。確かに読んでいて形而上学的記述がよく目についた。それが良くも悪くも詩的表現に思えて、ある意味では突っ込まれどころは少なくないと感じた。
検証したり正当性を得るために凡例を列挙するスタイルがこの手の本にはそぐわないのだろうが、おそらくリベラルな良識派が某マンガ家の“戦争論”に突っ込みどころをゴマンと見つけ得るように、右翼的な立場から読めば、本書も同じくらいつつきどころがあるように思う。
とはいえ、本書の主旨は歴史をいかに捉えるか、歴史をいかに生きるか、歴史をいかに形成していくかにあるはずだ。特に琴線に触れるような部分はなかったが、以下は素通りできずにメモした一節である。
《記憶とは第一義的には経験したことであるが、それは経験しなかった人びとの集合的な空間で歴史化される。その空間に宿るものが、経験しなかった者たちの記憶である。たしかにヒロシマという名前は、次第に風化する。しかし風化された状態について認識することが、おそらく歴史の認識のための出発点である。》
私は出発点に立てているだろうか。たまに立ち止まって“歴史”の現在進行形を見つめてみようと思った。
