先日、堀辰雄を読んで連想したのは民喜の静かで美しい文体だった。常日頃からこういった作品を読んでいきたいと思った。まるで歯磨きをするように、習慣的に、枕頭に民喜や堀辰雄作品があったら、人生の色合いは違ってくるような気がする。考え方まで、熱にうなされるときのように、鋭敏で繊細で優しくなれるように思えた。
しかし、そんな私の甘い希望的観測とは裏腹に、民喜作品は壮絶かつ感傷的だった。このバランスは生来の才能だったのか。あるいは妻の死と原爆により無理やりに覚醒させられた虚構だったろうか。
わからない。しかし、ともかくわかるのは、その危うい詩的世界のガラス張りの脆さと優しさである。
