《なじみのものがきている。そこにきている。何度襲われても慣れることのできないものが顔をもたげかかっている。》
本作では始終ここにいう“なじみのもの”が語り手に粘り着いてくる。
それは飽食と惰眠がもたらすのか、あるいは飽食と惰眠は伴われた副産物なのか。
登場する人物は極端に少なく、直接語り手と接するのは再会した女ひとりだ。それ以外は過去を咀嚼し、省み、ベッドに張り付く自分をまるで個体カメラのようにして濃密な文体が綿々と続く。他人が出てこない。しかし視座を純化していけば、陥らざるを得ない状況のようにも感じる。
たとえば孤児だった女の生い立ちを“邪推”する語り手は、こういう思考回路に自らをはめていく。
《そう思うことが汚穢よりは切実、屈辱よりは悲壮と感じられたが、これは私が冬の運河わきの町工場のすみで寒さと憎しみにみちてふるえていた少年をいたわりたいがためからでているようであった。何万回めともしれないのだが、またしても私はあくまでも自身を介して他者に接近しようとしたのである。》
こういった根源的に突き詰める視座を保とうとするならば、崩壊は免れないのかもしれない。しかし、その窮迫感があってこそ生まれた文学なのだと思う。
最後に、女との生活を捨ててベトナムに再び発つのを決める場面は、その必然性が捉えがたいだけに、落差が激しいだけに、不可解さと裏腹な説得力に満ちている。
《明日の朝、十時だ。》
いよいよ次の『花終わる闇』に再び手を伸ばす。
