よい子の読書感想文 

読書感想文358

『花終る闇』(開高健 新潮文庫)

 闇三部作といっても、計画的に、それら三作が繋がっているわけではなかった。しつこく同一場面が回想されたり、記憶は秩序なく入り乱れがちだ。安易な読み物ではないのである。
 二十代のときとは全く違う読後感。受けた印象や刺さってきたものを感想という言葉に訳すことができそうにない。
 本書では『フサ』、『弓子』、『加奈子』と、三人の女が登場する。女らは語り手の想起や幻想の燃料に過ぎなかったのではないかとさえ思えてしまう。あるいは語り手を現実に引き戻す“もやい”としてか。
『輝ける闇』で“匂い”だけを見つめようとしたように、女たちとの情事は愛やら理解などを超えてその感触のみに意識が注入され、幼少期やベトナムでの日々が喚起される。
『夏の闇』で語り手と共にあった女はここで『加奈子』として登場し、再会の場面で本作は未完に終わる。
 開高健の死による未完であるというが、あの後にどんな構想があったろう。いずれにせよ書けなかったのではないかと思ってしまう。
 作中、小説の題についてのこんな言及がある。
《題はまぎれもなく作品そのもので、作者にとっては顔であり、遠い前方の山頂でもあるが、同時に巣でもある。》
 とすれば著者は『花終る闇』と書いて、何を、いかに終わらせようとしたのだろう。
 また続けてこうも述べている。
《題がブーメランのように感じられることもある。それは投手の手から飛んでいって獣に命中し、その地点へ獣といっしょに落ちるけれど、命中しなければ推力を更新して舞いもどる。うけそこねたら投手を獣として倒してしまうことがあるとされている。》
 自ら投げものに打ち倒されてしまったのか?
 否、自分の屁に蒸せて死ぬほどの虚弱なインテリではなかったはずだ。これら三部作がそれを証明している。
 自らをファクターにしてしか他者に接近し得ぬと書いた前作と比べると、微かに作風は変わっている。終わりを見据えてどこへ向かおうとしたのか。私が四十代になって再び読んだとき、今回見えなかったものがほの見えてくるだろうか。
 先に挙げた疑問はこう訂正したほうがいいかもしれない。何が、いかに終わるはずだったのか。

 併録の『一日』は、闇三部作のどこかに挿入されていそうな“一日”を淡々と描いている。それがひどく不条理に満ちた一日であるのに、筆遣いは静かで、恐怖さえ物憂く語られるように見える。
 小舟で過ごす少女との一夜が、恐怖や崩壊を遠景に押しやり、文体をも小舟の揺れるリズムのように優しくしたのだろうか。しかし再び探しにいったとき、小舟はもうなかった。
 無理に意味づけるでもなく、象徴化するでもなく、しかし行間に不思議な喚起力を持った短編である。

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