
ある書籍との出会いが、新たな邂逅をいざなう。これが良いスパイラルとなって繋がっていく。読書のもたらす味わい、楽しみの一つである。
数年前、『永続敗戦論』を読み、その繋がりで加藤典洋『敗戦後論』に出会った。文芸評論によって歴史を脱構築していくスタイルは、柄谷行人の本領とするところだが、加藤典洋の、もっと文学的な、いわばナイーブな表現は、私の琴線に触れるものだった。
その『敗戦後論』から20年。著者が改めて問う戦後論。読まない手はない。
とはいえ、その想像力はときに飛躍し、翻弄されるかのようでもあった。
“ゴジラは(戦後の日本国民の)米国の原水爆実験に対する恐怖、抗議の体現物として生まれたと言われている”
それは分かるが、著者は続けてこう書く。
“しかし、その理解は一面的にすぎるのではないか。それと同時に、第二次世界大戦の戦争の死者たちへの否定とうしろめたさのないまぜになった、錯綜する心理の客観的相関物でもあるのではないか。その意味でそれは、日本の戦後の敗者の想像力の典型的な所産の一つなのではないか”
わからなくはない。繰り返し日本へ上陸してくるゴジラは、南の島で玉砕した人々の霊でもあるという解釈。恐怖や抗議だけではない複雑さをもったモンスターなのであろう。
しかし、飛躍はときに読む側の想像力を引き離してしまう。
著者は宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』をも取り上げ、その中でこう指摘する。
“湯婆婆と銭婆の不思議な一体にも、「二人で一人」という言葉から、ついマッカーサー元帥と昭和天皇の会見時の写真を、思い出してしまう。”
ある視座から、一定の切り口から、執拗に何かを窺うことで、想像力は固められ強められ、創造性を纏っていくのだろう。
文芸評論はときとして創作の一形態ではないかと思わせる所以だが、この作品の想像力、“敗者の想像力”には、余人の容易な追従を許さないほどの飛躍が見られる。
考えるよすがとして、私たちは戦争からでなく、その想像力の産物に頼る他ないのであれば、著者は意図して無理な想像をも取り入れているのかもしれないが。
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