先日、芥川賞受賞作『自動起床装置』を読んで、著者の生い立ちや物書きとしての歩みに興味を抱いた。古本屋で幾つかを物色した。イラク戦争のときに、ブッシュと小泉を痛烈に批判していたものらしく、当時のエッセイ集も並んでいた。読んで痛快かもしれないが、過去に反吐する読書になりそうで、これは避けた。読んで上手く総括できれば良いが、振り上げた拳のやり場に困る読後感を残しそうだった。
記者として表彰され、小説で賞をもらって、次はNFで賞を取っている。ではこれにしようと手にしたのが講談社ノンフィクション賞・JTB紀行文学賞受賞の本書で、表紙の紹介には、
『噛み、しゃぶる音をたぐり、』
『残飯からチェルノブイリの放射能汚染スープまで、食って、食って、食いまくる。』
『人びととの「食」の交わりなしには果たしえなかった、ルポタージュの豊潤にして劇的な革命。』
とあり、単なる販売促進目的だけとは思えない迫力を感じさせた。芥川賞作を読んで、その併録作『迷い旅』が、良きガイドになってもいた。『迷い旅』の、カンボジアにおけるビビりで誠実な作中人物が記憶に新しい私は、紹介の文章に、リアルを感じ得たのである。
しかし、しかし、読み始めて早くも「おや」とひっかかった。ダッカで残飯を食べるのは表紙だけでなく付録の写真でも紹介されている。だが実際は残飯と知らずに少し摘み、「それは残飯なんだよ」と地元民に教えられて吐きそうになりお手上げ。著者の買った皿は全部近くにいた子どもが食べてしまうのである。
なんだ情けない。開口健なら「腐りかけがうまい」なんて言いながら食ったはずだぞ。まるで観光客じゃないか、「食って食って食いまくる」んじゃなかったのか? と私はちょっと呆れつつページを繰った。けれど読み進むにつれ、私が短絡的だったかと気づいた。
著者のスタンスは自然なのである。日常会話をするうちに自然と「食」の話題になる。時間の経過により、では食べていきなさいとなったりする。「食」を肩肘張らないスタンスで見つめていくうちに、本人がわざわざ切り込まずとも、その国や地域の問題、抱える悲惨は垣間見えてくる。こういう場合、必要なのは探検家みたいな視点ではなかったのだろう。綺麗好きで、危ないのが嫌で、そう、等身大の日本人として著者は旅し、食しているのである。
バングラデシュ、フィリピン、タイ、ベトナム、ドイツ、ポーランド、クロアチア、コソボ、オーストリア、ソマリア、エチオピア、ウガンダ、ロシア、ウクライナ、択捉島、韓国……
著者が旅した国々を再確認しようとページをぱらぱらめくっていて、脈絡もなく思い出したのは見沢知廉の『天皇ごっこ』だった。何も似てはいないが、あの作品は非日常の場面から“天皇”という共同幻想を照射していた。本書は“食う”という根源的日常を世界各地で見ることで、問題が炙り出されてくる。迂遠なようでいて極めて効果的な手法。そこに共通点を見て深く感心した次第である。
脇道にそれたが、著者は冒頭で自分の飽食に慣れた舌と胃袋が気にくわなくなったと書き、続けてこう述べている。
《私はある予兆を感じるともなく感じている。未来永劫不変とも思われた日本の飽食状況に浮かんでは消える、灰色の、まだ曖昧で小さな影。それが、いつか遠い先に、ひょっとしたら「飢渇」という、不吉な輪郭を取って黒ずみ広がっていくかもしれない予兆だ。》
と書いて旅立ったのが92年末。曖昧で小さな影というのは、年代的に経済が傾きだして現れたあれこれだろうか。湾岸戦争に兵隊を出さなかったという“反省”を名目にしたあれこれだろうか。
しかしその予兆は、この本が世に出て20年近く経った今、なんだか現実的な匂いさえ漂わせている。私はチェルノブイリにおける著者のルポを、今日のニュースみたいに読んでいた。
最後に著者は択捉島、そして韓国を訪れる。上手い構成だと思う。話がぐっと身近になる。ひりひりする歴史的経緯を持つ択捉や韓国で“もの食う人びと”と接する。ぐるっと世界をまわり、いま世知辛い故国に帰って来つつあるんだと感じる。直接に日本の食なんか描かないで、周縁を撫でるだけで、こんなにもひりひりと感じる。
元慰安婦の三人に会いにいく最終章。話を聞く著者は次のような感慨に浸る。
《私は金さんを半世紀前の記憶の古井戸に突き落としていた。私は落ちずに、井戸の底からの彼女の声を聞いている。引き上げる命綱も持ち合わせていないのに。》
双方警戒し合っていたのがだんだん打ち解け、最後は宴会の場面で本書は締められる。著者の自問自答が私には痛烈だった。
《この人たちの体内深くに巣くう「日本」とはいったいなんだったのか》
《何年たっても、殺そうとしても消えない、病巣のような「日本」とはなんだ》
著者の健筆を祈りつつ、さて最近のものもぜひ読みたい。
相対的貧困率が先進国ではトップクラスで、放射能汚染の進む我が国。一部では著者のいった予兆が現実化している。この本が書かれたころとは、だいぶ日本の“食う”事情は変わっている。『もの食う人びと』第二巻がいまこそ必要とされている気がする。
