よい子の読書感想文 

読書感想文362

『死霊』(埴谷雄高 集英社)

 埴谷雄高が亡くなった頃だったろうか、テレビの特集で『死霊』を扱った番組があったのを記憶している。以来、脳裏には常にあったが、手にとる機会がなかった。古本屋とか図書館で立ち読みまではしても、その難解さから後回しになっていた。いわば私にはサルトルの『嘔吐』みたいな作品なのであった。
 今回手にしたのは、高橋和巳を幾つか読みこんで辿った先に『死霊』があったからだ。たまたま文学全集の端本として¥100で見つけた。貧乏性なのか、こうなるとつい手が出てしまう。『埴谷雄高・堀田善衛集』という組み合わせも良かった。短編を少し読んだきりで、もっと読みたいなと思いつつ堀田善衛についてもそれきりになっていたからだ。ブックオフのせいで街の古本屋が減って迷惑な気もするが、こういう場合は現金に感謝してしまう(感想は著者別にアップする)。
 だけれど私の予備知識がなさすぎた。これを読めば長年のハードル、『死霊』をひとまずクリアかと勘違いしていた。この全集の発行は昭和43年。このとき『死霊』はまだ9章のうち4章までしか書かれていなかったのだ(しかも何故か本書には4章さえ載っていない)。
 全集に載せるなよ~とは私の勝手な泣き声だろう。5章は4半世紀の間隙の後、発表されたわけで、もう続きは出ないと思われていたのかもしれない。
 しかし、それにしても、難解である。サルトルの『嘔吐』より解らない。特に出所してすぐ各所に顔を出して論戦をふっかける(というか長大な演説をかます)首猛夫という男が、話をますますわからなくさせる。作中、二人の人間に「なにを企んでいる」と詰問されるわけだが、それは読者の心の声を代弁するみたいな詰問だ。きっと4章以降、この人物は重要な役割を果たすのだろうけど、このまま尻切れトンボだったら散々伏線を張りまくって何も回収しないでいるようなものだ。だからというべきか、この半端な状態で高い評価を得ていたというのが私にはわからない。ひどく内向的で議論好きで形而上学的な作中人物たち。自分の屁にむせるならまだ良いほうで、彼らはその屁に酔っているのではないかと感じた。そして屁の酔いをあたかも形而上学にまで高めていこうとする。
 虚体論とか自同律とか哲学的なテーマも内包して、全12章を計画した超絶哲学小説なわけだが、少なくともこの切れ端ではその意図や描きたいものは見えないし、味わうべきものも見いだせなかった。ただし一方的独白に終始して退屈極まりないかにみえる小説ながら、意外とページを繰る手が進んだのは、著者の描く人物たちの独白が、なかなか面白かったからというのは否定しない。
 悔しいので9章まで読んでみようと思うが、はたしていつ手にとるだろうか(今回は入院による時間的余裕と、非日常感が、この観念論づくし数百頁を読むに耐えさせた)。高橋和巳が深く感銘を受け影響を受けた作品というので手にしたが、3章まででは腑に落ちないだけの状態である。
 続きを読むならまた最初からじっくり読みたい。


名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「純文学」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事