60年代の未読著名作品から選んだ。柴田翔じたい、私は初めて手にした。こう未知の作家が多くては、胸を張って読書好きを称するのも考えものだ。
50年代の学生群像を描く。六全協というターニングポイントが作中で効果的に展開されているが、生硬さや高い知性と裏腹な性的放埒が、妙にあか抜けない表現で各所に散らばっており、ちょっと歯がゆい感じがした。作中人物同士の距離感がいまいちピンとこないのも、似たような弊害によるものと思う。
身勝手な恋愛で女を自殺させた語り手。六全協とともに挫折していく者、あるいは新左翼的知識人としてアカデミズムの中で成功していく者。教授と不倫する女子学生。その女子学生と見合いする研究室の助手。そうして、語り手の婚約者。
濃厚な物語が幾重にも連なるが、そのきっかけの捉え方が上手い。しかし最後に向かって、“われら”という群像を無理に概念化させていて、苦しい感じもした。
語り手の独白は唐突で、一方通行である。おかしいなと思っていたが、婚約者が結婚直前に失踪する顛末を見て、ひとつの伏線だったかと思えた。
青春群像を描くといえば、読み飽きたような話を連想しそうだが、戦後の、激しく価値観が転換していく時代、六全協に翻弄された世代、そういう要素が、彼らそれぞれに深刻な選択を迫る。
村上春樹『ノルウェイの森』はこの作品に少なからず示唆を受けたのものではないかと思った。政治の季節が過ぎ、趣味的人間の時代を描きながらリメイクしたら、この作品は『ノルウェイの森』みたいになってしまうだろう。
いいかえれば根底は変わらない。テーマは恥ずかしいくらい率直で生真面目で不器用だ。そいつを上手く読ませるのが、こういった書き手らの才能なのだろう。
併録の『ロクタル管の話』、著者の処女作だという。なかなか面白かった。柴田翔は、もともと理系の、ラジオマニアだったのだろう。作り物とは思えぬ説得力がある。そして、ラストの感慨にはドキリとさせられる。大人の嘘を、ハッと気づかせる。記憶は都合よく塗り替えられているかもしれないのだと。マニアックな展開がこのオチを光らせている。
