これも国語便覧からピックアップしたもの。日本近代文学史上、かなりメジャーな作品であるし、文庫本は店頭に並んでいた。手にしなかったのは何故だろうと、読み終えてから不可解な思いにとらわれた(それだけ好意的な読後感にいま浸っているのである)。
都会の喧騒から逃れて……というモチーフと、この題名。連想してしまうのは、田舎暮らしの不如意さだけでなく、田舎特有の粘っこい共同体的風潮に苛まれての“憂鬱”である。こんな安易な連想が私の読書欲を削いでいたならば、誠に惜しいことといわねばなるまい(今後、安直に作品のイメージを決めつけることのないよう留意したい)。
非常に生活感のない作風。しかし浮遊して現実味がないのとは違って、随所にリアルが散りばめられ、適度に浪漫主義的だ。
例えば情景の描写。散文詩を読むようで、それが場合により病的な執拗さに彩られ、けれど村人とのいざこざや、妻の言う台所事情などによって、はたと現実が滴り落ちる。計算されて紡がれた文章だとしたら、驚異といわねばならない。
佐藤春夫といえば詩を少し読んだくらいだった。反省、というより、本当に惜しいことをしたものだ、と思う。数百円、あるいは百円で、こうした珠玉ともいうべき作品が並んでいるのに、私は素通りしていたのか。という感慨を得て古書店を訪れると、手ぶらでは帰れないここ最近である。
それにしても本作は不思議な魅力に包まれている。親の金で生活していながら、高踏派的に余裕ぶった戯作臭さはないし、海外作品にリスペクトしたあからさまなパロディ臭もない。一見すると精神疾患を思わせる焦燥感に満ち、その熱病じみた雰囲気が詩情を豊かにもするが、こうして作品化されているところを見れば、憂鬱はすでに“憂鬱”となり、確かに壇一雄が解説でいうように、これは快復の文学だったのかもしれない。まったく古さを感じさせないのも、また驚きである。
気候の変動により作品の雰囲気、調子が急変する傾向があり、しかしそれが不自然でなく、あたかも交響曲を聴くかのようだった。
