久しぶりに読む。積ん読中の本はたくさんあるが、重いハードカバーばかりだから、通勤電車には持ち込みにくい。といって手ぶらで30分を過ごしたくはないから、ふと手を伸ばして本書をバッグに忍ばせた。
村上春樹作品を思い浮かべるとき、好きなものを挙げるとすれば、よくよく吟味もせず最初の三部作だと思っていた。エンタメっぽさが薄く、純度が高い(ような気がしていた)。とりわけ本作は、初めて読んだときの詩的な感銘を記憶していて、そのイメージが一人歩きしていたようだ。
と、久々に再読してがっかりとまではいかないにせよ、以前のような響きがなかったのはなぜだろう。
自問自答して、三つの要因が考えられるなとひとりごちた。
ひとつ。多くの春樹作品を読んできて(本作含め再読もあり)、その表現手法に食傷気味である。
ひとつ。米文学に影響された“バタ臭さ”という一部の評価を、『確かに』と実感してしまったこと。無国籍風に仕立てられた舞台設定も、なんだか妙だ。
ひとつ。感覚的、言い換えれば非論理的な作柄に感銘を受けにくいような、保守性を私が身につけてしまったかもしれない、ということ。
そういえば本人のエッセイで、初期作品は感覚的なもので、あの作風で続けていれば早晩に筆を折っただろうといったことを書いていた。とはいえ、すでに当時において、村上春樹作品の原形が出来上がっているのである。そういう発見が、かつて読んだときの瑞々しい印象を薄れさせたのかもしれない。
読むのは今回で三回目か四回目だ。
