『正論』等で威勢のいいことを宣っている老人、というイメージしかなく、全く興味を持てなかった。
その一方、尊敬する上司が好きな物書きとして渡部昇一を挙げていて、先入観を捨てて読んでみねばなるまいなとは思っていた。
先日、新聞で訃報を目にし、たまたま数日後、早稲田通りの古書店巡りで本書を見つけた。
読書には、人との出会いや、タイミングが関わってくるから奥深いものだなと思う。
英語の学者として名高い著者だが、かつて小説家だった石原某や曽野某のような、保守派の論客という一面もある。初めて手した著書が、そういった歴史のつまみ食いシリーズでなかったのは幸いだった(歴史というのは文学的なフィルターに左右されてしまうものであり、右の論客も左の論客も、知ってか知らずか“つまみ食い”しているものだと私は考えている)。
それにしても、本書を読んで良かったと思っている。かつての上司が、好きな書き手として挙げていたのも納得できた。
誠実に“知”に向き合おうという指南の書である。要すれば、知ったかぶりすることなく、ズルをしようとせず、愚直に、「知的正直」を通そうというのだ。その前提が、まず本書を読もうとする者を、「そうか」と素直にさせる。
たとえば漱石の『吾輩は猫である』。読書家を自認する者なら、高校生くらいで読むだろう。ませガキなら中学生のうちに読んでいるかもしれぬ。しかし、取っつきやすいように見える『吾輩は猫である』は、そんなガキにわかる話ではないはずなのだと著者はいう。理由を読み、それもそうだと反省をした。知ったかぶりして、卒業したつもりになった本は他にも多数ありそうだ。
しかも著者は繰り返し読むことを推奨する。
【筋を知っているのにさらに繰りかえして読むということであるから、注意が内容の細かい所、おもしろい叙述の仕方にだんだん及んでゆくということになるであろう。これはおそらく読書の質を高めるための必須の条件と言ってもよいと思う】
再読の度に違った感想を抱くことを、読書の醍醐味の一つであろうかと思っていた私としては、有難い指摘である。
【文体の質とか、文章に現れたものの背後にある理念のようなものを感じ取れるようになるには、どうしても再読・三読・四読・五読・六読しなければならないと思う。何かを感じとるためには反覆によるセンスの錬磨しかないらしいのである。】
なるほど。ということは、くだらぬものを多読するよりは、良いものを繰り返し読んだほうがいいのだろう。
近年、気に入ったものを繰り返して読むことで、新たな開拓が阻害されているのではと危惧することがあったが、自信を持って“四読”“五読”していこうと思えた。
と、他にも言及したい“知的生活”の指南は多々あったが、それは割愛して、やや気に障った部分には触れておこう。
全体的にいって、想定外に面白く、勉強になる指南書だった。それだけに、ときおり垣間見せる蒙昧さ、頑迷さが気になった。朝型人間は高血圧だという決めつけや、知的生活に合う酒はワインだけだという、検証もない受け売り、さらに私有財産を否定する共産主義は蔵書も持てないという風聞やイメージに染められて疑わない蒙昧さ。
肯定する資料、否定する資料、様々を比較・検証して論理的に述べることを学者として重々知った上でそれをしないのは、所詮は新書や専門外の雑誌に書く文芸的なもの、と軽視していたのだろうか。
それを政治的に利用する輩がいて、鵜呑みにする消費者だっているのだから、無責任なことは書いてほしくなかったなと思う。
本書にケチをつけるべき部分はほとんどなかったが、雑誌等に、威勢のいいことを書き散らしていた頑迷さの一端は見えてしまった。自身の影響力を顧みながら発言してほしかった。複雑な読後感ではある。
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