芥川賞受賞作を検索して、この著者の『沖で待つ』に興味を持った。アマゾンでカートに入れた。このカートが一種の積ん読置き場として便利なのである。
しかし一年も二年も積みっぱなしになる本もあって、『沖で待つ』もそうなっていた。ブックオフの¥100コーナーで目にとまったが、それより処女作の本書を読みたいと思った。隣にあったのである。
表題作は文学界新人賞を受けて初めて世に出た作品。私の偏見かもしれないが、デビュー作には著者の作家としての資質や思想が凝縮され、あるいは書かねばならなかったもの書かざるを得なかったものが粘着している。その不完全さ切実さがいいのである。
それとは違って、賞を狙い、技術的に書いたようなものにも出くわす。まあそれもひとつの才能なんだろう。
非常に軽いなと思う。感動も悲しみも。それがエンタメ的にいう軽さなのではなく、深刻に軽いのだから厄介だ。
『お互いの距離を計りあって苦しいコミュニケーションをするより寝てしまった方が自然だし楽なのだ。』と言って誰とでもしてしまう“私”は、しかしそうすることで孤独を招き、
『私はクーリングオフされた通信販売の商品だった』と独りごちる。
その感覚はわかる気がする。ひりひりするほどわかる気がする。しかし、“気がする”だけなのだ。深刻な軽さも、中盤から引力を失い、耳ざわりのいいような、ちょっともの悲しげなBGMみたいに話は終わる。全てはムダ話さと。
小道具の使い方が村上春樹みたいで、思えば全般にその影響が感じられる。習作くささはないが、処女作に私が惹かれる、その要素もなかった。
併録の『第七障害』は、やや作風を異にしている。解説者が、“働く女共感もの”をA、“精神的に破綻した人たちがいっぱい出てくるもの”をBと分類しているが、『イッツ・オンリー・トーク』がBならこちらはAだろうか。
馬術の障害走に材を得て、第七障害で転倒し馬を死なせてしまった女が主人公である。第七障害を比喩的にも作中で使っている。そのへんは巧みだなと思う。
大切なものの喪失と、その乗り越えと、新たな始まりを示唆する、ありふれたような話題であるが、通俗的に語られる“失われた十年”を散文化して文学へと昇華しようとするなら、こうした体裁がベースにならざるを得ないのだろうか。
村上春樹みたいなスタイルと吉本ばなな的な文体、という読み方をしてしまった。書くほうも読むほうも、時代性や先行する流行作家の範疇に呪縛されてしまっては悲しい。もっとクリアな目で読みたい。
余計な雑念が入るくらい、軽すぎた作風だったのかもしれないが。
