再読したくて単身赴任先にまで持ってきた。初めて読んだときの既視感は今回どう変わっているだろうかと、頁をくった。 『木の葉落とし』
『折れた八月』
『夏の形見』
収録された三編は、幼年学校入校前、幼年学校、復員した広島と、時系列に連なる。
わずか一年に満たないうちに、15歳の少年が体験した強烈過ぎるあれこれ。それが過不足なく描かれている。
この作品からかつての得た“既視感”は、今回冷たく突き放されたように思う。勝手に自らを重ね合わせようとしていた私の甘さが露呈した、と言い換えてもいい。
著者の厳しさは自らへの厳しさであるとともに、甘えるような感情移入をも許容しないものだった。それが今回の読後感である。
内的な衝迫を、抑制し、吟味し、点検し、いじめ抜き、ようやく濾過されてきたような短編なのである。かなわないと思った。
はたして私にそこまで執着する内的衝迫があるだろうか。生きていくためにも書かねばならないなにものかが、あるだろうか。既視感以前だと、私は反省せざるを得ない。
ただし、突き放されて読んで、見えることもあった。
『木の葉落とし』に至った少年を育んだものは何か。著者ならば安易に時代のせいにはしないだろうが、作品中にそういった背景は描かれない。
また、少年らしからぬ残酷かつスレたもの言いが散見され、後付けの不自然さ、あるいは醗酵しすぎて旬を逸した感じを持った。その辺りに関しては、デビュー作『楽園追放』を再び読んで比較してみたいと思う。
