ドラマ化されたりして話題になった作品だが、それより某地方誌で作品論が過熱し、喧嘩別れみたいになった人までいて、それを外野で見ていた私は、いずれ読んでみようと思っていたのだった。
『悪人』はエンタメっぽい小説なのだが、その地方誌はガチの純文学集団であって、彼らが論戦を戦わすほどだから、なかなか読み応えある小説なのだろうと私は思っていた。
話題になって売れた本の宿命か、百円コーナーでよく目にする。今回私が入手したのは更に安い上下巻セットの百円。早稲田通りの軒先宝探しで高橋和巳作品集と一緒に見つけた。
どこか優れている小説、とは思えなかったが、眠いはずの通勤電車で、もの凄い集中力を引き出してくれたのは確かだ。
要因ははっきりとわかる。
確かな文体。元来からのエンタメ作家ではない。その骨格は厳しい文章修養を経て鍛え上げられたものだろう。読んでいてストレスがなかった。無駄がないのだ。
事件を解明していくような構成。けっしてサスペンス的な作品ではないのだが、ひとつのことを多角的に読ませるには適した手法だ。また、読者を飽きさせず引っ張っていくのにも貢献している。ありがちな供述の挿入も目障りにならなかったのは、構成の良さもさることながら、前述した文体の綺麗さにもよるだろう。
身近さ。作中人物たちが、おそらく私と同年代なのであろう。時代を、それに伴うツールや、雰囲気を共有している。職業も、土木作業員だったり紳士服の販売員や保険の外交員であり、身近だ。読んでいて、彼らを取り巻く空気感が手にとるように感じられた。
お金も学歴も、これといって秀でた特技もなく、華々しい恋愛にも縁のない、ロストジェネレーションらにとっての青春が、ここに描かれていた。作品の善し悪し以前に、私はこのことに引き込まれて読んだのかもしれない。
さて例の地方誌での論争は、祐一を“悪人”と断ずる爺さんと、それを批判する多数派とのやりとりだったと記憶している。爺さんは、金髪で、女遊びをする祐一を端から否定的に評価していた。私は『悪人』を読まずにその論争を見ていたので門外漢だったが、祐一がスカイラインを改造して車高を低くしていることを取り上げて、爺さんは“暴走族”と決めてかかっていた。噴飯ものだと私は思った。祐一がじゃなく、爺さんの偏見と無知が。
私もかつて“走り屋”だったから、その決めつけの迷惑さは身に覚えがある。わかりもしないでレッテルを貼りやがって、と。・・・そもそも、そんなレッテル貼りをするような人間に、文学を論じられるわけがなかったのだと思う。
これはジェネレーションギャップなのか。否々、あの爺さんの一方的な言い分を批判し、『悪人』を高く評価した他の幾人かも、確かに老人であった。
ところで、中心人物のはずの祐一や光代の人物がいまいち見えてこなかったのは、作者の意図したことか。それぞれが、それぞれのイメージを投影させれば良い、ということか。映像化される際にも、原作としてそのほうが便利ではあるだろう。私にはやや物足りなかったが。
いずれ著者のデビュー作や、芥川賞受賞作も読んでみるつもりである。
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