web上に溢れる無神経な日本語によって、目が曇っていくような疲弊感がある。
心を洗いに深山へ踏み入るように、良い文章に接するため、7年ぶりで本書を手にした。
こんなものだったか? とガッカリさせられることはない。近代日本文学の極致といっていい本書は、あたかも金閣寺がいつでも京都鹿苑寺に鎮座しているごとくに、輝き続けている。
語り手は吃音によって、少年期から「自分はひそかに選ばれた者」だと感じている。引け目の裏返しの誇りが、彼の中に悪への志向を育むわけだが、これは『仮面の告白』の別バージョンといっていいのかもしれない。
或いは金閣とは、三島由紀夫にとっての天皇や国体を仮託したものだったか。
まるで文学作品のような人生を辿ってみせた三島由紀夫は、金閣寺に火を放った学僧のように、市ヶ谷で決起を図り、自裁し果てた。
全てを、結果論的に見てしまわざるを得ない後年の読者は、そのことを踏まえて『金閣寺』を読んでしまう。作中人物と、書き手の生き様とを、割り切って読むのは難しい。
しかし、この作品のクライマックスで、金閣を焼いた学僧は「生きよう」と思うに至る。7年前に読んだとき、私は『金閣寺』の緻密な構成が、最後の一節にストンと落ちるために組み立てられたものと感じた。
一見、彼は前を向き、巣立ちのときを迎えたかに見えた。煙草を吸って、一仕事終えた人のように・・・彼は、ようやく日常へとたどり着いたのだ、と。
この部分だけ、今回の読後感は異なった。成長譚ではないのだ。あたかも、親を殺めて初めて生き始めた人のように、彼の放火は、自裁に等しいものだったのであろう。
理解できない事件を、「狂気」とか、「心の闇」などという他称により単純化して安心している阿呆面に、平手打ちをいただくような読書となった。
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