こちらも再読、8年ぶりである。
ここ最近、通勤電車用に、書棚から既読本を取り出すことが多いが、本書に関しては前々から再読の要を認めていた。上巻を読んだきりになっていたので、続編を読む前に最初から通読し直そうと思っていたのだ。
読書欲をそそられず、次に手が伸びなかったのではない(おそらく古本でも岩波現代文庫版は相場が高かったのと、頁数の手軽ではないことが躊躇の一因)。だが、日が経つにつれ、次を読みたい気持ちは薄れていき、上巻の内容をほとんど忘れてしまったころには、『再読の手が伸びなかったのは、あまり面白くなかったからだ』という誤認まで無意識下でしていたかもしれない。
それが誤解だったと気づいたのは、本ブログに8年前アップした自分の感想文を読んでである。記憶の頼りなさと、記録の大切さを痛感した次第だ。
前置きが長くなった。感想を。
結論からいって、以前読んだときよりも、切実さ深刻さが際立って感じられた。それは私の変化がそうさせているのだろう。文学は受け手のフィルター、その状態によってインプットが変幻自在する。
初めて読んだときは、まだ結婚したばかりで、職場での地位も低かった。いまは公私ともに責任が増えている。本書の主人公・梶のように、理想を抱えながら、それとは裏腹な立場に在る。家庭の幸福を隠れ蓑に、かつて憎んだものに自分がなりつつある。
これは高橋和巳が追ったテーマでもあった。切実である。自らの欺瞞を、呵責し、苦悩し、ぎりぎりのところで、梶は立ち上がった。中巻では入営しての軍隊生活が描かれる。彼がどのように、闘うのか、期待しているが、心の隅では、目を背けたがっている自分もいる。
矛盾を直視する梶の闘いを、安全なところから、誤魔化しを直視せぬまま鑑賞する自分の醜悪さに気づいているのだ。
ある許容できない事象に接したとして、『心を痛めている』こと、これは『許容すべきことではない』と認識すること、それら自閉的な一人合点をもって免罪符としている、かつての理想主義者、それが現在の私だ。
と、本書において、梶や中国人捕虜・王が、私に迫るのだ・・・
