20年ぶりの再読となる。
私が中上健次作品を初めて手にしたのは19歳くらいだったが、当時は方言で綿々と語られる土着的な話に親しみが持てず、何が良いのかわからなかった。
それでも、純文学としての評価の高さや、ポストモダンの論者による好意的な批評を知っていたので、首を傾げながらも何冊かを読み、初めて好きになれた作品が『岬』だった。
そういうわけで印象深く、常々「また読みたい」と思っていた。しかし本棚を探すと見当たらない。絶版のもの以外をあらかた手放した23歳のときの引っ越しで、オサラバしていたらしい。私は古書チェーンの¥100コーナーで本書を再び手にした。まるで質屋で預けたものを取り戻すみたいに。
本書は、表題作のほか、
『黄金比の朝』
『火宅』
『浄徳寺ツアー』
を収録する。『岬』は最後だ。初出一覧を見る限り、発表順なのだろうが、今回通読してみて、この順が若い私を上手く『岬』の世界観に誘ったのかもしれないと思った。
というのも『黄金比の朝』は、アルバイトに明け暮れながらの予備校生活を描き、そのモラトリアムな雰囲気が、20歳過ぎの私のそれを見るようだったのだ。中上健次作品の、粘りつくような土着的作風が苦手だった私を、『黄金比の朝』は良い意味で裏切り、本短編集を読む姿勢を切り換えさせたのではなかったか。
そして、41歳の家族持ちの私が読む今回は、『火宅』と『浄徳寺ツアー』が前座の役目を果たした。説明のような描写はいっさいせず、潔いほど短い一節が投げつけられて連なる。詩を読んでいる錯覚を与える。何故かわからないが、この文体で語られる破壊と性の衝動は、読んでいて説得力がある。
満を持して『岬』を紐解くことになる。
今回気づいたのは、主人公・秋幸のフレキシブルな存在である。三人称小説ながらも、秋幸はほとんど語り手のような立ち位置に徹して、物語を映す役割しか果たさない。たまに感慨のようなものを抱くが、人物が描かれない。彼が初めて意思をもって動きだすのは、ラストの場面に至ってからだ。20年前と感じ方は微妙に違うかもしれないが、そこでは心を掴まれた。血に抗うことが、優しさと狂暴さを併せ持ったまま表現されていく。
フレキシブルな存在として敢えて座標軸となることで、読むものの内面を投影させ感情移入し易い作風となったのか。だとすれば、若い私がこの作品を気に入った理由もわかる気がする。
後記で中上健次はこう書いている。
吹きこぼれるように、物を書きたい。いや、在りたい。
その噴出は、いまだに冷めていない。
代表的な作品は、遠くないうち読み返してみたい。
