なはの雑多ブログ

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幻のドラえもん??

2020-10-08 16:23:31 | 解説集

今現在、ドラえもんと言えば、テレビ朝日で夜に放送されているアニメを真っ先に思い浮かべると思います。
40年以上も放送されていて、日本人でわからない人はいない程に説明不要で誰でもわかる国民的アニメ、、、ですよね?


しかし、、実はこれに遡ること6年前の1973年に全く別のドラえもんのアニメがあったのです!!

どんなのかと言いますと、

・ドラえもんの声がバカボンのパパから悟空に放送途中で変わる
・ドラえもんがのび太を呼び捨て
・しずかちゃんがジャイアンをそのままジャイアンと呼ぶ
・ガチャ子って聞いたことないキャラが出てくる
・後の大山のぶ代のドラえもんでスネ夫役の人がジャイアンの声
・ドラえもんとのび太のドタバタギャグ
・日テレで放送された
・タケコプターをヘリトンボと呼ぶ
・ひみつ道具を秘密兵器と呼ぶ


もう聞いてるだけで訳わからなくなると思います、、


まあ詳しいことはwikiの項目や当時のスタッフの方のサイト、にあるのでそちらを見るとわかると思いますが、、

1973年、僅か半年だけ日本テレビにてドラえもんのアニメが放送されていました。俗にこれを日テレ版ドラえもんと言います。以下、今のテレビ朝日のドラえもんを全体での総称をテレ朝版・声優交代前を大山のぶ代版・現在放送しているバージョンを水田わさび版と言います。
制作していたのは日本テレビ動画という会社で今現在制作しているシンエイ動画ではありません。

*追記
続編でその2も書いてみました。こちらも合わせてご覧ください。


・前史
この日本テレビ動画という会社がかなり曰く付きの会社で、波乱万丈の歴史を辿っています。
元々、国映という2021年現在でも存在するピンク映画(エロい映画)専門の会社のテレビ・アニメ部門の子会社の日本放送映画として1965年に設立…といういきなりちょっと怪しいスタートとなっていますが…これにはこんな経緯があります。

60年代前半、フジテレビの鉄腕アトムを皮切りにテレ朝の狼少年ケン(ただし当時の社名はテレビ朝日ではなくNETテレビ)など国産アニメブームとなり様々なアニメが放送されました。今現在に続くアニメの国・日本の原点はまさにここと言っても良いでしょう。
しかし日テレは「そんなのより昔から知名度も高く安定したデ○ズニー作品を放送する方がいい」と国産アニメには消極的でした。テレビ放送の黎明期はまだ日本に番組制作能力があまり無かったことからソフト不足であったため、海外のドラマやアニメをそのまま放送することが多かったのですが、他局が国産の作品を放送しても日テレはまだ海外作品の輸入に頼っていたのです。

ですが国産アニメブームは留まることを知らず、日テレは遅れをとります。東京オリンピックの1964年頃になると主要なアニメ制作会社は他局に契約を取られており日テレが入る余地がありませんでした。
そこに手を挙げたのが新興だったこの日本放送映画だったのです。

1965年にこの日本放送映画のアニメ第一作であり日テレ初の本格的な国産アニメでもある戦え!オスパーというアニメがスタートしました。ちなみにこのアニメの映像ははOP以外残っていないと言われています。
しかし中心人物だった新倉雅美が社内で対立したことで東京テレビ動画という別会社を立ち上げアニメ部門は国映から独立します。
引き続き日テレのアニメをほぼ独占して制作していたのですが、1971年に日テレと東京テレビ動画の間で、日テレのプロデューサーが新倉雅美に賄賂を渡していたことが発覚して干されてしまいここでピンチが訪れます。

ここで再起を計り、社運をかけてアニメ映画を制作したのですが…
これが赤字に次ぐ大赤字で東京テレビ動画は倒産しました……

この映画がヤスジのポルノラマ やっちまえ!!というHでヤバい映画でこんなのに社運をかけたらそりゃ倒産するわという程の酷い出来だったようです…この後には性蝕記というこれまたHでヤバい映画を作る予定でエロ路線で行くようだったようです…これは中止になりましたが…

・日本テレビ動画について
しかしそれでも新倉雅美は懲りずに立ち上げたのが今回の日テレ版ドラえもんを制作した日本テレビ動画でした。日本テレビ動画という名称ではあるものの日テレを干されたためか資本関係は無く日本テレビ+動画ではなく日本+テレビ動画という意味の社名だったようです。

そのためか日テレではなくTBSと契約を結び、1972年に「アニメドキュメント ミュンヘンへの道」「モンシェリCoCo」というアニメを制作しました。
ミュンヘンへの道は当時のミュンヘンオリンピックでのバレーボール日本代表を描いたもので実写とアニメを合わせたものだったようです。モンシェリCoCoは少女漫画が原作のアニメで、フランス人の父と日本人の母の間に生まれたハーフの子が恋を描くものだったと言われています。

そしてTBSでの実績が認められたのか、日テレに復帰を果たして制作したのがこの日テレ版ドラえもんだったのです。

なお、この日本テレビ動画・日テレ版ドラえもんを語る上で欠かせない人物がいます、真佐美ジュンさんという方で元々は旧虫プロダクション・手塚プロダクションというプロダクションで手塚治虫先生の部下を勤めていた方でしたが、社内での著作権とロイヤルティーをめぐるトラブルがきっかけで日本テレビ動画に移籍し、この日テレ版ドラえもんを最後にアニメ業界から引退したとのことです。
現在は手塚治虫先生や日テレ版ドラえもんにまつわる講演活動などを行っています。またリンクは載せられませんがホームページを立ち上げて当時の資料を公開しています。

・アニメ化の経緯
今でこそドラえもんは国民的に有名ですが、当時は小学館の学年誌に連載されて3年程度という漫画でしかなく知名度も低いものでした。当時の新聞などにはスーパーロボットなどと書かれて紹介されているものもあり、知名度の低さがうかがえます。
(余談ですが、日テレ版放映後の1974年からてんとう虫コミックスの単行本が刊行されるとこれが予想以上の大ヒットとなり、連載媒体の学年誌以外にも読者層が広がりました。1977年にはコロコロコミックが創刊されて、ドラえもんが多数収録されるようになりこの知名度上昇の流れによってテレ朝での再アニメ化に繋がった訳です。)
しかし同じ藤子先生によるオバケのQ太郎がヒットしたことで、藤子作品のアニメ化する機運が高まっていたからアニメ化されたとも言われており、1972年初頭にはアニメ化の企画があったそうです。
当時の小学館の編集長だった井川浩は、日本テレビ動画が制作するテレビアニメの原作を推薦するよう日テレのプロデューサーから頼まれて「ドラえもん」と「かあさん星」(谷ゆき子作)を推薦したそうです。

また「少年次郎長三国志」という、硬派任侠物の作品のアニメ化をしようかと新倉雅美は考えていたそうですが、諸事情あって失敗し、代わりに浮上したのがコレだったという話もあります。
さらに元々は別の番組で決まっていたのを急遽変更してねじ込んだという噂もあったそうで、放送開始3か月前に急遽決定したため、その1973年の1月には既にパイロットフィルムが完成しています。このため告知もこの時期に行われました。放送開始前に都内の幼稚園でドラえもんの予告フィルムの上映会を開催したりもしていたそうです。


・フジテレビ版ドラえもん???
実はドラえもんのアニメ化の企画は同じ時期に全く無関係ながらもう一つありました。原作を同じとしながら全く別のアニメ計画があったのです。企画のみで終わりましたが当時の企画書は現存しています。
快傑ライオン丸(大洋の助っ人、シピンのあだ名の由来)で有名なピー・プロダクションによるもので、当時のフジテレビでの新番組の放送枠獲得を狙ったものだったそうです。
ドラえもん役を演じる予定だったのは何と、後のテレ朝版のドラえもんでお馴染みの大山のぶ代さんだったのです!

ただし、内容がだいぶ改変されていて、
「或る日、のび太くん(小学生二年生位)の机の抽出しから、突然可笑しなドラねこが出現した。これこそ未来の国(宇宙)からやって来た宇宙ロボットである。やがて、のび太くん一家の家族の一員となって人間社会の生活の中で、日常まき起す面白い事件がこの物語の構成。
そして、ここに登場する「ドラえもん」こそ、キャラクター・ネーミング共に抜群の主人公である。」
とのことらしく、まずドラえもんが宇宙ロボットという時点で全然違っているのが分かります…あとそもそも主人公ではない…

また実写でやるとも言われていたようで、ぬいぐるみの原形まで作られていたそうです。実写のドラえもんと言えば近年でもトヨタのCMとかでありましたが昭和という時代を考えると全く違うものだったでしょう…

もしこのアニメ化企画が実現していたら…と考えるのも面白いですね。日本テレビ動画とは異なり一応今でも現存している会社なので封印されることなく続いていたかもしれません、そうなるとお台場のフジテレビには今の六本木のテレ朝のようにドラえもんが沢山いたかもですね(この当時は新宿の外れにありましたが)。
ただこれだけ改変されたことを考えると日テレ版のように原作者が否定して封印された可能性も無くはないですが…

・東京ムービー版ドラえもん?
3つ目のアニメ化企画…と言えなくもないですが、これは企画すら立ち上がっておらず、あくまで当時の関係者による推測でしかない話なのですが、日本テレビ動画がドラえもんの企画を立ち上げなかった場合は、それまで怪物くんやオバQなど数多くの藤子先生の作品を手掛けていた東京ムービー(現:トムスエンタテインメント)が「新・オバケのQ太郎」の後番組として製作する可能性があったそうです。

と言いますのも、この日テレ版ドラえもんより前の藤子先生の作品のアニメは全てこの東京ムービー制作だったためです。そうなるとたまたまドラえもんは不運の作品だった…と言えなくもないですが…

もしこのアニメ化企画が実現していたら…現在まで断続的にアニメが続く作品にはなっていた可能性は低いものの、やはり藤子先生の作品を多数手掛けてきた実績のある会社なので封印作品になることはあり得なかったでしょう。事実、この日テレ版ドラえもんでのトラブルからアニメ化の権利は東京ムービーに託されていたそうですが、テレ朝版を制作しているシンエイ動画は元々この東京ムービーの下請けだったからこそ再アニメ化することが出来たのです。


・放送内容
放送していたのは日曜の19:00から30分、現在は鉄腕ダッシュが放送されている時間帯にあたります。
当時裏番組(フジテレビ)にマジンガーZがあったために苦戦するも、声優交代やマジンガーZより高い年齢層を狙うなどしてテコ入れしたこともあり安定した視聴率を誇っていました。
日テレとしても元々この時間は視聴率で長年苦戦していた時間帯、いわゆる死に枠だったので最初から4〜5%取れればいいという話で始まっており多めに見ていたようです。そのため元々2クールの予定だったのが、日テレ側によってさらなる延長を打診された程で、実際に日テレの保養所に日本テレビ動画のスタッフが招かれたそうです。

当初ドラえもんの声は先日亡くなられたバカボンのパパ役で有名な富田耕生さんで、その後に演じた声優さんが女性であることを考えるとかなり意外ですが、当初ドラえもんに対して世話好きのオッサンというイメージで考えていたからだそうです。
東京の下町が舞台の渋い下町人情路線だったそうで、それに似合った非常におっとりとした哀愁漂う親父臭い性格に設定されていました。

その後テコ入れの際にドラゴンボールの悟空役で有名なあの野沢雅子さんに交代します。悟空や鉄郎に代表されるように陽気な少年役が多い声優さんですが、ドラえもんも例外ではなく活発的で短期な性格になっていたそうです。そして渋い下町人情路線から原作の初期に近いドタバタギャグ路線に変更されていきました。

またひみつ道具と呼ばずに秘密兵器と呼んだり(戦闘アニメみたい…)、タケコプターをヘリトンボと呼んだり(一応原作の初期もそうだった)、どこでもドアをミラクル扉と呼んだり、だいぶ設定が違うことがわかります。野沢雅子さんが演じていた時代にはドタバタギャグ路線だったために、この秘密兵器を出すもののドタバタ劇で失敗に終わるといった話も多かったようです。

全26話存在しましたが、当時は原作がまだ連載されて数年でストックが少なかったため、このテコ入れした辺りからはオリジナルの話が増えていきましたが、これは藤子先生の公認だったそうです。
そのため、キャラクター紹介で後述するガチャ子を始め、後のアニメに登場しないキャラも比較的多数登場しています。

スポンサーはいすゞ自動車・宮田自転車・ペプシコーラ・津村順天堂(現:ツムラ)・東鳩・任天堂などだったそうです。(だいぶ余談ですがこの頃のいすゞは何の車種のCM流していたんでしょうね…ジェミニが出る1年前ですし…)

また放送当時はタカトクトイズ(後に1985年をもって倒産)よりタイアップした玩具も発売され、指人形やソフト人形・乳母車まであったそうです。
さらに当時池袋西武の屋上で開催された日テレの子供向けショーに特撮のサンダーマスク(こちらも権利関係で揉めた封印作品)と共にドラえもんの着ぐるみが出演していたそうです。

・テーマ曲
OPはそのまま「ドラえもん」というタイトルで、藤子先生自ら作った曲です。そのためか意味不明な歌詞がちょくちょく入っているのが特徴です。カラオケに「ドラえもん(旧)」というタイトルの曲が入っていたらこの曲になります。中の人もJOYSOUNDのカラオケでこのOPを歌ったことがあります(DAMに入っているかは不明)。
「ぼくのドラえもんがまちを歩けば、みんなみんなが振り返るよ」という歌詞から始まる演歌風の女性の声が特徴です。

EDは「ドラえもんルンバ」という曲なのですが、歌詞がハッキリ言って無茶苦茶なんです…
「さっささっさと飛び出せ飛び出せ飛び出せドラえもん」から始まり、「光線銃がものいう」「コンピューターが友達」といったドラえもんといかにも関係無さそうなのばかり並んでいます…
恐らく作詞した横山陽一さんという方は、失礼ながらドラえもんがどういったアニメなのか理解していなかったのではないでしょうか…

歌っていたのはOPED共に内藤はるみさんという方で、この日テレドラえもんのOPEDを歌った当時は何と高校生でした。しかも芸能人御用達で有名なあの堀越高校にいたそうです。高校卒業をきっかけに大人向けの歌手を目指し「朝月 愛」と改名して演歌歌手として70年代に活躍されていたそうです。
何と2020年2月にNHKの鶴瓶の家族に乾杯に出演し、岐阜県内のカフェにてOPを歌っていました!!まさかの日テレドラえもんが地上波に帰ってきたのです!!
以前にも野沢雅子さんがドラえもんの声を出すといったこともありましたが、こうして徐々に戻ってくれると嬉しいですね。

他にも挿入歌として「あいしゅうのドラえもん」、「ドラえもん いん できしいらんど」という曲も存在します。
あいしゅうのドラえもんは初期にドラえもんの声を演じていた富田耕生さんによるもので、タイトル通り哀愁を感じさせるおっとりした声が特徴で、昭和アニメらしい暗い曲調…ってところです。
作曲についてはOPED・挿入歌含め、全てが日本を代表する作曲家であり童謡の「おもちゃのチャチャチャ」などで有名な越部信義さんが担当しています。

・放送終了へ…
しかし、プロデューサー且つ会社の代表でもあった新倉雅美が放送途中で謎の失踪をします。すると過去に制作した「ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!」などで作った赤字がデカったものの、このドラえもんが安定した視聴率でそれなりにヒットしたことから赤字の清算が可能となり、急遽決まった新経営陣に会社を続けていく気は無く「もう止めよう」の一言で会社を畳むことを決定しました。

結果、放送延長はされることなく半年間で終了してしまいました。当時はアニメは人気あればどんどん続いていく時代だったので残念な結果に終わってしまいました。
残されたスタッフは日本テレビ動画の清算に追われ、グロス請け(アニメ業界における下請け)先に支払金を当てるために売れるものはとことん売り、社屋を引き払うために本作の資料やセル画の一切合切を廃棄処分してしまいました。


今だったら昔のアニメの資料やセル画があったらお宝モノですが、当時はまだそのような収集する趣味の文化もあまり無かったですし、保存するにもお金と手間がかかった時代ですから仕方ないですね…

そして最終回の放送された日にはもうスタジオは空っぽになり、ライトエース(トヨタのワンボックスバン)にカット袋1万袋分のセル画や台本、絵コンテを沢山積み込んで浦和まで走り、そこの河川敷で焼いてセル画などを廃棄処分したというエピソードがあります。
今だったら河川敷でいきなり燃やしたら問題になりそうですが当時は問題視されなかったのでしょう…
「わが子を荼毘に付す気持ちでした」との想いだったそうでこのエピソードについては真佐美ジュンさんのサイトにあります。

なお新倉雅美さんは後にフィリピンに移住したものの事業が上手くいかず、結局は拳銃密輸に手を出してしまい1986年5月2日に逮捕され、その後の消息は不明となっています。ネット上には出所後小笠原の海に消えた…という記述のあるサイトもありましたが真相はわかりません…
また新潟県出身で田中角栄をはじめとする県内の有力者とも繋がりがあったそうで、実際に失踪した後に一応の取締役になったのは新潟総合テレビ(フジテレビ系列)役員の稲庭左武郎という方だったそうです。
このことから、日本テレビ動画は東京と新潟の2拠点体制でアニメ制作を行っていました。なお当時の東京での拠点が入っていた中野区の雑居ビルは2021年現在も現存しています。

:追記
この東京での拠点が入っていた中野区の雑居ビルを見てきましたので、その2の方に掲載してあります。

chakuwikiにもありますが、もしこの日テレ版が続いていたら…と考えるのも面白いですね。今のような長寿作品になっていたら汐留の日テレにはドラえもんが沢山いたりZIPにもドラえもんがよく出ていたかもしれません。同じ日テレの長寿アニメであるアンパンマンと並んだ局の看板番組になっていたでしょうし、コラボもあったかもしれません。

・ドラえもんのアニメの空白期間
本放送が終了した後、制作会社こそ解散したものの放送用のフィルムは日テレ自身が7年間保管し、70年代のうちは日テレにおいて朝の時間帯の再放送が行われていたり、地方局でも再放送されていました。1979年に今のテレ朝版のアニメが始まるまでの間、9回も再放送されたと言われています。またこの間、ドラえもんのみならず藤子先生の作品のアニメ化自体にも空白期間が生まれることになってしまいました。

1980年に保管期間が終了した後は消息不明と見られており、藤子先生が仕方なく引き取った後にスタッフが焼却処分したという噂もあったそうで、フィルムは焼却されてもう見れないと言われたこともありました。

また前述のてんとう虫コミックスの単行本のヒットを受けて1976年にはアーモンドグリコのCMにドラえもんが使われましたが、この際に声を演じたのは本作で演じた野沢雅子さんでした。このCMはYoutube上にアップロードされているので現在も見ることが出来ます。数少ない日テレドラえもん関連の動画資料です。 

当時は単行本がヒットしたものの、まだテレ朝版のアニメが無かった時代であり、勿論日テレ版も封印はされておらず「漫画だけじゃなくてアニメもあったんだ」程度の認識だったと言われています。

また、アニメの放送が終了したことでドラえもんはもう作品として終わったもの、と当時の小学舘の担当者は考えていたそうで、藤子先生に対して新しい作品を出すよう依頼しました。

藤子先生はドラえもんに思い入れがあったものの、その声に応える形で翌1974年より「みきおとミキオ」という新作を並行して出しました。

しかしちょうどこの年にてんとう虫コミックスの単行本が予想外のヒットを飛ばしたことでわずか1年で「みきおとミキオ」の連載は打ち切られ、再びドラえもんが主役の座に帰ってきたのです。

・まる子も日テレ版ドラえもんを見ていた?

今現在、ドラえもんと同じぐらいに国民的アニメとなっているのが、ちびまる子ちゃんですが、
主人公のまる子は、何と日テレ版ドラえもんを見ていた可能性があります!

というのも、以前原作を読んだことがあるのですが、この際にテレビを見ていて、私にもドラえもんいたら良いのに…とまる子が嘆くシーンがありました。
確かいつものようにお母さんやお姉さんに怒られてすぐ現実に戻される…というオチだったと思います。

しかし、ちびまる子ちゃんの時代設定は1974年頃と言われています!
1974年と言えば、日テレ版ドラえもんの放送終了の翌年で、ちょうどてんとう虫コミックスの単行本が出た時期にあたります。

すると、まる子がドラえもんのアニメを見たとなると、この時期は日テレ版ドラえもんの再放送以外にあり得ないのです。
あるいは1年前の本放送だった可能性もあり得ます。昔のことですから、記憶が混ざっていた可能性も無くはないです。

まあ作者のさくらももこ先生の、幼少期の経験を元にした作品とは言え、いくら何でも流石にこんな細かいところまでは設定していないでしょうから、あくまで可能性、の話ではありますが…

・封印…そしてテレ朝版へ
そして、1977年頃にシンエイ動画による今のテレ朝版ドラえもんの企画が立ち上がりますが、やはり日テレ版が短命に終わったこともあってかなり難航したそうです。藤子先生も「私の作品はどこが受け入れられなかったのでしょうか?」とテレ朝側の担当者に聞いたそうです。

この担当者に対して藤子先生は日テレ版全26話分の台本と漫画の単行本を入れた風呂敷包みを贈ったそうで、それを自宅に持ち帰った担当者は、小学校低学年と幼稚園児だった娘たちが単行本を楽しそうに読む姿を見てドラえもんは低年齢層向けの作品だと確信するものの、日テレ版の台本を読むと対象年齢のターゲットが少し高いように感じたそうです。初期に下町人情路線だったことやマジンガーZとの競合を避けるべく路線変更したことが影響したのでしょうか…なお台本のうち一部のものはWEB上で実際に見ることが出来ます。

またテレ朝の上層部もこのような事情から「日テレ版で失敗したものがウチで成功するはずがない」と当初は消極的であったため、よみうりテレビなどの他局に売り込む話もあったそうです(もしよみうりテレビ制作だった場合、関東では同じ系列の日テレで放送したでしょうから、結局ドラえもんのアニメが全て日テレで放送したことになっていましたね)。

パイロットフィルムの「勉強部屋のつりぼり」は1978年秋に完成しています。なおパイロットフィルムの声優と実際の本放送の声優は異なる例が多いですが、このフィルムは全く同一となっており、大山のぶ代さんもドラえもんとして出演しています。

そして紆余曲折を経て1979年4月、ついにテレ朝でドラえもんの放送が始まります。しかしその直後の7月から8月にかけて富山テレビ(フジテレビ系列)で日テレ版ドラえもんが再放送されています。
ただしこれは9回目の放送で打ち切りとなってしまいました。現時点ではこれが最後の再放送となっておりこれ以降、封印状態が続いています。この封印劇を「富山事件」と言われています。
これについては小学館関係者による藤子先生が「原作のイメージと違うので放送してほしくない」と述べたから警告状を送って封印した説と、テレ朝関係者による「せっかく新しいドラえもんが放送されたのに旧作が放送されると子供たちが混乱する」として小学館に封印させてもらったという説があり、どちらが正しいのかは分かっていません。

なおこのエピソードから派生して、富山県においては新しく始まったテレ朝版のドラえもんがやっている一方で、裏番組では日テレ版のドラえもんが放送されていた…という都市伝説が流れていたこともありました。
しかしこの富山事件が起こった1979年当時、まだテレ朝版のドラえもんは富山県で放送されておらず、翌1980年の4月5日からようやく北日本放送においてテレ朝版のドラえもんの放送が開始されたので、この都市伝説は間違いということになります。


また1979年当時の小学生において、小学校低学年の子供がテレ朝版を見て「ドラえもんって新しいアニメが始まったんだ!」と盛り上がっていた一方で、兄や姉がいる家庭において日テレ版を以前見た人がその話を聞き「あれ?ドラえもんってもう終わったアニメじゃなかったの?」と疑問に思う…といった事例もあったようです。

原作者の藤子先生は「あれは失敗だった」「この件についてはいっさい語りたくない」など他にも本作に対する否定的なコメントを残していますが、一方で個々の制作スタッフの前では「またやろうよ」と言ったり優しく接していたようです。なおこれらの発言は書籍の取材などで明らかになった関係者からの証言によるもので公式上での発言は一切ありません。
真相は亡くなられたので闇に葬られましたが、恐らく個人的に否定的でありながらもスタッフの前では仕方なく優しく接していたのではないかと思われます。

・現在
封印後、代表者・権利者の新倉雅美さんが失踪し、会社が解散したこともあって著作権管理が宙に浮き、偽物のセル画や事実無根のデマや誤った情報が出回るといったことが慣例化し、真佐美ジュンさんがホームページを立ち上げて正しい情報を伝えるまでは誤った情報が当たり前とされてきていました。
その後、真佐美ジュンさんの情報公開や藤子先生の作品愛好家の団体などの取材によって徐々に情報が明るみに出るようになってきました。

また1995年にフィルム現像を担当したIMAGICA(1973年当時は東洋現像所)にシリーズ後半の16話分のネガフィルムが奇跡的に残っていたことが判明しています。ただしやはり著作権が宙に浮いていることから使われた事例はありません。
放送した日テレにおいても2000年代に特命リサーチ200XやCSの日テレプラスで放送しようと権利者(新倉雅美さん)の行方を探したそうですが、やはり見つけることは出来なかったようです。

藤子プロや小学館では1979年の大山のぶ代さんのテレ朝版ドラえもんが最初であるかのようにされ、現在では作者ゆかりの地である向ヶ丘遊園に藤子・F・不二雄ミュージアムがありドラえもんに関する展示も沢山あって連日多くの観光客で賑わっていますが、そこにもこの日テレ版ドラえもんに関する展示や紹介は一切ありません。
2005年にドラえもんの声優陣が一斉交代し、ドラえもんの声が大山のぶ代さんから現在の水田わさびさんに変わった時も、大山のぶ代さんが初代のドラえもんとして紹介されていました。

というか、封印されている以上、世間一般的には大山のぶ代さんが初代ドラえもんだと思われていますよね…事実自分も中学生になってネット上でこの日テレ版の存在を知るまではそう思っていました…

封印を解除するのは完全には不可能だとしても、恐らく新倉雅美さんの消息さえ分かればだいぶ進めていけるのではないかと思いますけどね…まあそれを日テレが出来なかった訳ですが…
あとは制作会社のルーツとなった国映は今でもある訳ですし、そこをなんとか上手く使うのも良いかもしれません。

あるいは日テレのどこかに保管していたフィルムがちゃんと残っているかどうかというのもありそうです…
事実、更に古い1958年のアニメで、日テレが最初に放送したアニメでもある「もぐらのアバンチュール」というのが長らく現存していないと言われていながら2012年に発掘されたという事例もありますし…

また最後に富山テレビで再放送された1979年には既にVHS・ベータ共に発売されていますので、奇跡的に富山県在住の方が録画したビデオテープが発掘…という可能性も無くはないですが、当時は家庭用ビデオデッキが出たばかりでまだまだ高価でしたので流石に難しい部分があります…

そして全ての鍵を握るのはやはり真佐美ジュンさんということになるのでしょう…

1979年の富山事件で封印されて以降の公式での露出例

・1988年 TVアニメ25年史
大貫信夫さんが関わっているなど間違った情報で伝えられていた。
・1991年 テレビ40年inTVガイド
日テレ版とテレ朝版を一挙に紹介した。
・1992年 日本テレビ EXテレビ
藤子先生の特集を行った際に、内藤はるみさんの歌うOPが流れた。また止め絵が1枚だけ映された模様。
・1994年 声優事典
日テレ版とテレ朝版を混同して紹介しており誤りが多い。
・1996年 テレビ史ハンドブック
上記と同様の内容。
・2000年 ムック「ドラえ本3」
珍しく公式の藤子プロと小学館が監修しており、写真も掲載されているが「原作のイメージと違っていて半年で終了した幻の番組」と否定的な紹介をされている。
・2003年 日本テレビ 公式ホームページの社史
1973年の項目に「『ドラえもん』がスタート」と書かれていた。リニューアルに伴い現存しない。
・2003年 CD 昭和キッズTVシングルスVOL.8
OPが収録された。
・2004年頃 フジテレビ トリビアの泉
「大山のぶ代は、ドラえもん役として…二代目である」「初代は野沢雅子である」と紹介され、真の初代である富田耕生さんについては触れず間違った情報を流してしまった。
・2004年 安藤健二 封印作品の謎
サンダーマスク、キャンディキャンディなど他の封印作品と一緒に取り上げられている。この書籍の取材で分かった事実も数多い。
・2008年 安藤健二 封印作品の憂鬱
上記の続編的な書籍。
・2009年 産経ニュース
幻のドラえもんがあったと紹介された。
・2009年 ニッポン放送 高嶋ひでたけの特ダネラジオ夕焼けホットライン
真佐美ジュンさんの持つ映像から音声が流された。
・2009年 藤子・F・不二雄大全集
ガチャ子の出るエピソードなど封印された単行本未収録となったエピソードが収録された。
・2013年2月6日 日本テレビ 1億人の大質問!?笑ってコラえて!
野沢雅子さんが「ぼくドラえもん。」「今日もごきげんよう」と演じた。モノクロだった(実際にはカラー)と証言した。
・2015年7月9日 NHK総合 あさイチ
野沢雅子さんが「出すの早すぎたんでしょうね、そんなに長く続かなかった」と証言した。
・2020年 ドラえもん50周年特設サイト
公式のものとしては珍しく、年表の1973年の項目に「ドラえもん」TVアニメ放送開始(日本テレビ)、1979年の項目に「ドラえもん」再びTVアニメ化(テレビ朝日)と2つのシリーズがきちんと紹介されている。
・2020年2月10日 NHK総合 鶴瓶の家族に乾杯
OPEDを歌った内藤はるみさんが出演し、OPの曲を生披露した。

⋆キャラクター紹介・声の一員
敬称略で紹介します。途中で声優交代しているのが特徴で、ドラえもんが富田耕生から野沢雅子、スネ夫のパパがはせさん治から加藤修、先生が加藤修から雨森雅司、ポタ子が野沢雅子から不明の人物に交代している。


:ドラえもん
前述した通り、のび太のことを呼び捨てで呼んでおり、これは最初から最後まで変わらずだった。
また姿は原作初期のものに合わせた太めの体型であり、目が小さめだった。その後のドラえもんのアニメとはだいぶ異なる。また原作初期同様に21世紀の未来からやってきたという設定だった。
・富田耕生(第1話~第26話)
当時ですら大ベテランだった大御所。平成天才バカボンのパパ役で有名。また最近では亡くなった永井一郎に代わって名探偵コナンの鈴木次郎吉役を担当していたが、今年10月1日に脳卒中のため死去。
その後に演じた声優さんが女性であることを考えるとかなり意外だが、当初ドラえもんに対して世話好きのオッサンというイメージで考えていたかららしい。
非常におっとりとした哀愁漂う親父臭い性格に設定されていたようで、実際に「あいしゅうのドラえもん」というタイアップ曲を歌っており、これは動画サイトで聴けるがタイトル通り哀愁漂う悲しげな雰囲気の曲となっている。
また「あらよっと」という掛け声でひみつ道具を出していた。勿論声はだいぶ低いオッサン声であり、映像で見れないため確認出来ないものの、これがドラえもんの声であると想像することは難しい。

・野沢雅子(第27話~最終話)
言わずと知れた声優界のレジェンド。ドラゴンボールの悟空を始め数多くの役を担当。悟空や鉄郎に代表されるように陽気な少年役が多い声優さんだが、ドラえもんも例外ではなく活発的で短期な性格になっていたらしい。
なお2013年に放送された笑ってコラえて!の回でしょこたんの前でこの日テレ版ドラえもんの声を出した。恐らく地上波で披露するのは本放送以来40年ぶりと思われる。
ただし実際にはカラーだったにも関わらず「モノクロだったんです」と証言していた。

他に星の子ポロンという、これまた幻のアニメで主人公ポロンの声を演じているのでこちらもいずれ取り上げたい。なおこのポロンでの声と日テレ版ドラえもんでの声は時期が近いこともあってかほぼ同じである。ただしまだ若かったせいかその後の悟空の声に比べてやや明るく高い印象である。ただし富田耕生さんの時と違ってドラえもんの声らしさはあってわかりやすい。

:のび太
今では黄色の服を着ているイメージだが、これでは赤色の服を着ていた。また原作や後のテレ朝版でのすぐドラえもんに頼るキャラとは異なり、ある程度は自主性のあるのび太少年というキャラで、これは子供たちの教育のためにとの思いで変更したとのことである(ただし藤子先生はこれに対して否定的だった)。
・太田淑子
後の大山のぶ代版でセワシ役を演じた人物。他にひみつのアッコちゃんのアッコ役でも有名。声に感してはその後の声と比べてかなり声が高く明るい印象。

:しずか
その後のテレ朝版と比べてもやや顔立ちがシンプルで明るく可愛らしい印象だった。そしてジャイアンのことを今のテレ朝版では「たけしさん」と呼ぶのに対し、この日テレ版では男性陣と同じように「ジャイアン」と呼んでいた。
後述するが源家にはボタ子という訛りが特徴的なお手伝いさんとガチャ子というメスのアヒルのロボットも住んでいた。
・恵比寿まさ子
サザエさんで2代目のタイコ役も演じた人物のようで脇役の女性役を演じることが多かった。2001年頃を最後に活動していない。

:ジャイアン
今ではオレンジ色の服を着ているイメージだが、これでは赤色の服を着ていた。父子家庭で育った設定で母親は故人、ジャイ子はそもそも存在しないという設定。
なおジャイアンの母は遺影で登場しているが、この姿は今のテレ朝版とは全く違う温厚そうな風貌であった。
・肝付兼太
前述した通り決してスネ夫ではなくジャイアンである。
後の大山のぶ代版のスネ夫でお馴染みの、あの特徴的なハスキーボイスは全くそのままなので動画サイトに音声のみ上がっている動画で聴いていると、どっちがジャイアンなのかスネ夫なのか混乱する。2016年に肺炎のため死去。80歳没。

:スネ夫
今のテレ朝版と比べて顔つきがやや鋭い印象だった。またジャイアンよりも上の立場に立つこともあったという。声もスネ夫らしいハスキーボイスで違和感もない。
・八代駿
プーさん役を演じていたことで有名だった。その後プーさんの声優はさらに交代している。2003年に脳梗塞のため死去。70歳没。
その後のスネ夫の声と比べてやや暗い印象もあるがそれほど違和感は感じない。

:ガチャ子
黒歴史キャラで立ち位置は今のドラミにも似ている(ドラえもんの妹として出たこともある)。原作では初期に数作連載されていたものの単行本では封印された(後に藤子・F・不二雄大全集で復活した)。
その理由について藤子・F・不二雄は「ライバルキャラがいたほうがいいという軽い思い付きで登場させたが、ちっともよくなかった。焦点が分裂して全く違った性格の漫画になってしまうため、ガチャコはいなかったことになった」と述べている。
この日テレ版ドラえもんではオリジナルの設定となっていてしずかちゃんの家に居候していた。またドラえもんが未来に帰った後もしばらく残るとしていた。
・堀絢子
昭和ムーミン(こちらも本作同様、原作者が否定的だったために封印作扱い)のミイ役で知られる。

:のび太のママ
怒ることはあるものの、後の大山のぶ代版のようにのび太のものを取り上げたり、おつかいを頼むのを強引に行うといったことはしなかったようで、やや優しい設定だった。
・小原乃梨子
後の大山のぶ代版でのび太役を演じた人物。これに対し本人は「世の中の常識や年齢に逆らって生きるのが私の運命のようだ」と述べている。しかしこの日テレ版ドラえもんでの声は若干低めで怖い印象を受ける。

:のび太のパパ
・村越伊知郎
長年に渡りサザエさんのノリスケ役で有名だった。2007年5月23日に死去。76歳没。

:のび太のおばあちゃん 
風貌については後のテレ朝版とほとんど変わらない。
・不明

:スネ夫のママ 
空手の達人で空手三段を所持している設定だった。
・高橋和枝
長年に渡りサザエさんのカツオ役で有名だった。余談だがカツオ役の初代は大山のぶ代で開始からわずか3か月でこの人に交代している。1999年に死去。70歳没。

:スネ夫のパパ
・はせさん治
脇役を演じることが多かったがポンキッキに顔出しして出演していたりもしていた。2002年に肺癌のため死去。66歳没。
・加藤修
後の大山のぶ代版でもスネ夫のパパ役を演じており、日テレ版とテレ朝版で唯一同じ役を続けて演じていた。後述するが先生役を演じていたこともある上、さらに現在の水田わさび版でもなんでもソムリエというひみつ道具の役で出演していた。3シリーズ存在するドラえもんの全てに出演していた唯一の声優さんだった。2017年に死去。81歳没。

:ジャイアンのパパ(剛田小助)
現在のテレ朝版では出てくることの少ないジャイアンのパパだが、この日テレ版では数多く出演しており正直屋という雑貨屋を営み、体格が小柄で人柄が良く息子思いの性格だったという。 出番が少ないもののジャイアン以上に大きく強そうなテレ朝版のジャイアンのパパとは全く異なる風貌であり、大人しそうで眼鏡をかけた風貌でスネ夫程の身長だった。また剛田小助という名前についても日テレ版のみの名前でオリジナル設定である。
また剛田家では前述した通り「たけし!」と怒ることでお馴染みのジャイアンの母は故人という設定であり、またジャイ子と飼い犬のムクも存在しない。
・不明

:しずかのママ
・不明

:しずかのパパ
・不明

:セワシ
・山本圭子
バカボン役、サザエさんの花沢さん役、ちびまる子ちゃんの山田役などで有名な大御所声優。今年9月に下肢骨折の治療のためしばらくの間休養すると発表された。

:我成先生
がなりと読む、あののび太を廊下に立たせる先生にも日テレ版にはちゃんとした苗字がついていた。また小学校の名前は初期に下町人情路線だったためか下町小学校という名前だった。風貌は後のテレ朝版とあまり変わらない。
・加藤修
先述した通り声優交代前に演じていた。その後はスネ夫のパパ役を演じたので詳細はそちらを参照。
・雨森雅司
初代のバカボンのパパ役で有名だった。そしてその後を継いだのが先述した初代ドラえもん役の富田耕生である。1984年に若くして肝硬変で死去。満53歳没。

:ボタ子
しずかちゃんの家に居候していたお手伝いさん。原作に一度だけ登場したゲストキャラクターをアレンジして作ったオリジナルキャラだがテコ入れのためにレギュラーキャラとして出演していた。風貌は後のジャイ子にも似ているがジャイ子以上に太めではある。なお、動画サイトに上がっている次回予告の映像にもこのキャラらしき女性キャラが出ている。
こちらも原作に登場した回は藤子・F・不二雄大全集が出るまで封印されていた。
・野沢雅子
言わずと知れた声優界のレジェンド。先述した通り声優交代前に演じていた。その後はドラえもん役を演じたので詳細はそちらを参照。
・不明

:デブ子
この日テレ版にしか登場しないオリジナルキャラとなる近所の子供で外見はジャイ子にも似ているらしい(今だったら問題視されそうな名前だけど…)
・つかせのりこ
魔女っ子メグちゃんの郷ノン、おはよう!スパンクのスパンク、つるピカハゲ丸くんのハゲ丸などが代表作とされる。1989年に若くして直腸癌で死去。43歳没。

:ジャマ子
こちらも日テレ版にしか登場しないオリジナルキャラとなる近所の子供らしい(これも今だったら問題視されそうな名前…)
・吉田理保子
魔女っ子メグちゃんの神崎メグ、まいっちんぐマチコ先生の麻衣マチコが代表作とされる。1998年に声優業から引退しマネージャー職を経て現在はキャスティング・コーディネーター、声優講師などの活動に主に携わっている。

:カワイ子ちゃん
ドラえもんのガールフレンドの白猫。OPの映像にもそれらしきネコが登場しており、現在の水田わさび版におけるドラえもんのガールフレンドで近所のメスネコであるミイちゃんにも近いと思われる。1973年4月8日放送の屋根の上のすてきな子の巻に登場する。ドラえもんはのび太からのアドバイスを受けてデートを試みる。
・不明

:沢村
オリジナルキャラのようだが映像を見ることも出来ない状況のため詳細不明。
・不明

:チンドン親子
日テレ版のオリジナルキャラであり、11話の台本を見る限りでは角刈りの父とサザエさんのカツオにも似た5歳の息子の健坊の2人で台車を転がしながらちんどん屋として太鼓を叩く、といったことをしていたらしい。ドラえもんも混ざってちんどん屋になっていたこともあった模様。
・不明

なお、ジャイアンの母・ジャイ子・ドラミ・小池さん・出木杉は登場しない。ただしドラミは放送途中に連載された回で初登場しているためか、主題歌のレコードのジャケットにはドラミも描かれている。

:追記

誤字訂正と「まる子も日テレ版ドラえもんを見ていた?」の項目を追加しました。