昨晩3時22分に福島沖で震度5弱の地震がありましたが、予知夢の首都壊滅地震も起きることなく、普通に暑い日でした。
知る限りの予言とか予知夢は、今のところ現実に起きていません。
もし起きる要因があったとしても、そこへ人の意識が集中すれば起きないものなのかもしれませんね。
安心したところですが、少々気になる地震がありました。
昨晩4時37分に東海地震の想定域の遠州灘で震度2の地震がありました。
3月の震災以降、各地で地震が頻発に起きている中、遠州灘の地震は2回だけなんですね。
東海地震の想定されるフィリピン海プレート上に位置する、駿河湾と遠州灘で発生した震度1以上の地震をリストアップしました。
2011年8月12日(金) 21時04分 駿河湾 M3.9 震度1
2011年8月12日(金) 4時37分 遠州灘 M5.2 震度2
2011年8月5日(金) 7時38分 駿河湾 M3.2 震度1
2011年8月2日(火) 4時44分 駿河湾 M3.3 震度1
2011年8月2日(火) 0時48分 駿河湾 M3.1 震度1
2011年8月2日(火) 0時14分 駿河湾 M3.0 震度1
2011年8月2日(火) 0時03分 駿河湾 M3.4 震度1
2011年8月1日(月) 23時58分 駿河湾 M6.1 震度5-
2011年8月1日(月) 19時01分 駿河湾 M2.5 震度1
2011年7月19日(火) 5時22分 駿河湾 M4.0 震度3
2011年7月11日(月) 12時55分 駿河湾 M2.1 震度1
2011年6月22日(水) 4時21分 遠州灘 M3.7 震度1
遠州灘が震源の地震はめずらしいです。
8月になってから該当地域の地震が増えてます。
そして、その割には、千葉県東方沖、千葉県南東沖、房総半島南方沖を震源とする有感地震は 170回もありました。
特に千葉県東方沖がダントツ多いです。
東北地方太平洋沖地震から5か月経つのに、8月に入ってからも太平洋プレートは活発です。
千葉県沖には太平洋プレートとフィリピン海プレートの境目があります。
フィリピン海プレートがクッションとなって太平洋プレートの活動を千葉県沖で遮っていると考えてもよさそうです。
そうなると、東海地震が懸念されるフィリピン海プレートは、多くのストレスを受けていることになります。
人間のストレスと同じです。
我慢していればいつかはハッスルするか、病気になります。
フィリピン海プレートの「ハッスル」は、近いのでしょうか。
26年前、日航機墜落事故の発生した、18時56分に黙とうをしてきました。
当時の事故を扱う新聞記者を再現した映画、「クライマーズ・ハイ」を再度見ました。
当時は携帯もなく、墜落した場所に道路もない山奥だったこと。
そしてどこへ墜落したのかわからなかったこと。
世界最大、最悪の航空機事故を扱うメディアの緊迫した状況が生々しく感じられる映画です。
【日本航空123便墜落事故】
1985年8月12日18時56分に、日本航空123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落した事故である。
乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者は4名であった。死者数は日本国内で発生した航空機事故では最多であり、単独機の航空事故でも世界最多(2011年8月現在)である。
夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。
航空事故調査委員会が公表した報告書では、同機が1978年6月2日に伊丹空港で起こしたしりもち着陸事故後の、ボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が事故原因とされている。これをもって公式な原因調査は終了している。航空関係者や遺族などの一部からは再調査を求める声があるが、現在に至るまで行われていない。
事故機は、事故が発生した8月12日当日の503・504便(羽田-千歳往復)および、363・366便(羽田-福岡往復)として運航されていた。 123便としては羽田空港18時00分発、伊丹空港18時56分着予定であった。折り返し伊丹発羽田行の最終130便として運航する予定のため、羽田出発時には3時間15分程度の飛行が可能な量の燃料を搭載していた。
123便は、群馬・埼玉・長野の県境にまたがる三国山(標高1,828m)周辺の樹木や稜線に接触した後(この時、接触した第4エンジンが脱落した)、三国山の北北西およそ2.5kmの地点にある尾根に墜落した。推定墜落時刻は18時56分ごろであった。
同機は、ほぼ倒立した状態で機首から山の斜面に激突した。このため胴体の前部、中央部および主翼は原型をとどめないほどに大破した。墜落時の衝撃は100~数百Gと推定され、これらの部分に搭乗していた乗員・乗客はほぼ即死したとされる。 胴体後部は墜落時の衝撃で分離、山の稜線を飛び越え付近の沢に落下した。この部分の衝撃は数十Gと推定され、搭乗者のほとんどはその衝撃によって致命的な傷害を受けたが、4名の乗客が奇跡的に生存した。生存者は着座の姿勢や人体に接した周囲の物体などの状況が、衝撃をやわらげる働きをしたため生還できたものと考えられた。また、搭載燃料が墜落時に飛散したことにより、周辺では森林火災が発生した。
18時24分、高度7,200mに到達する直前、伊豆半島南部東岸に差しかかるころ、「ドーン」というような音とともに、操縦に重大な影響を及ぼす異常事態が発生した。異常事態が発生したため、羽田空港に戻ることを要求した。 同機は、右旋回して羽田空港に引き返そうとしたが、異常発生の数分後には、油圧系統(ハイドロコントール)のほぼすべてを喪失し、方向舵や昇降舵などの操縦機能のほとんどを失った。
その後、同機にはフゴイド運動とダッチロールが発生し、パイロットは左右4基のエンジン出力を増減する操作によって高度、方向、機体姿勢の安定を図ったと思われる。
事故機には多量の医療用ラジオアイソトープ(放射性同位体)が貨物として積載されていた。また、機体には振動を防ぐ重りとして、一部に劣化ウラン部品も使用されていた。これらの放射性物質が墜落によって現場周辺に飛散し、放射能汚染を引き起こしている可能性があった。このため、捜索に向かっていた陸上自衛隊の部隊は、すぐに現場には入らず別命あるまで待機するよう命令されたという。
F4戦闘機の緊急発進や、百里基地救難ヘリの最初の出動は、航空自衛隊への災害派遣要請が出される前に行われた。陸上自衛隊も群馬、長野の部隊が事故発生の直後から出動態勢を整え、派遣要請を待っていた。しかし、羽田RCCから航空自衛隊への出動要請は20時30分すぎ、陸上自衛隊に対しては21時30分ごろと遅れた。
また、当時の東京消防庁航空隊には強力なサーチライトを搭載したアエロスパシアル製救難ヘリコプターが2機配備されていた。事故当夜は関係省庁からの要請に備え、いつでも出動できるように待機していたが、東京消防庁への出動要請はなかった。のちに運輸省・警察庁・防衛庁ともに、この高性能ヘリの存在を知らなかったことが明らかになった。東京消防庁も自ら出動を申し出なかった受身の姿勢だったこともあり、緊急時における縦割り行政の問題点が浮き彫りになった。
また本事故において消防が救助へ向かおうとしたところ、警察が生存者はいないのでその必要なしとして消防の出動を止めている。のちに生存者が4名救出されたことから、本事故において一義的に救助責任を負うのは警察でなく消防である。消防は警察の指示を無視すべきであったし、警察の指示は明らかな越権行為だったと言うべきである。
生存者の証言によると、墜落直後の現場にヘリコプターが接近したが、やがて遠ざかっていったという。また、報道機関としては事故現場を最も早く発見した朝日新聞社のヘリは、現場を超低空で飛行するヘリを目撃している。マスコミ各社は「日本側が米軍の救助協力を断った」などと報道し、救難体制の不備や関係当局の姿勢に対する批判が高まった。
引用元 Wikipedia
トラブルが発生し墜落するまでの32分間、乗客、乗組員は何を思ったのだろう。
尾翼が破損してエンジンのみでジャンボ機を操縦した操縦士の必至の墜落回避があったからこそ、32分間墜落せずに持ちこたえたのかもしれない。
だからこそ亡くなった乗客が、墜落前に家族へのメッセージを残せたのかもしれない。
墜落現場が山間部だったから、4人の生存者があったのかもしれない。
事故は起こってはならないけど、
今となっては、そう思うことしかできないのかもしれない。
機長が操縦席で18時46分に発したセリフ、「これは駄目かもわからんね」が最後の音声記録である。
■8月14日のできごと■
1909 姉川地震(江濃地震) - M 6.8、死者41人。
1945 第二次世界大戦・日本本土空襲: 京橋駅空襲。大阪で空襲があり1トン爆弾が国鉄京橋駅に命中、駅に避難していた200名以上が死亡。
1945 第二次世界大戦・日本本土空襲: 深夜から翌日未明にかけて、秋田・伊勢崎・熊谷・小田原・岩国・光で空襲。第二次世界大戦最後の空襲。
1947 パキスタンがイギリスから独立。
1972 東ベルリン発ブルガス行きのインターフルクIl-62型機が離陸直後墜落、乗員乗客156名全員が死亡。
1991 エヌ・ティ・ティ・移動通信企画株式会社(現在のNTTドコモ)が設立
1999 玄倉川水難事故。大雨で増水していた玄倉ダムの放流に中州でキャンプしていた会社員が巻き込まれ、13人死亡。
2000 大分一家6人殺傷事件。大分県で15歳の少年が隣家を襲撃、3人死亡・3人負傷。
2001 黒磯小2女児誘拐事件発生。
2003 2003年北アメリカ大停電。ニューヨークを含む北アメリカ東北部で大停電。
2005 ヘリオス航空522便墜落事故。ギリシャ・アテネ北部にヘリオス航空522便が墜落。121人が死亡。
2006 首都圏大規模停電。日本の首都圏で大規模な停電が発生。クレーン船のアームが架線に触れ切断した事故による。
2008 北京オリンピック、競泳男子200メートル平泳ぎで北島康介が金メダル。100メートル平泳ぎと2大会連続2冠。
★★★関連ブログ★★★
↑みなさん良いこと書いてますね。ほんと参考になります。
知る限りの予言とか予知夢は、今のところ現実に起きていません。
もし起きる要因があったとしても、そこへ人の意識が集中すれば起きないものなのかもしれませんね。
安心したところですが、少々気になる地震がありました。
昨晩4時37分に東海地震の想定域の遠州灘で震度2の地震がありました。
3月の震災以降、各地で地震が頻発に起きている中、遠州灘の地震は2回だけなんですね。
東海地震の想定されるフィリピン海プレート上に位置する、駿河湾と遠州灘で発生した震度1以上の地震をリストアップしました。
2011年8月12日(金) 21時04分 駿河湾 M3.9 震度1
2011年8月12日(金) 4時37分 遠州灘 M5.2 震度2
2011年8月5日(金) 7時38分 駿河湾 M3.2 震度1
2011年8月2日(火) 4時44分 駿河湾 M3.3 震度1
2011年8月2日(火) 0時48分 駿河湾 M3.1 震度1
2011年8月2日(火) 0時14分 駿河湾 M3.0 震度1
2011年8月2日(火) 0時03分 駿河湾 M3.4 震度1
2011年8月1日(月) 23時58分 駿河湾 M6.1 震度5-
2011年8月1日(月) 19時01分 駿河湾 M2.5 震度1
2011年7月19日(火) 5時22分 駿河湾 M4.0 震度3
2011年7月11日(月) 12時55分 駿河湾 M2.1 震度1
2011年6月22日(水) 4時21分 遠州灘 M3.7 震度1
遠州灘が震源の地震はめずらしいです。
8月になってから該当地域の地震が増えてます。
そして、その割には、千葉県東方沖、千葉県南東沖、房総半島南方沖を震源とする有感地震は 170回もありました。
特に千葉県東方沖がダントツ多いです。
東北地方太平洋沖地震から5か月経つのに、8月に入ってからも太平洋プレートは活発です。
千葉県沖には太平洋プレートとフィリピン海プレートの境目があります。
フィリピン海プレートがクッションとなって太平洋プレートの活動を千葉県沖で遮っていると考えてもよさそうです。
そうなると、東海地震が懸念されるフィリピン海プレートは、多くのストレスを受けていることになります。
人間のストレスと同じです。
我慢していればいつかはハッスルするか、病気になります。
フィリピン海プレートの「ハッスル」は、近いのでしょうか。
26年前、日航機墜落事故の発生した、18時56分に黙とうをしてきました。
当時の事故を扱う新聞記者を再現した映画、「クライマーズ・ハイ」を再度見ました。
当時は携帯もなく、墜落した場所に道路もない山奥だったこと。
そしてどこへ墜落したのかわからなかったこと。
世界最大、最悪の航空機事故を扱うメディアの緊迫した状況が生々しく感じられる映画です。
【日本航空123便墜落事故】
1985年8月12日18時56分に、日本航空123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落した事故である。
乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者は4名であった。死者数は日本国内で発生した航空機事故では最多であり、単独機の航空事故でも世界最多(2011年8月現在)である。
夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。
航空事故調査委員会が公表した報告書では、同機が1978年6月2日に伊丹空港で起こしたしりもち着陸事故後の、ボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が事故原因とされている。これをもって公式な原因調査は終了している。航空関係者や遺族などの一部からは再調査を求める声があるが、現在に至るまで行われていない。
事故機は、事故が発生した8月12日当日の503・504便(羽田-千歳往復)および、363・366便(羽田-福岡往復)として運航されていた。 123便としては羽田空港18時00分発、伊丹空港18時56分着予定であった。折り返し伊丹発羽田行の最終130便として運航する予定のため、羽田出発時には3時間15分程度の飛行が可能な量の燃料を搭載していた。
123便は、群馬・埼玉・長野の県境にまたがる三国山(標高1,828m)周辺の樹木や稜線に接触した後(この時、接触した第4エンジンが脱落した)、三国山の北北西およそ2.5kmの地点にある尾根に墜落した。推定墜落時刻は18時56分ごろであった。
同機は、ほぼ倒立した状態で機首から山の斜面に激突した。このため胴体の前部、中央部および主翼は原型をとどめないほどに大破した。墜落時の衝撃は100~数百Gと推定され、これらの部分に搭乗していた乗員・乗客はほぼ即死したとされる。 胴体後部は墜落時の衝撃で分離、山の稜線を飛び越え付近の沢に落下した。この部分の衝撃は数十Gと推定され、搭乗者のほとんどはその衝撃によって致命的な傷害を受けたが、4名の乗客が奇跡的に生存した。生存者は着座の姿勢や人体に接した周囲の物体などの状況が、衝撃をやわらげる働きをしたため生還できたものと考えられた。また、搭載燃料が墜落時に飛散したことにより、周辺では森林火災が発生した。
18時24分、高度7,200mに到達する直前、伊豆半島南部東岸に差しかかるころ、「ドーン」というような音とともに、操縦に重大な影響を及ぼす異常事態が発生した。異常事態が発生したため、羽田空港に戻ることを要求した。 同機は、右旋回して羽田空港に引き返そうとしたが、異常発生の数分後には、油圧系統(ハイドロコントール)のほぼすべてを喪失し、方向舵や昇降舵などの操縦機能のほとんどを失った。
その後、同機にはフゴイド運動とダッチロールが発生し、パイロットは左右4基のエンジン出力を増減する操作によって高度、方向、機体姿勢の安定を図ったと思われる。
事故機には多量の医療用ラジオアイソトープ(放射性同位体)が貨物として積載されていた。また、機体には振動を防ぐ重りとして、一部に劣化ウラン部品も使用されていた。これらの放射性物質が墜落によって現場周辺に飛散し、放射能汚染を引き起こしている可能性があった。このため、捜索に向かっていた陸上自衛隊の部隊は、すぐに現場には入らず別命あるまで待機するよう命令されたという。
F4戦闘機の緊急発進や、百里基地救難ヘリの最初の出動は、航空自衛隊への災害派遣要請が出される前に行われた。陸上自衛隊も群馬、長野の部隊が事故発生の直後から出動態勢を整え、派遣要請を待っていた。しかし、羽田RCCから航空自衛隊への出動要請は20時30分すぎ、陸上自衛隊に対しては21時30分ごろと遅れた。
また、当時の東京消防庁航空隊には強力なサーチライトを搭載したアエロスパシアル製救難ヘリコプターが2機配備されていた。事故当夜は関係省庁からの要請に備え、いつでも出動できるように待機していたが、東京消防庁への出動要請はなかった。のちに運輸省・警察庁・防衛庁ともに、この高性能ヘリの存在を知らなかったことが明らかになった。東京消防庁も自ら出動を申し出なかった受身の姿勢だったこともあり、緊急時における縦割り行政の問題点が浮き彫りになった。
また本事故において消防が救助へ向かおうとしたところ、警察が生存者はいないのでその必要なしとして消防の出動を止めている。のちに生存者が4名救出されたことから、本事故において一義的に救助責任を負うのは警察でなく消防である。消防は警察の指示を無視すべきであったし、警察の指示は明らかな越権行為だったと言うべきである。
生存者の証言によると、墜落直後の現場にヘリコプターが接近したが、やがて遠ざかっていったという。また、報道機関としては事故現場を最も早く発見した朝日新聞社のヘリは、現場を超低空で飛行するヘリを目撃している。マスコミ各社は「日本側が米軍の救助協力を断った」などと報道し、救難体制の不備や関係当局の姿勢に対する批判が高まった。
引用元 Wikipedia
トラブルが発生し墜落するまでの32分間、乗客、乗組員は何を思ったのだろう。
尾翼が破損してエンジンのみでジャンボ機を操縦した操縦士の必至の墜落回避があったからこそ、32分間墜落せずに持ちこたえたのかもしれない。
だからこそ亡くなった乗客が、墜落前に家族へのメッセージを残せたのかもしれない。
墜落現場が山間部だったから、4人の生存者があったのかもしれない。
事故は起こってはならないけど、
今となっては、そう思うことしかできないのかもしれない。
機長が操縦席で18時46分に発したセリフ、「これは駄目かもわからんね」が最後の音声記録である。
■8月14日のできごと■
1909 姉川地震(江濃地震) - M 6.8、死者41人。
1945 第二次世界大戦・日本本土空襲: 京橋駅空襲。大阪で空襲があり1トン爆弾が国鉄京橋駅に命中、駅に避難していた200名以上が死亡。
1945 第二次世界大戦・日本本土空襲: 深夜から翌日未明にかけて、秋田・伊勢崎・熊谷・小田原・岩国・光で空襲。第二次世界大戦最後の空襲。
1947 パキスタンがイギリスから独立。
1972 東ベルリン発ブルガス行きのインターフルクIl-62型機が離陸直後墜落、乗員乗客156名全員が死亡。
1991 エヌ・ティ・ティ・移動通信企画株式会社(現在のNTTドコモ)が設立
1999 玄倉川水難事故。大雨で増水していた玄倉ダムの放流に中州でキャンプしていた会社員が巻き込まれ、13人死亡。
2000 大分一家6人殺傷事件。大分県で15歳の少年が隣家を襲撃、3人死亡・3人負傷。
2001 黒磯小2女児誘拐事件発生。
2003 2003年北アメリカ大停電。ニューヨークを含む北アメリカ東北部で大停電。
2005 ヘリオス航空522便墜落事故。ギリシャ・アテネ北部にヘリオス航空522便が墜落。121人が死亡。
2006 首都圏大規模停電。日本の首都圏で大規模な停電が発生。クレーン船のアームが架線に触れ切断した事故による。
2008 北京オリンピック、競泳男子200メートル平泳ぎで北島康介が金メダル。100メートル平泳ぎと2大会連続2冠。
★★★関連ブログ★★★
↑みなさん良いこと書いてますね。ほんと参考になります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます