加賀国 小松城 <コマツジョウ> | ||
別称 | 芦城、小松の浮城 | |
城郭種別 | 城郭 | |
縄張り | 梯郭式平城 | |
築城者 | 若林長門 | |
築城年 | 1576 | |
廃城年 | 1872 | |
主な城主 | 前田利常 | |
指定史跡 | なし/不明 | |
住所 | 石川県小松市丸内町 [Google] [地理院地図] | |
城址碑 | あり | |
現地案内板 | あり | |
スタンプ | ||
現存建造物 | 移築門 | |
復元建造物 | なし | |
DID・航空管制 | 対象・小松飛行場 |
概要
小松城は、かつて梯川が南に向かって大きく蛇行した地点に築かれています。
戦国時代に一向一揆が構えた砦が始まりで、天正8年(1580)に織田信長の家臣村上頼勝が、慶長3年(1598)には丹羽長重が城主となっています。
そして、慶長5年(1600)の関ケ原の戦い以後、前田家の城となりました。
寛永16年(1639)、加賀前田家三代利常公は隠居の地を小松と決め、江戸幕府から特別に許可を得て、小松城の大改修を始めました。
全国から名工を呼び寄せ御殿や茶室、石垣を築き、領内から植木や石を集めさせるなど、亡くなる万治元年(1658)まで城の整備を進めました。
幅広い堀に曲輪が島のように浮かぶ姿から「浮城」とも呼ばれ、総面積は金沢城の倍近い約56万㎡にもおよびました。
※現地説明板より
攻城記録
堀石垣
小松城で現在見ることができる唯一の堀石垣です。
右手の遊歩道階段に沿う石垣は近代の積み直しで、本来は正面に見る石垣がそのまま右(南)方向へ真直ぐ道路付近までのび、その後道路に沿って東方(小松高校)校舎方面へ直角に折れています。
左手(北側)には、長さ約20mにわたって凸部をなす石垣が残っています。
さらに10m程進んだところに、対岸の中土居へ渡る車橋が架かっていました。
現在地上高約2mが残存し、当時の記録から推測すると、道路下に高さ約3.5m分の石垣が眠っていることが考えられます。
※現地看板より
※現地看板より
遊歩道階段
本丸櫓台
本丸櫓台石垣は幅南北約20m×東西約21m、高さ約6mを測り、中央に楼閣風の御三階櫓が建てられていました。
不ぞろいな形の切石を合わせ、色の配置を考えて積んだ美しさも意識された石垣です。
※現地説明板より
江戸幕府は、寛永16(1639)年、一国一城令の例外として、加賀藩三代藩主前田利常に隠居地として小松での居城を認め、併せて城修築を特に許可した。
これにより、従来の城郭地は本丸となり、二の丸、三の丸、葭島、琵琶島、中土居などを増築した。
石垣は、戸室石のほか、地元の鵜川などから切り出した石を用いた。
工事は寛永17(1640)年より工事をはじめたが、利常の19年の在城中には、城内に泉水や茶室を設けるなど、粋がこらされた。
明治5年(1872)年、小松惣役場が三の丸におかれ、囚人の役務として城のとりこわしが行われた。
このため現在、本丸櫓の石垣と井戸が残るだけとなった。
本石垣は切込ハギによる工法で四隅は特に精巧をきわめ、周辺沼地の軟弱な立地条件にもかかわらず、櫓台直下は砂州の西端にあり安定した土地であるため、勾配は垂直に近い積み方である。
※現地看板より
井戸跡
この面の石垣の脇に井戸があります。
眺望
2024/9最終訪問
周辺地図
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