城犬のおいど

城巡りと、各地で出会った食事を個人的な感想を添えてお城巡りを紹介しています。

加賀国 小松城

2024-09-30 17:08:29 | 城館
加賀国 小松城 <コマツジョウ>
別称芦城、小松の浮城
城郭種別城郭
縄張り梯郭式平城
築城者若林長門
築城年1576
廃城年1872
主な城主前田利常
指定史跡なし/不明
住所石川県小松市丸内町
[Google] [地理院地図]
城址碑あり
現地案内板あり
スタンプ
現存建造物移築門
復元建造物なし
DID・航空管制対象・小松飛行場

概要
小松城は、かつて梯川が南に向かって大きく蛇行した地点に築かれています。
戦国時代に一向一揆が構えた砦が始まりで、天正8年(1580)に織田信長の家臣村上頼勝が、慶長3年(1598)には丹羽長重が城主となっています。
そして、慶長5年(1600)の関ケ原の戦い以後、前田家の城となりました。
寛永16年(1639)、加賀前田家三代利常公は隠居の地を小松と決め、江戸幕府から特別に許可を得て、小松城の大改修を始めました。
全国から名工を呼び寄せ御殿や茶室、石垣を築き、領内から植木や石を集めさせるなど、亡くなる万治元年(1658)まで城の整備を進めました。
幅広い堀に曲輪が島のように浮かぶ姿から「浮城」とも呼ばれ、総面積は金沢城の倍近い約56万㎡にもおよびました。
※現地説明板より

攻城記録
堀石垣

小松城で現在見ることができる唯一の堀石垣です。
右手の遊歩道階段に沿う石垣は近代の積み直しで、本来は正面に見る石垣がそのまま右(南)方向へ真直ぐ道路付近までのび、その後道路に沿って東方(小松高校)校舎方面へ直角に折れています。
左手(北側)には、長さ約20mにわたって凸部をなす石垣が残っています。
さらに10m程進んだところに、対岸の中土居へ渡る車橋が架かっていました。
現在地上高約2mが残存し、当時の記録から推測すると、道路下に高さ約3.5m分の石垣が眠っていることが考えられます。
※現地看板より

※現地看板より

遊歩道階段

本丸櫓台
本丸櫓台石垣は幅南北約20m×東西約21m、高さ約6mを測り、中央に楼閣風の御三階櫓が建てられていました。
不ぞろいな形の切石を合わせ、色の配置を考えて積んだ美しさも意識された石垣です。
※現地説明板より




江戸幕府は、寛永16(1639)年、一国一城令の例外として、加賀藩三代藩主前田利常に隠居地として小松での居城を認め、併せて城修築を特に許可した。
これにより、従来の城郭地は本丸となり、二の丸、三の丸、葭島、琵琶島、中土居などを増築した。
石垣は、戸室石のほか、地元の鵜川などから切り出した石を用いた。
工事は寛永17(1640)年より工事をはじめたが、利常の19年の在城中には、城内に泉水や茶室を設けるなど、粋がこらされた。
明治5年(1872)年、小松惣役場が三の丸におかれ、囚人の役務として城のとりこわしが行われた。
このため現在、本丸櫓の石垣と井戸が残るだけとなった。
本石垣は切込ハギによる工法で四隅は特に精巧をきわめ、周辺沼地の軟弱な立地条件にもかかわらず、櫓台直下は砂州の西端にあり安定した土地であるため、勾配は垂直に近い積み方である。
※現地看板より

井戸跡
この面の石垣の脇に井戸があります。







眺望






2024/9最終訪問

周辺地図

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