城犬のおいど

城巡りと、各地で出会った食事を個人的な感想を添えてお城巡りを紹介しています。

武蔵国 騎西城

2024-10-15 17:56:23 | 城館
武蔵国 騎西城 <キサイジョウ>
別称私市城、根古屋城
城郭種別城郭
縄張り平城
築城者不明
築城年1455
廃城年1632
主な城主
指定史跡なし/不明
住所埼玉県加須市根古屋
[Google] [地理院地図]
城址碑あり
現地案内板あり
スタンプ
現存建造物なし
復元建造物模擬天守

概要
騎西(私市)城は、いつ誰の手による築城かは不明だが、康正元年(1455)、上杉・長尾・庁鼻和氏等が守る城を、古河公方足利成氏が攻略したのが初見である。
永禄6年(1563)には、小田助三郎が守る騎西城を上杉輝虎(謙信)が攻め落としている。
徳川家康が関東に入った天正18年(1590)、松平康重が二万石で城主となる。
康重は大英寺(騎西)を開基し、保寧寺(日出安)に寺領を与えている。
その後、大久保忠常・忠職父子が城主となり、玉敷神社を現在地に遷座するなど、城下町騎西の再編を行った。
寛永9年(1632)、忠職の美濃国加納城(岐阜県岐阜市)移封に伴い騎西城は廃城となった。
※現地看板より

攻城記録
土塁跡

江戸初期の絵図を見ると、東に大手門を配し、二つの曲輪・天神曲輪・馬屋曲輪・二の丸と鉤の手状に構成され、本城(本丸)へ容易に攻め込まれないような構造となっている。
さらに押し寄せる軍勢や弓矢・弾丸に対し、防波堤となるべく土塁が大手から本城までの全周を、延々と巡っていたことがわかる。
寛永9年(1632)に廃城となった後の衰亡は著しく、寛保年間(1741~44)には本丸・二の丸の土塁が崩され、安政年間(1845~60)に至ると城跡の竹林が開墾され、江戸末期にはほとんど畑となった。
明治・大正期には県道が城跡を貫通した後の土塁はいっそう小さくなり、昭和40年頃にはわずかにその名残をとどめている。
現在、土塁はここに残るのみで、当時の姿を伝える西側の高い部分が旧来の土塁(高さ3m)、こちらの低い部分が在りし日の騎西城を偲ぶため、平成10年に復元延長したものである。
※現地看板より


発掘調査によると、土塁の高さは3m以上、下幅は10m以上あったものとおもわれる。
断面を観察すると、崩れにくいように灰色土と黄色土を交互に叩き固めている。
また、積み方が一様で無いことから、土塁築造後、拡張し修復されたものと思われる。


騎西城は、越後の上杉謙信、小田原の北条氏にとって関東支配の前線基地として重要であった。
そのため、幾度か攻められ、それを凌ぐため堀はより広く、土塁はより高く築かれた。
南に幅50mの障子堀をもつこの土塁は、攻める者に圧倒的な威圧感を持って対峙したであろう。
※現地看板より

城址碑


武州騎西之絵図

この絵図は、ほぼ中央に沼や深田に囲まれた騎西城が描かれている。
戦国時代、騎西城を攻略した上杉謙信はその様子を「騎西城は四方の沼が浅深限りなく、一段と然るべき地で、調儀叶い難し・・・」と書状に記している。
城下には堀が縦横に巡り、入口や要所には門や寺社が配置され、容易に侵入できない様子が窺える。
城の南側には武家屋敷が広がり、60余りの侍が居を構え、妙光寺から東には足軽町が置かれている。
町場は「本町」と「本宿」で形成され90軒近くが軒を連ね、本町では六斎市(月のうち6回開かれる定期市)が立っている。
町場の西門からは熊谷へ、南門からは江戸への街道が伸びている。
※現地看板より

郷土資料展示室
この施設は、騎西町の町制施行20周年を記念して、昭和50年に建てられたものです。
かつて、この近くに騎西城があったことから、天守閣をもつ三層の建物として復元されましたが、史実では周囲に土塁や堀を廻らした、平屋建ての城だったようです。
館内には、発掘調査による出土品や民族資料などが展示されております。
※現地案内看板より

騎西城(郷土資料展示室)は通常公開しておらず、公開期間はおおむね年4回のみとなります。
〇藤まつり(ゴールデンウィーク期間)
〇あじさい祭(6月中旬)
〇文化祭期間(11月上旬)
〇加須市民の日関連(3月下旬)



二の丸跡

この周辺には城の二の丸があった。
発掘調査では、和鏡や多量の陶磁器などが出土している。
※現地標柱より

天神曲輪

障子堀跡


大手門跡

ここは騎西城の正門である大手門があったところで、唯一の出入口であった。
門は冠木門と思われる。
※現地標柱より

御蔵屋敷跡

この周辺は騎西城の蔵屋敷があった所で、米などの穀類を貯えた蔵があったのであろう。
※現地標柱より

前玉神社

当社は、「まえたま神社」とも呼ばれ、前玉姫命を主祭神とし、幸いをもたらすという神として崇敬される。
江戸初期に描かれた「武州騎西之絵図」によれば、当社附近は「元ノ久伊豆」と記されている。
久伊豆とは玉教神社のことであるが、騎西城内でたびたび出火するため、この地に鎮座していた同神社が、類焼をおそれて騎西の地へ遷座したという。
当社が玉敷神社の移転後に祀られたものか、それ以前から鎮座するのか定かではない。
境内には菅原社(天神社)を祀るが、これは騎西城内にあった天神社を移転したと伝えられる。
また、境内の疱瘡社は、疱瘡(天然痘)にかかったときお参りすると治るという。
※現地看板より

2016/10最終訪問

周辺地図

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