ナナカゴ日記 ただいま幸せ60代

60代。突発性難聴。備忘録。呟き。まだまだスーパーパートw

良いことばかりなら

2019年01月05日 | 思い出話


こうして写真を整理していると、
わたしの父であるお祖父ちゃんと娘たち一緒の写真も出てきます。
父はわたしを、そして娘たちを可愛がってくれました。

写真の父は笑っています。

でも辛いことの方が強烈に迫ってきて胸が苦しくなります。
長女にはお祖父ちゃんの思い出が記憶に多く残っていると思われますが、
三女はそれが少ない…写真も少ない…
幼かったですし。


長女とは彼女が大人になってから、
おしゃべりするようになりましたが、
それまではあまり話さない、
特に感情を表に表さない子どもだったなと思い出しました。




お腹が空いてきたから、より
センチになってきているのかしら。

お昼ご飯を食べてからにしましょう、

ダメだ、泣けてきて…




カランカランで思い出した

2015年02月15日 | 思い出話

昨日はスーパーの鮮魚売り場で鮪の解体ショーがありました。
要は客寄せ的な。
「今からやりますよ~」
を知らせるカランカラン♪の手振りの鐘の音が響いていました。
観てください!活きが良いから、買ってください!というPRです。
その鐘の音で思い出しました。


去年の暮れのことです。

どんどんピーヒャラ…

駅ビルは南口と西口の連絡通路があり、いつも人が溢れています。
その通路を、ノボリを背にお腹には小太鼓を付けて、笛?ラッパ?も吹いて、白粉塗りの着物姿の男性人が練り歩いていました。
後ろには、三味線を弾いて、旅姿風に着丈を短くした着物姿の女性を従えていました。

男性の頭はちょんまげのカツラです。

わかります?

チンドン屋さんです!

その時は
珍しい!久しぶりに見たなぁ!と懐かしい感じで眺めていました。



それをふと思い出して、
職場の20代に訊きました。

「チンドン屋って、知っている?」

「何ですか、それ?」と言われました。

40代前半の人は、

「映像で見たことがあるけど、実際には見たことがない。」と言ってました。

ワタシが「駅前で見たのよ!パチンコややゲーセンのPRかなんかよ。宣伝マンよ。」と言うと、

「へえ~、好きであんな格好でやってるのかと思った。」と40代。

ワタシの方がビックリしましたよ。
知らないんだなぁ!と。
世代差を感じました~

チンドン屋さん、
確かに古の昭和がムンムンな光景でしたよ。
でも、雑踏の人々の足は速くて、昭和のリズムとは合わないものでした。

足だけでなく、気持ちもきっと…

昭和のチンドン屋さんをよく見かけた頃は、今よりゆったりゆっくり時間が流れていました…、でも活気はありましたよね…










そうだった!mixi

2015年01月04日 | 思い出話
今、あえて初期「ミクシィ」を懐かしむ | 文化系サラリーマン諸君! | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト




うん、2007年から2008年にハマったんだった!

mixiの全盛期には、毎日が楽しかった!
↑この記事が語っているように、特定の趣味の繋がりで、全く会ったことのない人と盛り上がることが出来たmixiのコミュニティ。
周りに同じ趣味の人がいない人が集まり、日常で語りたくとも語れない人達が、コミュニティで思いっきり語った。
その事ばかりに拘ったお話しがドンドン膨らんでいった。
でも、ちゃんとマナーが守られていたし、たまたまだったのかもしれないが、良い人ばかりが年齢も職種や環境も違っても集まって盛り上がった。

懐かしい!

これがなかったら、いまだにblogもやっていなかったかも。。

今のここのblogはホントに自己満足というか、日々の記録、気持ちの掃き溜めのようなところ。
誰も絡んでこないような孤独なところ。
ワタシもほとんど絡まない。
寂しいくせにだ。


mixiの陰りと共に、
今に至るワタシのネット生活にも影響があった。

ネット上で知り合い、「一生友達でいようね!」なんてまで言い合い、でも忽然と去っていった人との悲しい経験が臆病になってしまっている原因。
ネット上から消えてからもしばらくは会ったりしたか…
リアルでも会い、良い関係を築いていたのに…
繋がらない思いというか、立場の違いというか…
その人のプライドの高さにワタシが傷ついたことは、その人は知らないのかも知れない…
わだかまり…
ワタシもその人に一線を引いてしまったからなぁ…
っていうか、趣味の興味が下降していったのよね。
話が合わなくなってしまった。
それが一番の原因かもね。

興味が下降していっても、他の人たちとの関係は今も続いている。
ワタシがもっと熱心にmixiでしていけば、もっとちゃんと関係性も強くなるのは分かっている。
でも、やはりこの鬱的原因で前のように積極的に出られない。。
ゴメンね、マイミクさん。







もうあんな盛り上がることはないのかな?

ないだろうな、ワタシがこの殻を壊さない限り…







叔母さんが亡くなって

2014年03月13日 | 思い出話


私が28の頃、叔父さんが白血病で入院したと言う知らせを聞き、札幌から帰郷しました。

叔父さんは実家から歩いて行けるところに住んでいて、お酒が好きで、私の母の手料理を肴に父と呑むのが好きでした。

叔父さんは若い頃自衛隊に入隊していたくらい健康でスポーツが得意な人で、昭和一桁生まれの人の割りにはすらりと背が高かったです。
それなのに、52才と言う若さで病に倒れ、還らぬ人となりました。


あの時、 白血病は新鮮な血液を輸血しなければならず、
血液型がA型の叔父さんは、兄弟が6人もいるのにAB型ばかりで、私の父も
母もAB型、私も弟もB型で輸血が出来ませんでした。

私の友達に話をしたら、友達の旦那さんが輸血に協力してくれて…
本当に有り難かったです。

気さくで優しい叔父さんでした。
でも奥さんは少し偏屈な人でした。
叔父さんが新鮮な魚のお刺身や珍味を好きなのに、そういうものは食卓に上らなかったようで、好き嫌いが激しい人でした。
何よりも叔父さんの兄弟が嫌だったのか、親戚付き合いが煩わしかったのか、叔父さんの実家にも葬儀や法事の時以外は来ませんでした。
気さくな叔父さんは、私の両親のような頻繁すぎるくらいの親戚付き合いを羨ましがっていました。


その叔父さんの奥さんが、先日亡くなりました。


80才でした。

天命を全うしたのだと思います。


亡くなる前に、独身の一人娘に「誰にも知らせないように」と言っていたそうで、告別式には叔父方の兄弟はもちろん叔母さんのお姉さん二人にも知らせず、誰も参加しなかったそうです。

叔父方の兄弟たちは、告別式の次の日に残された一人娘に聞かされて、慌てて大雪の中お焼香に向かったそうです。


寂しい告別式だったでしょうに。。

頑なな叔母さんだったのね、最後まで。

残された一人娘のために、
叔父さんの兄弟たちや一緒に行った従兄弟たちは、何かあったら知らせるんだぞと言ったそうです。


親戚付き合いは大変だけど、やはりこんなときは居てくれて良かったと思いますが、叔母さん似の彼女はどう思ったか…

私はこのことを母から聞いて、色々考えさせられました。
そして
懐かしい昔が思い出されたり、これからのことを思ったりしました。















お雛様事情

2014年03月03日 | 思い出話


我が家には娘が三人。
3月3日の女の子のお祭りはちゃんとやっていました。
↑過去形。



長女が生まれて、まずは旦那の茨城の実家の義母から、
「お雛様を作っているから」と連絡が入りました。

義母は男の子二人しか育てたことがないので、女の子が嬉しかったようです。
お義母さんがわざわざ作ってくださるという気持ちが、私もとても嬉しいことでした。

そして1月に仙台の私の実家からは、一緒に選んであげたいけどなかなか行けないからと、現金が送られてきました。
デパートで購入しようとしていたのですが~

同時期に、義母の手作りの雛人形が届いたのです!

お内裏様とお雛様の対の一段飾りで、台もぼんぼりも屏風も揃ったちゃんとした雛人形でした。
手作りだと言うので、あまり期待してなかったんですが、十分にりっぱなものでした。
一段飾りでも大きくて。

ので、
買うのはやめました。




そして、二人目の子も女の子。

旦那の母は、また作ってくれました、雛人形を。

今度のは立ち雛でした。
木目込人形でふっくらと堂々としているものでした。
やはり台もぼんぼりも屏風も付いた、これもお内裏様とお雛様。




くくくっ、三人目も女の子だったでしょ!うちんち。
なのに
笑っちゃうのが、お義母さんは男の子かもしれないからと生まれる前から男の子の節句用の兜飾りを作っていて、早々に送ってきましたん。(笑)

なのに、期待を裏切り女の子!(笑)

そして
またも作ってくれました。
ますます腕が上達してしまった義母は、さらに立派な雛人形を!

はい、これもお内裏様とお雛様です!(笑)


だから我が家には雛人形が三体。
しかも一段飾りが三体!

どれも上にもならず、下にもならない、並列にしか置けないもの!

幅を取りますわよ~!ホホホ(笑)


広い家に住んでいたときは飾っていました。
でも今は飾るところがない。
しかも誰かの一人のだけのお雛様を飾るわけにもいかず…

私の生活が忙しかったというのもあって、飾らなくなってしまいました。











ごめんね…娘たち…




嫁に行かないのはそのせい?





あ、これは内緒なんですが、次女の立ち雛なんですが、
引っ越しの時に首が壊れてしまいまして…苦笑











読んでいただき、
ありがとうございます。m(__)m


成人の日

2014年01月13日 | 思い出話

我が家の娘たちの成人の日を思い出す。

三人三様の思い出…


長女の時は彼女が振り袖は着たくないと言うので、洋服を購入した。
ブラック好きの彼女、しかもスカートじゃなくてパンツスタイル。
コートもカジュアルな物しか持っていなかったので、それなりな物を買って。
ショールもバックもパンプスも!
今思えば、長女が一番お金が掛かったかもね。
でも、成人式の写真を写真館で撮らなかったのよ。
彼女が要らないと言ったから。それでも撮っておけば良かったな。
雪だったよね、あの時も。

あの頃住んでいたのは、郡山。
その成人式が終わったら早々に仙台に帰ってしまったっけ。
独り暮らしを仙台で送っていた彼女は、
今思えばあの時期から殻に閉じ籠りはじめていたのかもしれない。
その後の大学生活では、全然帰省しない彼女を心配をしたっけ。
あ、もちろん社会人になってからは、ちゃんと明るくなったから良かったよ。


次女と三女は振り袖。しかも私が成人の日に着た着物。

次女の時に草履と和装バックを新調して、美容院で着付けも髪結いもしてもらった。
私達夫婦がコンビニをまだやっていた頃で、時間と気持ちに余裕が無かったからプロにお任せした。
彼女の時はちゃんと写真館で写真を撮った。家族みんなでの家族写真も。長女も帰省してくれて…

あの日も雪だったよね。



三女の時には髪結いだけしてもらい、着付けは私がした。 次女の時の着付けの帯結びが気に入らなかったから、成人式は彼女でもう最後なので頑張ってみた。
私は若い頃に着付け教室に通い、一通り習って講師の免許もあるしね、ずっとやっていなかったけれど何とか出来た。
袋帯と伊達襟と帯締めは新調しようと思っていたら、叔母がお祝いに買ってくれた。

三女の成人式は、彼女が高校まで住んでいた郡山でやることにした。それはそうよね。お友達と祝いたいだろうからね。
三女以外の家族はもう関東に引っ越していて、郡山で成人式をするために私と私の母と彼女でホテルに宿泊して着付けを私がしたのよね。

自分で着付けをしたからか、余計に懐かしく思い出される。

あの日は晴れだったけど、とても郡山は寒かったっけ。


三人娘の成人の日に共通しているのは、とにかく寒かった郡山での成人式。

娘たちが高校まで住んでいた所だ。
懐かしいなぁ…

そしてとにかく私達夫婦は働き詰めだった頃…

懐かしいけど、もうあの頃に戻りたいとは思わないなぁ…

札幌でのこと

2013年09月21日 | 思い出話

私が札幌で子育てに奔放していた頃の話です。

もう二十年以上前のこと。
昔々になってしまいました。

次女がまだお腹に居た時、
私自身が風邪が長引いて、
鼻が詰まって顔が痛くなりました。
妊娠中なので、へたに市販薬も服用出来ないし、
これはお医者に掛からないとさすがに辛いと
思いまして、
トボトボと歩いて耳鼻咽喉科に向かいました。
車の免許をこの頃まだ持っていなかったので、トボトボと。
真冬のことだったので、雪を踏みしめながら大きいお腹を抱えながら、
長女がまだ二歳になっていなくて、
彼女の手を引きながら、トボトボと。

蓄膿症でした。
これは手術しないと一生治らないと言われました。
そんなに酷いなんて!びっくりでした。
妊娠中ですし長女がまだ手が掛かるという理由で、手術はしないことに。
毎日鼻の洗浄に通院して症状を抑えることになりました。
毎日の通院、

ママ友さんに長女を預かってもらって助けていただきました。

その通院のお陰で大分症状が良くなりました。
でも、いずれは手術しないと~な感じでした。

鼻づまり、詰まっただけでねー!
こんなことになるなんて!


それまで、盲腸炎と歯医者以外病院になんてろくに掛かったことがなかったのでショックでしたから、
せっせと毎日通いました。

そして、10日くらい耳鼻科に通院した頃、
妊産婦定期検診がありました。
「大分お腹が張ってますね~気をつけてくださいね、」と

お医者さんに言われて帰って来たんです。

そうしたら、その夜に
10分間隔でお腹がグ~っと張ってきて、

これはただの張りではないわ!


夜中で旦那と長女は家に居てもらい、
タクシーを呼んで産婦人科に一人で行き、即入院になりました。
まだ、妊娠37週で、
赤ちゃんも小さいから出産はしないようと、
陣痛抑制剤の点滴を打つことになりました。
点滴を外すとやはりお腹が張ってくるので、
ず~っと点滴の針は刺したまま。
それでも良いと思っていました。
早く生まれて未熟児でいろいろ障害が
出てしまうより
断然良いですから。

あの耳鼻科通院、

トボトボと雪道を転んでは大変と、足元を気にしながら耳鼻科へ通院したのがいけなかったのかしら・・・


出産しても大丈夫な時期までじっと我慢だわと

食べて安静にして点滴の針を手に刺したままの状態で8日が過ぎました。
朝、
看護師さんがいつものように
胎児の様子を診る心拍を測るモニターの機械、
なんて言う機械か忘れましたが、それを着けました。
そうしたら、なんか変!

心拍数が少ない!

胎児の状態が良くないからと、
出産することになりました!

陣痛抑制のための点滴が外され、

陣痛が来るのを待って一時間。

でも陣痛が微弱で。

急遽、帝王切開で出産することになりました!

手術をするには、家族の同意が必要で!

夫は大通公園のそばの会社でしたが、

その日は猛吹雪の日で会社の他の社員が出先から戻れず、

身動きが出来なかったらしいです。あとから聞いた話ですが。。

そこで1歳10ヶ月の長女の面倒を見に仙台から来ていた母が頼りで、

しかし、猛吹雪!

タクシーは来ない!前も見えないような吹雪の中、

普通なら徒歩30分も掛からないのに

一時間も掛かって長女を負ぶって歩いて来てくれました!

私は手術台に載って半身麻酔をされてスタンバイ。

しかし、今度は小児科の先生待ち!

個人病院だったので、小児科の先生が来てから手術をしないと

生まれた赤ちゃんの状態に対応できないから!

「もう少しですからね、」と看護婦さんに言われながら

1時間待ったでしょうか・・・

やっと小児科の先生が救急車で来られて。

そして帝王切開・・・

麻酔をしてから時間が経っていたので、効いていたのかいなかったのか、

自然分娩の長女の時と比べたら・・・

「もうすこしですからね~産まれたら麻酔を強めますからね~」となだめられましたが・・・

そして

「フギャー!」の声が!

次女の産声がした時はほんとに安堵しました。