さて、続きましては先生と共に韓国に渡り、現地指導のお手伝いをしていた当時の若きアニメーターをご紹介いたします。又野龍也さまでございます。又野さまは、現在、画家としてもご活躍でございまして、先生と共に「まんが日本昔ぱなし」などでご活躍されておられます。又野様お願いいたします。
又野氏「どうも、皆さんこんにちは。 ( 表題を指し ) ここに「伝説のアニメータ ー」と書いてありますが、森川さんは我々アニメーターにとりましても、まさに伝説の人であるわけで、雲の上にいるような人です。とにかく、森川さんに追いつかなきゃダメだと、でもどんなに頑張っても森川さんの絵には敵わない。まあ、 森川さん自身の生きかたが漫画そのものという人ですが ( 笑 ) 。韓国の想い出というと、さきほどの森川さんの話とも少し重複するかもしれませんが、今から35 年位前ですね。私が 25 、6 歳、日韓基本条約がひかれて一年くらい経った頃 です。森川さんは暫らく前に行ってらして、私が後から行かされたんです。当時、韓国は軍事政権でしてね。だから、行ったら殺されるんじゃないかつて真剣に親や友達が心配してくれました。夜は戒厳令が敷かれていて、9 時以降は外出禁止なんです。私がソウルの空港についたのが、夜 1O 時過ぎだったと思いますが、東京から何も食べてなくて、とにかく食事をしたいと思っても応が全然開いてないんですね。一軒だけ果物屋が開いてて、やっとバナナを 3 本買い、ホテル で食べたのが最初の想い出です。今でこそ、素晴らしい文化の国ですが、その当時は本当に大変な国状でしたね。ここで、ホントにアニメが教えられるのかっていう状態で、鉛筆や紙だって満足に揃わないんです。そこで、森川さんと二人で最初3ヶ月位。その後は東京とソウルを行ったり来たりしながら、延べでは半年位いましたね。とにかく、森川さんと一緒に、アニメの「ア の字 から教えていったんですね。今、韓国で、アニメーション、大分盛んになっていると思うんですけど、多分私たちが教えた人たちが中心になって、その次の世代がだんだん広めていって、今の韓国のアニメの降盛があると思うんですね。だから、言って見れば森川さんは、韓国アニメーションの育ての親というか、そういうことだと思います。「ベム 」の後、私は森川さんより第一動画を先に辞めたので、今日初めて聞くような話も沢山ありましたね。その後は「まんが日本昔ぱなし」を私がやって、また森川さんと一緒になったんです。森川さんという人はいつも前向きに物を考える、じっとしないで何かをやっていて、それが凄く新しいことをやっているんですね。だから、森川さんは絶対死ぬまでボケない、多分そういうタイプ の人なんで、すよ。さっき息子さんと話したんですが、たぶんコレが終わったらガ ックリくるんじゃなし、かつて言ってましたけども、僕はそうは思わない。次やることを、もう今から考えてるんじゃないかと思います。まあ、電話ではよく話するんですけども、なかなか会えなかった。お会いするのは今日が十数年ぶりです。 森川さんも 82 歳ですか。本当に日本のアニメ界にとっても貴重な「人間国宝 」みたいな方ですからね。とにかく、これからも頑張って、まあ、頑張ってというと無理しそうですから、マイペースでコツコツと、あまり急がずにやってください。
そして、これからもどうぞお元気で。」
又野さま、どうも有難うございました。お2人とも日本が世界に誇る「ジャパ ニメーション」の屋台骨を支えた一流のアニメーターでございます。また、「ベ ム 」という歴史的番組の当時の製作者たちが、3O 数年の時を経て今、一堂に 会したというのは、ここ嵐山町始まって以来の大変な事件ではないで、しょうか、
さて、ご講演の中にありましたが、心優しい先生は、今も韓国の弟子たちを欺いてしまったという意憐の念をお持ちです。しかし、実はこのストーリーには後日談がございますので最後にご披露させていただきます。あの韓国での辛い別 れから 3O 数年たった昨年の夏、ある日、先生のご自宅へ一本の国際電話がか かってきました。電話の主は、なんとアノ日の韓国の生徒の一人からです。彼は 片言の日本語で一生懸命に語ってくれたそうです。「森川先生、お元気ですか。多分、先生は覚えてなし、かも知れませんが、私はあのとき先生にアニメーション を教えていただいた 8O 人の生徒の一人です。お陰さまで今も先生に教えていただいたアニメを仕事に生活してます。これも、先生が一生懸命、教えてくださったお陰です。やっと、先生にお礼がし、えました。」とのことでした。この方が、 電話をかけてくれたことで、恐らくは先生もほんの少レ心の仕えが救われたのではないでしょうか。
先生は 2 度、海外で、アニメを指導されています。最初が戦時中に渡った中国、そして、今お話のあった韓国です。私は思うに、先生が渡ったこの時、史上初めてこの2 つの異国へアニメーション技術が伝わったのではないでしょうか、そ して、これが原点で、その後現地の方の努力により、アニメが根付いたのではないでしょうか。そう考えると、韓国や中国での、今日のアニメーション産業隆 盛の影には、アニメの伝道師・森川先生の惜しみない努力と、平和を願う心が絶 対にあるように思うのですが、皆さん如何でしょうか。
お話の最後にありましたが、先生の願いは、民族や国籍を超え、地球に暮らす全ての人間が皆、仲良く暮らす社会の実現です。
来年のワールドカップ日韓共同開催の反面、今まさに首相の靖国参拝や、はたまた歴史教科書問題など、半世紀を経た今もなお戦争の後遺症は続いています。
ですから、皆さん。今の時代を生きる私たちは、今こそ、かなわぬまでも絵によって世界の人たちの手を繋ごうとされた森川先生の果敢な人生に感謝し、そして誇りに思おうではありませんか。そして、今日からみんなで努力しましょう。
それでは、今日素晴らしいお話を頂きました森川先生と、そして 「 妖怪人 間ベム」という素晴らしい作品を私たちに残してくれた素敵な仲間たちに、もう一度大きな拍手をお送りください。
又野氏「どうも、皆さんこんにちは。 ( 表題を指し ) ここに「伝説のアニメータ ー」と書いてありますが、森川さんは我々アニメーターにとりましても、まさに伝説の人であるわけで、雲の上にいるような人です。とにかく、森川さんに追いつかなきゃダメだと、でもどんなに頑張っても森川さんの絵には敵わない。まあ、 森川さん自身の生きかたが漫画そのものという人ですが ( 笑 ) 。韓国の想い出というと、さきほどの森川さんの話とも少し重複するかもしれませんが、今から35 年位前ですね。私が 25 、6 歳、日韓基本条約がひかれて一年くらい経った頃 です。森川さんは暫らく前に行ってらして、私が後から行かされたんです。当時、韓国は軍事政権でしてね。だから、行ったら殺されるんじゃないかつて真剣に親や友達が心配してくれました。夜は戒厳令が敷かれていて、9 時以降は外出禁止なんです。私がソウルの空港についたのが、夜 1O 時過ぎだったと思いますが、東京から何も食べてなくて、とにかく食事をしたいと思っても応が全然開いてないんですね。一軒だけ果物屋が開いてて、やっとバナナを 3 本買い、ホテル で食べたのが最初の想い出です。今でこそ、素晴らしい文化の国ですが、その当時は本当に大変な国状でしたね。ここで、ホントにアニメが教えられるのかっていう状態で、鉛筆や紙だって満足に揃わないんです。そこで、森川さんと二人で最初3ヶ月位。その後は東京とソウルを行ったり来たりしながら、延べでは半年位いましたね。とにかく、森川さんと一緒に、アニメの「ア の字 から教えていったんですね。今、韓国で、アニメーション、大分盛んになっていると思うんですけど、多分私たちが教えた人たちが中心になって、その次の世代がだんだん広めていって、今の韓国のアニメの降盛があると思うんですね。だから、言って見れば森川さんは、韓国アニメーションの育ての親というか、そういうことだと思います。「ベム 」の後、私は森川さんより第一動画を先に辞めたので、今日初めて聞くような話も沢山ありましたね。その後は「まんが日本昔ぱなし」を私がやって、また森川さんと一緒になったんです。森川さんという人はいつも前向きに物を考える、じっとしないで何かをやっていて、それが凄く新しいことをやっているんですね。だから、森川さんは絶対死ぬまでボケない、多分そういうタイプ の人なんで、すよ。さっき息子さんと話したんですが、たぶんコレが終わったらガ ックリくるんじゃなし、かつて言ってましたけども、僕はそうは思わない。次やることを、もう今から考えてるんじゃないかと思います。まあ、電話ではよく話するんですけども、なかなか会えなかった。お会いするのは今日が十数年ぶりです。 森川さんも 82 歳ですか。本当に日本のアニメ界にとっても貴重な「人間国宝 」みたいな方ですからね。とにかく、これからも頑張って、まあ、頑張ってというと無理しそうですから、マイペースでコツコツと、あまり急がずにやってください。
そして、これからもどうぞお元気で。」
又野さま、どうも有難うございました。お2人とも日本が世界に誇る「ジャパ ニメーション」の屋台骨を支えた一流のアニメーターでございます。また、「ベ ム 」という歴史的番組の当時の製作者たちが、3O 数年の時を経て今、一堂に 会したというのは、ここ嵐山町始まって以来の大変な事件ではないで、しょうか、
さて、ご講演の中にありましたが、心優しい先生は、今も韓国の弟子たちを欺いてしまったという意憐の念をお持ちです。しかし、実はこのストーリーには後日談がございますので最後にご披露させていただきます。あの韓国での辛い別 れから 3O 数年たった昨年の夏、ある日、先生のご自宅へ一本の国際電話がか かってきました。電話の主は、なんとアノ日の韓国の生徒の一人からです。彼は 片言の日本語で一生懸命に語ってくれたそうです。「森川先生、お元気ですか。多分、先生は覚えてなし、かも知れませんが、私はあのとき先生にアニメーション を教えていただいた 8O 人の生徒の一人です。お陰さまで今も先生に教えていただいたアニメを仕事に生活してます。これも、先生が一生懸命、教えてくださったお陰です。やっと、先生にお礼がし、えました。」とのことでした。この方が、 電話をかけてくれたことで、恐らくは先生もほんの少レ心の仕えが救われたのではないでしょうか。
先生は 2 度、海外で、アニメを指導されています。最初が戦時中に渡った中国、そして、今お話のあった韓国です。私は思うに、先生が渡ったこの時、史上初めてこの2 つの異国へアニメーション技術が伝わったのではないでしょうか、そ して、これが原点で、その後現地の方の努力により、アニメが根付いたのではないでしょうか。そう考えると、韓国や中国での、今日のアニメーション産業隆 盛の影には、アニメの伝道師・森川先生の惜しみない努力と、平和を願う心が絶 対にあるように思うのですが、皆さん如何でしょうか。
お話の最後にありましたが、先生の願いは、民族や国籍を超え、地球に暮らす全ての人間が皆、仲良く暮らす社会の実現です。
来年のワールドカップ日韓共同開催の反面、今まさに首相の靖国参拝や、はたまた歴史教科書問題など、半世紀を経た今もなお戦争の後遺症は続いています。
ですから、皆さん。今の時代を生きる私たちは、今こそ、かなわぬまでも絵によって世界の人たちの手を繋ごうとされた森川先生の果敢な人生に感謝し、そして誇りに思おうではありませんか。そして、今日からみんなで努力しましょう。
それでは、今日素晴らしいお話を頂きました森川先生と、そして 「 妖怪人 間ベム」という素晴らしい作品を私たちに残してくれた素敵な仲間たちに、もう一度大きな拍手をお送りください。
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