【嵐山市講演内容】
まずはご講演に先立ちまして森川先生につきましてのプロフィールを私の方 でご紹介させていただきます。
森川信英先生は、1918 年、京都市のお生まれです。9 歳の時に親と死別 され、天涯孤独の身となったことから、松竹の蒲田撮影所に入り住み込みで働き ます。仕事は、子役や雑用でしたが、そんなある日、処分しようとしたフィルム の中に「ボスコ 」というアメリカ製の動画を発見しました。もともと西陣織の 下絵師だった父親の血を受け継ぎ、幼い頃より絵画に対して非凡な才能を発揮 されていた先生は、この映画を日本版にパロディ化し、一本のアニメ映画をたった一人で製作してしまったのです。この作品は、大人たちの目にとまり、「か える剣法 」 と名づけられ劇場公開されました。若干 12 歳の時だそうです。その後召集により戦地へ 。当時は日本の植民地として、朝鮮に渡りました。その後、再び絵画の腕を見込まれ、史上名高い甘粕正彦氏率いる「満州映画協会 、通称、満映 へ勤めることになります。満映では、新たに動画製作にカを入れるため、先生を教官として現地の人たちにアニメの技術を 教えました。しかし、この中国でのアニメ製作は終戦により「満映 」 が解体したため僅か2 年余りで終了します。
そして日本に帰国後は、本格的にアニメーションの基礎を学ぼうと、当時日本での動画技術の第一人者・政岡憲三氏に師事します。しかし、すでに、この頃よりアニメ製作は大量動員による分業制が主流となっており、手作業に拘る先 生の作風には合わなかったといいます。そのため当時の子ども文化の主流だった紙芝居の作家をしながら生計を立て、厚生省、 ( 今の厚生労働省ですが ) 下請けで、広告や短編映画を作っていきました。この厚生省との付き合いには、し、かに も先生らしいエピソードがありますので、ご紹介させていただきます。終戦の 時、満州 ! から引き揚げる列車の貨物部分が火事になりました。列車の中は超満 員。まさに立錐の余地もありません。しかも悪いことに、その客車部分には、軍 が接収した大量のダイナマイトがつんであったそうです。パニックに陥った車 内から、頭に毛布を被った一人の若者が飛び出すと、たった一人でその火災車 両へ飛び移り、連結部分で切り離し事なきを得ました。なんと、その若者が誰 あろう若き日の森川先生だったのです。当然、乗り合わせた人たちは先生の勇気 ある行動に感謝し、このことは後にある本の中で顕彰されています。
その後日本へ帰ると、戦争で親を亡くした子どもたちが 町にあふれ返っていました。自らも孤児だった先生は、心を痛め、彼らを何とかしたいという一念で、 それまで絶対にしなかった街頭での似顔絵描きをします。その収入を彼らに与 え、またその残りは厚生省に寄付したりもしていたのです。紙芝居作家として生 活が安定した後も、寄付金を持つては、何度も厚生省へ足を運び、孤児の収容施設を建設するよう陳情していました。その際、当時の高級役人の中に、たまたま あの引き揚げ列車の中で先生に命を救われた方がおり、その時の恩返しもあり、 仕事をいただいたり、また念願だった厚生施設も作っていただけたのだそうです。196O 年代になり、テレビ受像機の普及と共に動画製作の需要も高まりました。先生は、コマーシャルフィルムを中心に数多くの賞を受賞されます。中で も NHK で、永六輔氏や黒柳徹子さん等とともに製作した「銀座の山賊」 というドラマとアニメが合体した異色作は、 62 年度の芸術祭技術賞を受賞するなど、アニメーターとしての最高の栄誉も獲得しています。その甲斐あって、銀座の 一等地に自らの会社を設立するまでになりました。しかし、その会社は 「革か 1 年余りで、たたむ事になってしまいます。先生は、ある依頼により、アニメを指導するため韓国に渡ることになったのです。ここで、あの伝説のカルトホラー 「妖怪人間ベム 」 などの名作をおっくりになりました。
そして我が嵐山町へは、今から 27 年前にお移りになり、その後は国民的人気番組「まんが日本昔ぱなし」 の中心アニメーターとして、ご活躍されました。
「まんが日本昔ぱなし」では、番組が終了した 7 年前までに 45 本以上の作品 を発表され、実に 76 歳まで現役を貫き通しておられます。恐らく、これはアニ メーターとしての、現役最年長記録ではないでしょうか。
さて、大変前置きが長くなりましたが、本日は森川先生の数あるエピソードの 中から、名作「妖怪人間ベム 」 と「黄金バット」 を製作した 1965 年から 69 年までの約四年間に焦点、を当て、日本と韓国をめぐる数奇な物語について語っていただこうと考えております。これは恐らく、今までどこにも語られること がなかった貴重な歴史の証言でもあります。それでは、皆さまお待たせいたしました。お待ちかね、森川先生にご議場願いましょう。皆さま、暖かい拍手でお迎えください。
( 先生講演へ )
まずはご講演に先立ちまして森川先生につきましてのプロフィールを私の方 でご紹介させていただきます。
森川信英先生は、1918 年、京都市のお生まれです。9 歳の時に親と死別 され、天涯孤独の身となったことから、松竹の蒲田撮影所に入り住み込みで働き ます。仕事は、子役や雑用でしたが、そんなある日、処分しようとしたフィルム の中に「ボスコ 」というアメリカ製の動画を発見しました。もともと西陣織の 下絵師だった父親の血を受け継ぎ、幼い頃より絵画に対して非凡な才能を発揮 されていた先生は、この映画を日本版にパロディ化し、一本のアニメ映画をたった一人で製作してしまったのです。この作品は、大人たちの目にとまり、「か える剣法 」 と名づけられ劇場公開されました。若干 12 歳の時だそうです。その後召集により戦地へ 。当時は日本の植民地として、朝鮮に渡りました。その後、再び絵画の腕を見込まれ、史上名高い甘粕正彦氏率いる「満州映画協会 、通称、満映 へ勤めることになります。満映では、新たに動画製作にカを入れるため、先生を教官として現地の人たちにアニメの技術を 教えました。しかし、この中国でのアニメ製作は終戦により「満映 」 が解体したため僅か2 年余りで終了します。
そして日本に帰国後は、本格的にアニメーションの基礎を学ぼうと、当時日本での動画技術の第一人者・政岡憲三氏に師事します。しかし、すでに、この頃よりアニメ製作は大量動員による分業制が主流となっており、手作業に拘る先 生の作風には合わなかったといいます。そのため当時の子ども文化の主流だった紙芝居の作家をしながら生計を立て、厚生省、 ( 今の厚生労働省ですが ) 下請けで、広告や短編映画を作っていきました。この厚生省との付き合いには、し、かに も先生らしいエピソードがありますので、ご紹介させていただきます。終戦の 時、満州 ! から引き揚げる列車の貨物部分が火事になりました。列車の中は超満 員。まさに立錐の余地もありません。しかも悪いことに、その客車部分には、軍 が接収した大量のダイナマイトがつんであったそうです。パニックに陥った車 内から、頭に毛布を被った一人の若者が飛び出すと、たった一人でその火災車 両へ飛び移り、連結部分で切り離し事なきを得ました。なんと、その若者が誰 あろう若き日の森川先生だったのです。当然、乗り合わせた人たちは先生の勇気 ある行動に感謝し、このことは後にある本の中で顕彰されています。
その後日本へ帰ると、戦争で親を亡くした子どもたちが 町にあふれ返っていました。自らも孤児だった先生は、心を痛め、彼らを何とかしたいという一念で、 それまで絶対にしなかった街頭での似顔絵描きをします。その収入を彼らに与 え、またその残りは厚生省に寄付したりもしていたのです。紙芝居作家として生 活が安定した後も、寄付金を持つては、何度も厚生省へ足を運び、孤児の収容施設を建設するよう陳情していました。その際、当時の高級役人の中に、たまたま あの引き揚げ列車の中で先生に命を救われた方がおり、その時の恩返しもあり、 仕事をいただいたり、また念願だった厚生施設も作っていただけたのだそうです。196O 年代になり、テレビ受像機の普及と共に動画製作の需要も高まりました。先生は、コマーシャルフィルムを中心に数多くの賞を受賞されます。中で も NHK で、永六輔氏や黒柳徹子さん等とともに製作した「銀座の山賊」 というドラマとアニメが合体した異色作は、 62 年度の芸術祭技術賞を受賞するなど、アニメーターとしての最高の栄誉も獲得しています。その甲斐あって、銀座の 一等地に自らの会社を設立するまでになりました。しかし、その会社は 「革か 1 年余りで、たたむ事になってしまいます。先生は、ある依頼により、アニメを指導するため韓国に渡ることになったのです。ここで、あの伝説のカルトホラー 「妖怪人間ベム 」 などの名作をおっくりになりました。
そして我が嵐山町へは、今から 27 年前にお移りになり、その後は国民的人気番組「まんが日本昔ぱなし」 の中心アニメーターとして、ご活躍されました。
「まんが日本昔ぱなし」では、番組が終了した 7 年前までに 45 本以上の作品 を発表され、実に 76 歳まで現役を貫き通しておられます。恐らく、これはアニ メーターとしての、現役最年長記録ではないでしょうか。
さて、大変前置きが長くなりましたが、本日は森川先生の数あるエピソードの 中から、名作「妖怪人間ベム 」 と「黄金バット」 を製作した 1965 年から 69 年までの約四年間に焦点、を当て、日本と韓国をめぐる数奇な物語について語っていただこうと考えております。これは恐らく、今までどこにも語られること がなかった貴重な歴史の証言でもあります。それでは、皆さまお待たせいたしました。お待ちかね、森川先生にご議場願いましょう。皆さま、暖かい拍手でお迎えください。
( 先生講演へ )
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます