森川信英さん秘話公表へ (朝日新聞原文)
製作事情がなぞに包まれているアニメ「妖怪(ようかい)人間ベム」や「黄金バット」は、実は韓国で製作した逆輸入作品だった。
作画監督は嵐山町の森川信英さん(82)で、65年から単身韓国に4年間渡り、韓国人スタッフを指導して一緒に描いた。
森川さんは12日、嵐山町の知識の森町立図書館で開かれる講演会でこうした事実を初めて明らかにし、絵を通じた国際交流の大切さを訴える。
65年は日韓基本条約が締結された年。
新しい時代に向けて両国で文化交流をという機運が高まり、東京・銀座でアニメ会社を経営していた森川さんに白羽の矢が立った。出征した中国東北部(旧満州)で戦時中、中国人に動画を教えた経験が買われ、韓国で動画指導をと持ちかけられた。
派遣先は韓国の民間放送会社・東洋放送の動画製作部。反日感情が渦巻くなか、日本の製作プロダクション・第一動画と共同でアニメ製作に取り組み、紙芝居で知られた黄金バットと、妖怪人間ベムを生み出した。
ベムは68年10月、日本でテレビ放送がはじまった。当時は「巨人の星」「あしたのジョー」といったスポーツ根性ものがはやり、暗い作風のベムは人気が出ない。最終回は人間のために戦ってきた妖怪人間たちが人間に裏切られる形で殺される内容だ。ベムの製作当時から製作費が削られ、人気が芳しくないこともあって東洋放送との共同製作がベム製作後に解消された。
「国をあげての支援だと思ったのに。いつの間にか日本側の事情で、自由な判断ができない状況になっていた」。
それでも、帰国する際には多くの韓国人スタッフが涙してくれたことが忘れられない。
森川さんとアニメの出会いは12歳の時。京都生まれで9歳で孤児になり、松竹の蒲田撮影所で雑務や子役をして働いた。
撮影所で米国の漫画映画「ボスコ」のフィルムを手に入れ、書き写して会得した。
満州映画社にいた42、43年ごろは当時珍しかったディズニー映画「ファンタジア」を見て触発された。
10代から77歳まで書き続けたCMやテレビアニメの作品は約200本。
ベム以後は英雄ものを嫌い、テレビ放映された「まんが日本昔ばなし」の製作に打ち込んだ。
最近では海外スタッフによるアニメ製作も珍しくないが、黄金バットやベムの作画を韓国人が手がけたことは知られていない。
再放送を重ねるうちに人気作品になったベムをすべて森川さんの功績として神様扱いするファンもいるという。
「私1人じゃ、あれだけの作品はできないよ」
昨年夏、韓国の教え子の一人から自宅に電話が入った。
「顔の丸い人だったでしょう?」。
驚きながらそう聞いた森川さんに、相手は感謝の言葉を述べた。
学んだことを生かし、韓国アニメ界の一翼を担う人材になっていた。
「現在の日韓関係には不安を感じる。これからの若者には世界中の人たち、だれとでも仲良くしてほしい。」
製作事情がなぞに包まれているアニメ「妖怪(ようかい)人間ベム」や「黄金バット」は、実は韓国で製作した逆輸入作品だった。
作画監督は嵐山町の森川信英さん(82)で、65年から単身韓国に4年間渡り、韓国人スタッフを指導して一緒に描いた。
森川さんは12日、嵐山町の知識の森町立図書館で開かれる講演会でこうした事実を初めて明らかにし、絵を通じた国際交流の大切さを訴える。
65年は日韓基本条約が締結された年。
新しい時代に向けて両国で文化交流をという機運が高まり、東京・銀座でアニメ会社を経営していた森川さんに白羽の矢が立った。出征した中国東北部(旧満州)で戦時中、中国人に動画を教えた経験が買われ、韓国で動画指導をと持ちかけられた。
派遣先は韓国の民間放送会社・東洋放送の動画製作部。反日感情が渦巻くなか、日本の製作プロダクション・第一動画と共同でアニメ製作に取り組み、紙芝居で知られた黄金バットと、妖怪人間ベムを生み出した。
ベムは68年10月、日本でテレビ放送がはじまった。当時は「巨人の星」「あしたのジョー」といったスポーツ根性ものがはやり、暗い作風のベムは人気が出ない。最終回は人間のために戦ってきた妖怪人間たちが人間に裏切られる形で殺される内容だ。ベムの製作当時から製作費が削られ、人気が芳しくないこともあって東洋放送との共同製作がベム製作後に解消された。
「国をあげての支援だと思ったのに。いつの間にか日本側の事情で、自由な判断ができない状況になっていた」。
それでも、帰国する際には多くの韓国人スタッフが涙してくれたことが忘れられない。
森川さんとアニメの出会いは12歳の時。京都生まれで9歳で孤児になり、松竹の蒲田撮影所で雑務や子役をして働いた。
撮影所で米国の漫画映画「ボスコ」のフィルムを手に入れ、書き写して会得した。
満州映画社にいた42、43年ごろは当時珍しかったディズニー映画「ファンタジア」を見て触発された。
10代から77歳まで書き続けたCMやテレビアニメの作品は約200本。
ベム以後は英雄ものを嫌い、テレビ放映された「まんが日本昔ばなし」の製作に打ち込んだ。
最近では海外スタッフによるアニメ製作も珍しくないが、黄金バットやベムの作画を韓国人が手がけたことは知られていない。
再放送を重ねるうちに人気作品になったベムをすべて森川さんの功績として神様扱いするファンもいるという。
「私1人じゃ、あれだけの作品はできないよ」
昨年夏、韓国の教え子の一人から自宅に電話が入った。
「顔の丸い人だったでしょう?」。
驚きながらそう聞いた森川さんに、相手は感謝の言葉を述べた。
学んだことを生かし、韓国アニメ界の一翼を担う人材になっていた。
「現在の日韓関係には不安を感じる。これからの若者には世界中の人たち、だれとでも仲良くしてほしい。」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます