みなさん、最近はほぼをほぼほぼと言っている方がほぼほぼなんじゃないかとほぼ思ってます。
アナウンサーですらほぼほぼ言ってるのを見るときがあります。今回はほぼほぼ回です。
さて、私はというとこの「ほぼほぼ」にどうも馴染めません。
みなさんはどんな時に「ほぼほぼ」使ってますか?「大部分」を表すとき?
おそらく「ほぼ」の強調系として「ほぼほぼ」が出たと思うのですが、若者はそれ以前に「超」「激」を使っていたはずです。
「超ヤバイ」「激カワ」など、場合によっては「ヤバイ」「カワイイ」と大して差が無くても使うと思います。
「ヤバヤバ」「カワカワ」でもなく(自分が知らないだけで、使ってる?)「激ほぼ」「超ほぼ」でもない。
何故「ほぼ」は重ね言葉で強調するのか?強調することで表現に巾が出るのか?
他に思いつく重ね言葉としては「だいたい」「ますます」があるけど「だい」とか「ます」で使わないような?
以前は使ったけど廃れたパターンかな?
ここで「ほぼほぼ」の定量化にチャレンジしてみよう。
全体を100(%)で表すとき「ほぼ」は80位じゃないだろうか。
「大体」-約70~
「ほぼ」-約80~90
「殆ど」-約85~95
「殆ど全部」-95前後
「全部」-100
さて、「ほぼほぼ」をどこに入れようか?そもそも入れる隙間があるのか?
当然「ほぼ」よりは大きくなるだろうが、「殆ど」よりは大きいとしなければないのではないか。
「殆ど全部」と「全部」の隙間は敢えて埋めに行けないだろうし、でも「殆ど」と「殆ど全部」の隙間もそれほど無い。
つまりは「ほぼほぼ」≒「殆ど」ではないだろうか。「ほぼほぼ全部」という言い方なら違和感も少なくなる。
ここで新たな疑問は『じゃあ「殆ど(ほとんど)」でいいんじゃない?』と言うことだ。
明らかに「殆ど」の方が言いやすい。(ローマ字入力は「ほぼほぼ」が短いけど)
別の切り口もある。先日、とある勉強会で説明を担当した30代(位に見えた)の方がこう言う場面があった。
『ほぼほぼ8割くらいの~』(自分の心の声:『出た!ほぼほぼ!』)
『ほぼほぼ4割くらい』(自心:『もはや「ほぼ」ですらない!』)
他にも「ほぼほぼ」を連発していた。
家に帰ってこういう事があって~と話しながらはたと気がついた。
もはや、一部で「ほぼほぼ」は接頭語の口癖と化しているのではないか。
自分も気をつけてはいるがついつい文の始めに「やっぱり」を入れてしまいがちになる。
『やっぱりこういうときは~』『やっぱり自分が思うに~』と言うようにだ。
先にも書いたが主に若者が生み出す新たな言葉として、「超」や「激」などを強調言葉として選ぶ、「ヤバイ」「飛ぶぞ」など本来の意味を超えて別の意味(ある意味強調)を持たせる、「チョリーッス」など本来の言葉に装飾を加えて暗号的に自分たちの立場を強調するなどは使うかどうかは別として言葉の成り立ち、使い方は理解できる。
他にも「しゃす」「り」なんかは単純に短縮言葉だし「~な感じぃ」「的な」は断定を避ける反強調だ。
しかし、「ほぼほぼ」は異端である。
(多数における使用者の意識の中では)強調も婉曲もしない、世代間ギャップを意識させるほどの新規性が無く暗号性も無い、使用上の意味も殆ど変わらず、何なら言いにくく・書きにくくしている。
にもかかわらず急速に市民権を得て日本語を侵食している。もういっそ日本語に「ほぼほぼ」が蔓延する事でデジタル世界での時限爆弾的な何かを狙った陰謀なのかと言いたくなってくる。ムーで取り上げてくれないだろうか。
いつものことだが、軽い気持ちで書き出して無駄に長くなって最後には訳が分からなくなる。
だが、こんな時秋田には話しを締める便利な言葉がある
とっぴんぱらりのぷう
アナウンサーですらほぼほぼ言ってるのを見るときがあります。今回はほぼほぼ回です。
さて、私はというとこの「ほぼほぼ」にどうも馴染めません。
みなさんはどんな時に「ほぼほぼ」使ってますか?「大部分」を表すとき?
おそらく「ほぼ」の強調系として「ほぼほぼ」が出たと思うのですが、若者はそれ以前に「超」「激」を使っていたはずです。
「超ヤバイ」「激カワ」など、場合によっては「ヤバイ」「カワイイ」と大して差が無くても使うと思います。
「ヤバヤバ」「カワカワ」でもなく(自分が知らないだけで、使ってる?)「激ほぼ」「超ほぼ」でもない。
何故「ほぼ」は重ね言葉で強調するのか?強調することで表現に巾が出るのか?
他に思いつく重ね言葉としては「だいたい」「ますます」があるけど「だい」とか「ます」で使わないような?
以前は使ったけど廃れたパターンかな?
ここで「ほぼほぼ」の定量化にチャレンジしてみよう。
全体を100(%)で表すとき「ほぼ」は80位じゃないだろうか。
「大体」-約70~
「ほぼ」-約80~90
「殆ど」-約85~95
「殆ど全部」-95前後
「全部」-100
さて、「ほぼほぼ」をどこに入れようか?そもそも入れる隙間があるのか?
当然「ほぼ」よりは大きくなるだろうが、「殆ど」よりは大きいとしなければないのではないか。
「殆ど全部」と「全部」の隙間は敢えて埋めに行けないだろうし、でも「殆ど」と「殆ど全部」の隙間もそれほど無い。
つまりは「ほぼほぼ」≒「殆ど」ではないだろうか。「ほぼほぼ全部」という言い方なら違和感も少なくなる。
ここで新たな疑問は『じゃあ「殆ど(ほとんど)」でいいんじゃない?』と言うことだ。
明らかに「殆ど」の方が言いやすい。(ローマ字入力は「ほぼほぼ」が短いけど)
別の切り口もある。先日、とある勉強会で説明を担当した30代(位に見えた)の方がこう言う場面があった。
『ほぼほぼ8割くらいの~』(自分の心の声:『出た!ほぼほぼ!』)
『ほぼほぼ4割くらい』(自心:『もはや「ほぼ」ですらない!』)
他にも「ほぼほぼ」を連発していた。
家に帰ってこういう事があって~と話しながらはたと気がついた。
もはや、一部で「ほぼほぼ」は接頭語の口癖と化しているのではないか。
自分も気をつけてはいるがついつい文の始めに「やっぱり」を入れてしまいがちになる。
『やっぱりこういうときは~』『やっぱり自分が思うに~』と言うようにだ。
先にも書いたが主に若者が生み出す新たな言葉として、「超」や「激」などを強調言葉として選ぶ、「ヤバイ」「飛ぶぞ」など本来の意味を超えて別の意味(ある意味強調)を持たせる、「チョリーッス」など本来の言葉に装飾を加えて暗号的に自分たちの立場を強調するなどは使うかどうかは別として言葉の成り立ち、使い方は理解できる。
他にも「しゃす」「り」なんかは単純に短縮言葉だし「~な感じぃ」「的な」は断定を避ける反強調だ。
しかし、「ほぼほぼ」は異端である。
(多数における使用者の意識の中では)強調も婉曲もしない、世代間ギャップを意識させるほどの新規性が無く暗号性も無い、使用上の意味も殆ど変わらず、何なら言いにくく・書きにくくしている。
にもかかわらず急速に市民権を得て日本語を侵食している。もういっそ日本語に「ほぼほぼ」が蔓延する事でデジタル世界での時限爆弾的な何かを狙った陰謀なのかと言いたくなってくる。ムーで取り上げてくれないだろうか。
いつものことだが、軽い気持ちで書き出して無駄に長くなって最後には訳が分からなくなる。
だが、こんな時秋田には話しを締める便利な言葉がある
とっぴんぱらりのぷう